「急に具合が悪くなる」濱口竜介監督

 5月にフランスで開かれた第79回カンヌ国際映画祭で、主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒がそろって女優賞に輝いた話題も冷めやらぬうちでの劇場公開とは、何ともうれしい限り。確かに2人もものすごい存在感を発揮しているんだけど、同時にほかの出演者も、というより恐らく演技のプロではないであろう大勢の登場人物がとても魅力的だし、時代を見つめるテーマ性に撮影、音楽と娯楽性もたっぷりで、3時間を超える上映時間が全く苦にならない。すっかり世界の顔となった濱口竜介監督、またまたとてつもない映画を作り上げたものだ。

 物語はパリ郊外にある介護施設が舞台になっている。ここ「自由の庭」でディレクターを務めるマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、ユマニチュードという介護技術を導入、浸透させようと孤軍奮闘していた。ユマニチュードとは、ケアを受ける人を感情や意思を持つ一人の人間として捉えるという姿勢を明確にした介護の方法で、マリー=ルーは入所者一人一人の特質に合ったケアを目指すという方針を打ち出していた。だが職員が研修を受ける期間は人手不足は免れず、個々人にかかる負担も増える。ベテラン看護師のソフィ(マリー・ビュネル)をはじめ、マリー=ルーのやり方をあからさまに批判するスタッフも少なくなかった。

 そんなある日、彼女は街角で障害のある少年、智樹(黒崎煌代)と出会い、公園で保護者が現れるのを一緒に待つことになる。やってきたのは、智樹の祖父で俳優の吾朗(長塚京三)と演出家の真理(岡本多緒)の2人だった。パリで行う舞台公演のチラシをもらったマリー=ルーは、行き詰まっている仕事の気分転換も兼ねて吾朗の一人芝居を見に行ったところ……。

 この序盤のマリー=ルーの日常と施設の実情が実に丁寧にじっくりと描写されていて、あ、これは真面目な介護の話なのかなと思っていると、芝居の場面からどんどんとテーマが広がっていって、めちゃくちゃ深い精神世界へといざなってくれる。フランス語と日本語のせりふが大量に交わされるこの展開の鮮やかさに、もうぐいぐいスクリーンに引き込まれていったというのが正直な感想だ。

 中でも映画全体を貫くキーワードが「不可能を可能にする」という言葉で、マリー=ルーや真理の生き方とともに、この映画の構造自体とも絶妙に絡み合っている。例えばマリー=ルーが一観客として鑑賞する吾朗の舞台なんて、本当にいつまで続くのかというくらい、ほぼ芝居の全てを見せ切っていて、しかも芝居の内容自体も精神病院を廃止させたあるイタリア人の「不可能を可能にした」話なのだ。演劇のような身体表現だけでなく、認知症の介護も末期がんの治療も、いや、この閉塞状況に陥った世界経済についても、「不可能を可能にする」必要性はあらゆることに求められていて、自らの努力を諦めて資本主義の行き詰まりを外部に求めると戦争に行き着くという論議は、まさに今日の社会情勢を如実に反映させていてドキッとさせられる。

 と同時に、この表面上は激しくはないものの底辺で抗っている日常を映し出すカメラワークが素晴らしく、物語にさらに深みをもたらしている。冒頭、鳩が飛び立つ姿をずっとフレーム内で追いかけるところから始まり、吾朗の一人芝居に孫の智樹が自由に飛び入り参加するショットや、深夜の宿直部屋でほぼ真っ暗な中、マリー=ルーと真理が真剣に議論を交わす超長回し、さらに真理が入院した病室に吾朗や智樹が出入りするところをノーカットで見つめるなど、場面場面で創意工夫が凝らされている。

 パリの川岸と京都の里山を対照的に捉えるセンスも素敵で、誰が撮影監督を務めているのだろうと思ったら、「みんなのヴァカンス」(2020年)などギヨーム・ブラック監督作品を手がけているアラン・ギシャウアなるフランス人だった。「みんなのヴァカンス」はちょっと肩の力を抜いたようなオフビートのコメディーで、だらだらしたやり取りを邪魔にならない自然さで見つめている視点が楽しかったが、なるほど最適な人材を見つけてきたものだと感心した。

 プロダクションもフランスと日本、さらにはドイツ、ベルギーの合作となっているが、やはり何と言ってもキャストの多様性には触れざるを得ない。マリー=ルー役のヴィルジニー・エフィラはベルギー出身で、ポール・ヴァーホーヴェン監督の「ベネデッタ」(2021年)の何とも大胆で刺激的な演技が強く印象に残っているが、「急に具合が悪くなる」ではびっくりするような流暢な日本語を駆使している。個性をなるべく押し殺して、介護の裏方に徹した、でも芯の強い責任者になり切っていて、確かにカンヌの女優賞もむべなるかな。

 一方の真理を演じた岡本多緒は、恥ずかしながらこれまであまりよく知らなかった。日本生まれで、モデルとして渡仏してパリコレに参加。その後、「ウルヴァリン:SAMURAI」(2013年、ジェームズ・マンゴールド監督)や「マンハント」(2017年、ジョン・ウー監督)といった海外の映画に出演しているらしいが、ほとんど見ていない。フランス語のせりふなんかネイティブ並みだが、日本語も含めて理論立った長ぜりふを淡々と語る姿には圧倒される。2人のやり取りを眺めるだけでも、この映画を見る価値は十分にあるだろう。

 さらに「自由の庭」の職員、入居者に扮した多くの人の存在だ。あんなにいっぱい出てくるのに一人一人のキャラクターが際立っていて、しかもみんなもうずっとその生活をしてきたかと思うくらい風景になじんでいる。まさに濱口監督流のマジックであり、しかもこの何気ない日常の中から、高齢化社会に自己表現、資本主義から民主主義、医療の現実まで、実にさまざまな喫緊の課題が浮かび上がってくる。それでいて最後まではらはらさせる娯楽性に富んでいるのだから、いやいや、これはもう映画館に行かないという選択はないでしょう。(藤井克郎)

 2026年6月19日(金)、全国公開。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

濱口竜介監督のフランス、日本、ドイツ、ベルギー合作「急に具合が悪くなる」から。パリで出会ったマリー=ルー(右、ヴィルジニー・エフィラ)と真理(岡本多緒)は…… © 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

濱口竜介監督のフランス、日本、ドイツ、ベルギー合作「急に具合が悪くなる」から。パリで出会ったマリー=ルー(右、ヴィルジニー・エフィラ)と真理(岡本多緒)は…… © 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners