「山女」福永壮志監督

「遠野物語」は、岩手県の遠野郷の人々が見聞きしたり地域で言い伝えられたりしている話を民俗学者の柳田國男がまとめた書で、1910年(明治43年)に刊行された。日本の民俗学の原点とも言われ、よく知られるのはカッパやザシキワラシといった妖怪の類いの逸話だ。当方も取材で遠野市内にあるとおの物語の館や遠野文化研究センターを訪ねたことがあるが、ボランティアで民話の語り部をしている地元の人によると、カッパとザシキワラシとオシラサマが語りの三本柱だという。オシラサマとは恋に落ちて昇天した馬と娘の神様で、くだんの語り部は「『遠野物語』には暗い話が多く、『遠野物語』にこだわらず、小さいときにおばあさんから聞いた昔話を語っている」と話していた。

 福永壮志監督の「山女」は、その「遠野物語」に着想を得た作品だが、カッパもオシラサマも出てこない。山女は、山奥に住みついている美女として「遠野物語」にも記述があるものの、映画は民話の世界をはるかに超越していて、現代にも通用する日本的なるものをとことんまで追求した奥深い娯楽作品に仕上がっていた。

 時代は18世紀後半というから、天明の大飢饉のころに当たる。東北地方のその山あいの村でも農作物が満足に育たず、どの家も生まれたばかりの子どもを始末しなければならなかった。その手助けをしていたのが、祖先の不祥事によって蔑まれている家の娘、凛(山田杏奈)だった。

 ある日、父親の伊兵衛(永瀬正敏)が村の蔵から米を盗み出したと騒然となるが、凛が父親をかばって自分がやったと名乗り出て、村を出ていく決心をする。神隠しを装って凛が向かった先は、決して足を踏み入れてはいけないとされる山奥の神聖な森で、そこには得体の知れない山男(森山未來)が住みついていると言われていた。

 この山奥の描写がすさまじい。夜の場面なんて、大きなスクリーンでも何が映っているのかよくわからないくらい真っ暗で、うごめいているのは山男なのか別の何らかの動物なのかも判然としない。ただかすかな光を受けて、凛が全く混じり気のない純粋な目で何かをじっと見つめている。このまさに凛とした表情と光の当たり具合が絶妙で、演じる山田杏奈の目力も相まって思いっきり心を奪われた。

 その彼女の視線の先にある(に違いない)山男の風情もとてつもない。はっきりと正体を現すことなく、でも存在感は圧倒的で、オオカミやその他の動物とも同じレベルで対峙する。マタギとの格闘も動きに全く無駄がないし、さすがは身体表現に長けた森山未來が演じているだけのことはある。そもそもこの山男とは何なのかも示されず、でもここに存在していることがごく自然に感じられる。山男も「遠野物語」に出てくるとは言え、この想像力と創造性には度肝を抜かれた。

 さらに、この一連のいかにも日本的な神秘性を醸し出しているのが国際チームのクルーということに驚かされる。カメラワークはアメリカ人のダニエル・サティノフ撮影監督が担っており、山奥のシーンもさることながら、早池峰山などの峰々に靄がかかってかすんで見える遠景の鬱陶しさにはぞくぞくさせられた。台湾育ちのミュージシャン、アレックス・チャン・ハンタイが手がけたシンプルながら前衛的な響きの音楽も、この原風景的な情緒に溶け込んでいるし、真っ暗闇の中で360度のどこからでも聞こえてくる自然音にも研ぎ澄まされたセンスを感じた。整音はロサンゼルスで活躍する韓国人サウンドデザイナーのチェ・ソンロクが担当しているが、これもまた日本育ちとは異なる独特の感性が作用しているのかもしれない。

 何より福永監督自身、ニューヨークの大学で映画を学び、16年間もアメリカに滞在して映像の仕事に携わってきた国際派だ。長編第1作はニューヨークに渡ったアフリカ移民を見つめた「リベリアの白い血」(2015年)だし、最近もアメリカ絡みのオリジナルドラマシリーズを演出している。と思えば第2作は一転、監督の出身地である北海道を舞台に、アイヌ民族の少年のアイデンティティーをテーマに据えた「アイヌモシㇼ」(2020年)を発表。アイヌ民族の役はアイヌの血を引いた人が演じるということに執着し、アイヌ文化をとことんまで掘り下げた。

 今回の「山女」も日本の風土や歴史、文化に根ざしている物語ながら、一方でコロナ禍によって浮き彫りになった今日の社会性を反映させているところが興味深い。凛たち一家に対する非難はコロナ禍で問題になった自粛警察などと同質のものだし、女性蔑視や同調圧力といった厳然として変わらない日本の土着性が痛烈な風刺を伴って活写される。

 実は福永監督には今回、キネマ旬報の取材でインタビューする機会を得た。この作品のいきさつについて「日本や日本人というものの源流に触れたいというところから始まっている」と言いつつ、今の時代にこの映画を作る意味をできるだけ盛り込みたいと「現代の社会にリンクさせるよう方法を模索した」と認める。これはもしかすると、かつてない革命的な時代劇誕生の瞬間に立ち会っているのかもしれないね。(藤井克郎)

 2023年6月30日(金)からユーロスペース、シネスイッチ銀座、7月1日(土)から新宿K’s cinemaなど全国で順次公開。

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福永壮志監督作品「山女」から。凛(山田杏奈)は、村人が忌み嫌う仕事を請け負っていたが…… ©YAMAONNA FILM COMMITTEE

福永壮志監督作品「山女」から。凛(左、山田杏奈)は山奥の神聖な森の中で、得体の知れない山男(森山未來)と出会う ©YAMAONNA FILM COMMITTEE