第354夜「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」塚本晋也監督
世界三大映画祭の一つと称されるイタリアのベネチア国際映画祭には、一度だけ行ったことがある。2006年の第63回のときだから、もう20年も前になる。プレスパスを申請して取材を目的に参加したわけではなく、勤続20年の特別休暇を取って完全に観光気分の旅だったが、いろいろと刺激を受けて充実したひとときを過ごすことができた。
映画が上映される会場は、「ベニスに死す」(1971年、ルキノ・ヴィスコンティ監督)などの撮影が行われたリゾート地、リド島がメインで、宿泊していたベネチア本島からは水上バスで15分ほどかかる。水路が入り組んだ中世の街並みを愛でながらリド島に通う日々もまた乙なもので、夕食にふらっと入った立ち飲みバールではフランス俳優のジュリエット・ビノシュが歓談していたりして、ベネチアの街全体が映画の祭典で華やいでいる感じがした。
特に新鮮な驚きだったのは、三大映画祭と言いながらも敷居がとっても低かったことだ。その10年後に訪れたフランスのカンヌ国際映画祭とは違い、パスがなくても映画のチケットは直前で購入可能だったし、監督や出演者といったゲストとも間近に接することができた。今敏監督のアニメーション「パプリカ」(2006年)は今監督が2~3席前で見ていて、上映後のスタンディングオベーションにうれしそうにほほ笑んでいる姿を目の前で目撃したかと思えば、スパイク・リー監督がハリケーン「カトリーナ」の被害を収めた4時間15分のドキュメンタリー「堤防が決壊した時」(2006年)では、フィルムのつなぎが誤って上映されるというハプニングがあったにもかかわらず、登壇したリー監督も満足そうなら、詰めかけた観客から不満の声が漏れることもなく、温かい拍手に包まれたのが印象的だった。
青山真治監督の「こおろぎ」(2006年)の上映後には、こちらが日本人だと見て、地元民らしき若者に声をかけられた。スロベニアとの国境に位置するトリエステで新聞記者をしているという彼は、同業者の当方がプレスパスを持っていないと知るや「申し込めば、すぐにもらえるのに」と返してくれた。「何しろ厳格なカンヌと違って、ここはイタリア人の国だからね」との説明に、「わかった、次はそうするよ」と応じたが、残念ながら「次」の機会がないまま今に至っている。
そのベネチア国際映画祭が開催中だ。第83回となる今年は、ダニー・ボイル、イ・チャンドン、マーティン・マクドナー、ナンニ・モレッティといった名立たる名匠、巨匠の新作が、新顔の意欲作と並んでメインのコンペティション部門に出品されている。日本からも是枝裕和監督の「ルックバック」と塚本晋也監督の「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」が選出されているが、奇しくも両作品とも今週末の9月11日(金)に日本で劇場公開される。
アニメ映画化されている人気漫画を原作とした「ルックバック」も見るべきところは多いものの、ここは塚本監督の「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」を取り上げたい。とにかく衝撃度合いが半端ではなく、必見も必見、この時代だからこそ絶対に見なくてはならない1本に仕上がっていた。
原作は実在したベトナム帰還兵、アレン・ネルソンさんの自伝で、映画の主人公もそのままアレン・ネルソンとなっている。米ニューヨークの貧しい家庭で育ったアフリカ系アメリカ人のアレンは、18歳のときに志願してアメリカ海兵隊に入隊。沖縄のキャンプで訓練を積んだ後、ベトナム戦争の激戦地に派兵され、生きて再び母親や姉妹の住むニューヨークに帰ってきた。だが毎夜、悪夢を見てはうなされ、大きな音がすると戦場での出来事がフラッシュバックするなど正常な暮らしを送ることができず、怯える家族と離れていつしかホームレス生活を余儀なくされていた。
そんなアレンに小学校の教師をしている幼なじみのダイアンが、子どもたちにベトナム戦争について話してほしいと声をかける。嫌々ながらも引き受けたアレンは、子どもたちの前で一通り話をするが、終わった後、一人の少女が手を挙げて質問をする。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」と。
映画は、この帰還後のアレンの現実と、ベトナムの戦場で生きるか死ぬかの瀬戸際を潜り抜けてきた回想を、カットバックなどで絶え間なく交錯させながら織り上げる。中でも戦場のリアリティーは容赦なく、仲間が撃たれた瞬間や、ベトナム人の婦女子、年寄りを無差別に撃ち殺す場面など、恐怖と痛みが強烈に伝わってくる。大量に登場するベトナムの農民や米海兵隊員らの出演者も、まるで本当にあの時代にベトナムに存在していたような空気感をまとっていて、自分も実際に戦場に放り込まれたような感覚に陥るほど。もう全てのショットが真に迫っていて圧倒されるばかりだ。
一方で、帰還後の描写も興味深い。アレンはこんな自分を受け入れてくれたリンダという女性と結婚し、精神科医のニール・ダニエルズのカウンセリングを受けるようになる。いつもアレンに一方的に話をさせるダニエルズ医師は、最後に必ずこう問いかける。「君はなぜ、人を殺したんだね」
これに対して、アレンは「戦争だから」「命令だったから」と答えていらいらを募らせるのだが……、と、ここから先はもう映画を見てもらうしかない。このカウンセリングの結果、アレンは大勢の人に戦場体験を語ることになり、戦争の悲惨さ、無意味さを世界中の人々に知らしめる。
ここから感じ取れるのは、戦争の悲劇はいつまでも語り継がなくてはいけないという真実だ。その語り部は、必ずしもアレンのように実際に戦争を体験した人でなくても構わない。戦争体験者から話を聞いた聴衆も大いに語るべきだし、塚本監督のように映画といった創作物を手段にするのも立派な語り部だ。現に塚本監督は、このところ「野火」(2014年)、「斬、」(2018年)、「ほかげ」(2023年)と戦争の本質を厳しい視点で見つめた意欲作を作り続けている。俳優としても多忙な身ながら、この徹底した使命感は驚嘆に値する。
今回はキャストも、アレン役のロドニー・ヒックス、ダニエルズ医師役のジェフリー・ラッシュをはじめ海外の役者をそろえていて、主立った日本人役は日本での活動をサポートする黒井を演じたリリー・フランキーくらいだ。撮影もタイ、アメリカ、ベトナム、日本で行われており、まさに国際的な作品になっている。ベネチア国際映画祭は、過去に「KOTOKO」(2011年)がオリゾンティ部門で最高賞のオリゾンティ賞に輝いたほか、「鉄男 THE BULLET MAN」(2009年)、「野火」(2014年)、「斬、」(2018年)がコンペティション部門に選出されるなど、塚本監督にとって縁が深い。果たして今回の評価はいかに。現地時間の9月12日(土)に行われる授賞式が楽しみだ。
2026年9月11日(金)、kino cinéma新宿などで公開。
©Mr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners ©Allen Nelson/KODANSHA

塚本晋也監督「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」から ©Mr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners ©Allen Nelson/KODANSHA

塚本晋也監督「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」から。アレン(左、ロドニー・ヒックス)はダニエルズ医師(ジェフリー・ラッシュ)のカウンセリングを受けるが…… ©Mr. Nelson, Did You Kill People? Film Partners ©Allen Nelson/KODANSHA
