「悪は存在しない」濱口竜介監督

 世に言う世界三大映画祭のカンヌ、ベネチア、ベルリンで評判を取ったなどと聞くと、芸術性の高いちょっと小難しい映画ではないかと思われる御仁もいることだろう。現に受賞作の中には、ストーリーは正直よくわからないけど、シュールで前衛的な映像が五感を刺激するという逸品も少なくない。

 その点でいくと、発表するたびに海外の映画祭に招待される濱口竜介監督の作品は、題材は拍子抜けするくらい卑近で俗っぽい。恋愛など娯楽の要素もたっぷりで、全くとっつきにくいことはないのだが、でもなぜかいつまでも心の中に引っかかって残り続ける。

 それが芸術性というものなのか、「偶然と想像」(2021年)はベルリン国際映画祭の銀熊賞(審査員グランプリ)に輝き、「ドライブ・マイ・カー」(2021年)ではカンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞。そして最新作の「悪は存在しない」ではベネチア国際映画祭の銀獅子賞(審査員グランプリ)と、三大映画祭の審査員をことごとくうならせてきた。これって確かにすごいことなんだけど、どこがすごいのかはっきりと言えないのが、またすごいところなんだよね。

 今回の作品もモチーフは極めて身近で、非現実的な設定でもなければ、奇天烈な人物も出てこない。舞台は長野の緑濃い山里で、幼い娘の花(西川玲)と2人で暮らしている巧(大美賀均)が主人公だ。巧は川の水を汲んだり、薪を割ったり、地域住民のお手伝いをなりわいにしているが、近くの森にグランピング場を建設する計画が持ち上がる。グランピングとは誰もが気軽に楽しめるキャンプのことで、コロナ禍で打撃を受けた東京の芸能事務所が補助金を利用して推し進めようとしていた。芸能事務所から高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の2人がやってきて住民説明会を開くが、水源が汚染されるのではないかとの懸念から説明会は紛糾する。

 打開策を模索する事業主側は、住民の信頼が厚い便利屋の巧に仲介をしてもらおうと近づくが……、というストーリーはどことなくテレビの2時間サスペンスのようだけど、濱口作品は深みが違う。冒頭、この作品の企画にも携わった音楽担当の石橋英子による不協和音が流れる中、雑木林の中を真下から曇り空を仰ぎ見てカメラがゆっくりと移動する。永遠に続くのではないかと思われるこの限界ぎりぎりの長回しショットから、これはもうただものじゃないぞという不穏な空気感が充満する。

 やがて音楽がぷつっと切れて、森の中から小さな女の子が姿を現す。まるでバンビのような可憐な少女が象徴するものは何なのか。グランピング場はシカの通り道に作られるという説明も出てくるし、遠くではシカ撃ちのハンターによる銃声がこだましている。キジの羽を拾った花ちゃんに自治会長が「一人で森に行ってはいけないよ」と諭したりする場面もあって、うわあ、実に心がぞわぞわする。

 でも画面上は至ってのどかで、癒やしのテイストにあふれているんだよね。自然豊かな環境というのもあるかもしれないが、それ以上に出演者のたたずまいがあまりにも風景に溶け込んでいて、山里のごく当たり前の日常をそのまま写し取っているかのようなのだ。何しろテレビドラマでしょっちゅう見かけるような主役級は誰も出ておらず、主演の大美賀に至っては当初は運転手として参加していたスタッフだったらしい。ほかの住民も、子どものころからこの地域に住んでいたと思われるような人たちばかりで、でも決して素人がせりふを読まされているという芝居ではない。よくぞこんな奇跡的なキャスティングが成立したものだと驚嘆する。

 芸能事務所がコロナの補助金狙いでグランピング場を建設するというのも、タイムリーなのかアイロニーなのか。そんな都会人の生態は見方によっては極めて滑稽で、試写会でもあちこちから笑いが漏れていた。そうしてラストに訪れる衝撃はいかようにも受け止めることができる曖昧なもので、なるほど鑑賞者の感性に委ねるという芸術の神髄にかなっているのかもしれない。やっぱりこの作品、ただものじゃないわ。

 濱口監督には、まだ三大映画祭に参加する前の2015年11月、ロカルノ国際映画祭で注目された「ハッピーアワー」(2015年)のときにインタビュー取材をしているが、世界の映画祭はかなり意識していると話していた。「基準がフラットで、作品単体での評価をしてくれる場所ですからね。うまくいけば日本での興行にもつながる扉ですし」と意欲を示していたが、10年もたたないうちにすっかり世界の顔になろうとは、いや、本当にすごいとしか言いようがない。(藤井克郎)

 2024年4月26日(金)から東京・Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下、シモキタ-エキマエ-シネマ K2など全国で順次公開。

© 2023 NEOPA / Fictive

濱口竜介監督作品「悪は存在しない」から © 2023 NEOPA / Fictive

濱口竜介監督作品「悪は存在しない」から © 2023 NEOPA / Fictive