「怪物」是枝裕和監督

 生涯で一度きりのカンヌ国際映画祭に参加したのは2016年のことだから、もう7年も前になる。会社の特別休暇を取って、航空運賃も宿泊代も自費で駆けつけた念願のカンヌだったけど、7年もたつとそろそろ記憶があやふやになってきている。プレス試写が行われたドビュッシーホールとプレスセンターの入っているビルを行ったり来たりして、その都度かばんの中身を改められておにぎりを没収されたりしたことは忘れないが、頑張っていっぱい出席した記者会見の中身はもうほとんど覚えていない。

 そんな中で最も印象に残っているのは、是枝裕和監督の「海よりもまだ深く」の出演者としてやって来ていた樹木希林の言葉だ。前年、河瀨直美監督の「あん」で初参加した樹木は、今さらカンヌに来たところで何も変わらないと高をくくっていた。ところが映画一色に染まったカンヌの雰囲気に触れて「これはちゃんとした芝居をしないといけない」と気づかせてもらったという。「街中が映画祭で喧騒の中にあるという状況を2週間も作り出すなんて、すごいことです。だからぜひ映画関係者は誰でも一度は来た方がいい」と語っていた。

 当時、是枝監督はすでにカンヌの常連で、2004年に「誰も知らない」で主演の柳楽優弥が男優賞を、2013年に「そして父になる」で審査員賞を受賞するなど、新作を発表するたびに出品。「ある視点」部門での選出だった「海よりもまだ深く」は無冠に終わったが、2018年の「万引き家族」でついに頂点のパルムドールを極め、2022年には韓国映画の「ベイビー・ブローカー」で主演のソン・ガンホが男優賞と、もはや賞に絡まない方が珍しいくらいの世界の巨匠にまで上り詰めた。

 で、今度の「怪物」である。カンヌ国際映画祭は5月27日に閉幕したばかりだが、脚本を手がけた坂元裕二が脚本賞受賞と、またも是枝作品が脚光を浴びた。確かにトレンディードラマで一世を風靡した坂元脚本の妙味は十分に生かされた作品だが、一方で紛れもなく是枝印が深く刻み込まれてもいて、改めて是枝監督の映画センスに脳天を撃ち抜かれた気分だ。

 映画は、シングルマザーの早織(安藤サクラ)がある夜、マンションのベランダから近くの雑居ビルで起きた火災を見ている場面から始まる。夫を事故で亡くした早織は、女手一つで一人息子の湊(黒川想矢)を育てていた。だが小学校5年生になった湊の様子が、最近おかしいことに気づく。スニーカーの片方がなくなっていたり、水筒から泥水が出てきたりしていたのだ。

 ある夜、帰りが遅い湊を探していると、廃線跡のトンネルの中で、一人で「怪物、だーれだ」と呼びかける湊を見つける。連れ帰る途中、いきなり走っている車から飛び降りた湊の異変に早織が問い詰めると、担任の保利先生(永山瑛太)に「湊の脳は豚の脳と入れ替えられた」と言われた挙げ句、殴られたことを打ち明ける。驚いた早織が学校に抗議に行くと、そそくさと姿を消した校長(田中裕子)をはじめ、先生たちの対応は極めて不誠実なものだった。

 一体、湊と保利先生との間で何が起きたのか。と早織の気持ちに同化して次なる展開を待っていると、場面はいきなり雑居ビルの火災の時制に戻って、今度は保利先生の視点から同じストーリーがつづられる。さらに最後は湊と、保利先生が「湊にいじめられている」と主張する同級生の依里(柊木陽太)の2人の視点から、三たび繰り返される。いわば黒澤明監督の「羅生門」の構成なのだが、早織の第1の視点でちりばめられていた数々の謎が、第2、第3の視点になるにつれてどんどん別の意味を持って広がっていくという展開はめちゃくちゃスリリングで、なるほどこれぞ脚本の妙だ、とものすごく納得した。

 一方で、さすが是枝監督だなと思ったのは、子ども同士のいじめや教師の無責任体質など、教育問題をはじめとした今日のさまざまな社会問題を巧みに織り込みながら、愛と友情や家族の絆といった普遍的なテーマをとことん突き詰めている点だ。早織は父親のいないわが子に寂しい思いをさせまいと必死だが、母親思いの湊はその必死さもわかるだけになかなかうまく心をコントロールできない。片や依里の父親は体裁ばかりを気にして息子の思いを慮ることができず、でも息子は学校では努めて明るく振る舞おうとする。果たして子どもたちの真意はどこにあるのか。

 その辺りの心情を、せりふで説明するのではなく、映像と音楽で表現するというのが是枝監督のすごみだろう。トンネルの先には朽ち果てた電車が置きざりにされていて、子どもたちはここを秘密基地に、数々のがらくたで飾りつけをする。その装飾はきらきらとまぶしく、ここで過ごす時間は夢のような魅惑の瞬間だ。だがその描写はあまりにも幻想的で、決して長くは続かないことを暗示させる。「幻の光」(1995年)から始まって、「ワンダフルライフ」(1999年)でも「誰も知らない」(2004年)でも「空気人形」(2009年)でも描かれてきた本当にはかない幸せの時間が、ここでも再現されている。

 その幻想と現実の皮膜を彩る音楽がまたいいんだよね。先ごろ惜しまれつつ他界した坂本龍一の繊細で耳に優しいピアノが、子どもたちの思いを実にいとおしく物語る。晩年は世界中のたくさんの映画に携わっていたが、映画音楽家としても特異な存在だったことを改めて実感した。

 是枝監督には、1994年に一度だけインタビュー取材をしているが、そのときに監督は「映画は話したくなるものとして存在している」などと話していた。「ワンダフルライフ」の公開前のころで、トロントやサンダンス、ロッテルダムといった世界の名だたる映画祭に参加して、見終わった人が次々と話をしに来てくれたのがとてもうれしかったと笑顔を見せていた。「怪物」も、きっと誰かと話したくなるのは間違いない。(藤井克郎)

 2023年6月2日(金)、全国公開。

©2023「怪物」製作委員会

是枝裕和監督「怪物」から。早織(右、安藤サクラ)は一人息子の湊(黒川想矢)の異変に気づく ©2023「怪物」製作委員会

是枝裕和監督「怪物」から。湊(右、黒川想矢)と依里(柊木陽太)の間に一体何があったのか ©2023「怪物」製作委員会