「PERFECT DAYS」ヴィム・ヴェンダース監督

 ドイツのヴィム・ヴェンダース監督と言えば小津安二郎作品をはじめ日本文化に造詣が深く、これまでにも何度となく来日しているが、残念ながら一度も取材したことがなかった。「パリ、テキサス」(1984年)、「ベルリン・天使の詩」(1987年)など大好きな作品も多く、「エンド・オブ・バイオレンス」(1997年)では産経新聞在職中で唯一、公式パンフレットに文章を寄稿している。ぜひともお会いしたい映画人の筆頭だったが、今年2023年、東京国際映画祭の審査委員長として来日した際、10月24日にTOHOシネマズ シャンテで行われた審査委員の記者会見に出席して取材を経験することができた。と言っても質問はしていないんだけどね。

 1993年の第6回のときにもヤングシネマ・コンペティション部門の審査委員長を務めているヴェンダース監督だが、初来日は1977年の夏、当時の西ドイツの新作映画を紹介する上映会のときだったという。東京に滞在中、小津監督の作品を貪るように見たが、編集台の上で字幕もついていなければ通訳もおらず、最後は自分も日本語を話しているような気持ちになったと打ち明ける。今回の来日での楽しみについて聞かれると、「とりあえずは映画祭の仕事に集中したいが、終わった後にも数日、滞在しているので、日本の友人のほか『PERFECT DAYS』の関係者にも会いたいと思っています」と答えていた。

「PERFECT DAYS」はヴェンダース監督が日本で撮影した新作で、5月のカンヌ国際映画祭では主演の役所広司が男優賞に輝くなど高い評価を得ている。東京国際映画祭ではオープニング作品に選出され、記者会見前日の10月23日には、東京宝塚劇場で行われた映画祭のオープニングセレモニーで審査委員長として挨拶に立った後、役所をはじめとした出演者らとともに再登壇。「こんな夢を見ました」と前置きして、「日本で映画を撮る。主演は役所広司でほかにも素晴らしい方々が出演している。カンヌ国際映画祭に出品される。そこで男優賞を受賞する。アカデミー賞の日本代表に選ばれるという夢は見なかったが、東京国際映画祭のオープニング作品として上映される。日本での最初の観客として皆さんに見てもらう。そんな夢を見たところで目が覚めて、今、私はここにいます」とユーモアたっぷりに話して、大喝采を浴びていた。

 このときは未見だったが、その後、試写で作品を見て、改めてヴェンダース監督の日本文化への敬意を強く感じるとともに、東京を舞台にここまで芸術性の高い娯楽作品を創造してくれたことに、住民の一人として感謝せずにはいられない。

 映画は公衆トイレをモチーフにしている。渋谷区が世界的な建築家らを起用して公衆トイレをリニューアルするプロジェクトを進めており、これら個性的なトイレの清掃員、平山(役所広司)が主人公だ。

 2階建てのアパートに一人で暮らす平山の毎日は変わらない。まだ夜も明けぬうちに道路を掃く竹ぼうきの音で目が覚め、ベランダの植木に水をやり、歯を磨く。作業着に着替えるとアパート前の自動販売機で缶コーヒーを買い、作業車に乗り込んでお気に入りのカセットをかける。流れるのはルー・リードやニーナ・シモンといった60年代、70年代のアメリカンポップスだ。

 現場に着くと手際よくトイレをピカピカに磨き上げる。若い同僚のタカシ(柄本時生)には「やり過ぎ」と揶揄されながらも次々とトイレを回り、お昼はいつもの神社の境内でサンドイッチを食べ、木々の隙間から降り注ぐ木漏れ日をフィルムカメラに収める。仕事が終わると近所の銭湯で一番風呂を浴び、地下鉄構内の居酒屋で軽くたしなんで帰宅。本を読んでいるうちに眠りにつくと、見る夢は決まって色がない。この間、平山はほとんど言葉を発さない。

 そんな淡々とした日常が来る日も来る日も繰り返される。無口な平山は自分のことは何も語らず、休みの日に作業着をコインランドリーで洗った後に出かける小料理屋で、ママ(石川さゆり)とわずかばかりの会話を交わす程度だ。

 この繰り返しが何とも言えず心地よい。時にはタカシが好意を寄せる女の子(アオイヤマダ)を連れてきたり、妹の娘(中野有紗)が家出して転がり込んできたりして日常が乱されるが、頑なに拒否するでもなく、やるべきことを淡々と続けるだけだ。過去に何があったのかことさら示されることもなく、全ては見る側に委ねられる。あれこれと想像を巡らしながら、ただぼーっと画面を見つめているだけで、何とも幸せな気分になる。

 この幸福感こそ、映画だからこそもたらされる魔術ではないか。横幅の狭いスタンダードサイズのスクリーンに、緑の木々や摩天楼の遠景、川の流れに高速道路、古いアパートに質素な部屋と、これ以上ないほどパーフェクトな映像が詰まっている。特に光と影のコントラストが見事で、木々を捉えたショットはヴェンダース監督がわざわざテロップで「日本には木漏れ日という言葉がある」と強調しただけのことはある美しさだ。

 映像だけではない。カセットの音楽をはじめ、地下街の雑踏、鳥のさえずり、竹ぼうきの掃く音と、一つ一つの音に細やかな配慮が施されている。東京ってこんなに繊細な街だったんだとびっくりする。

 そして何よりも主役の平山を演じた役所だろう。名優というのは今さら指摘するまでもないが、こんなにもせりふが少なく、かと言って感情を押し殺しているでもなく、平山という一人の男がただそこにいるというのをたたずまいや表情で表現する。いや、表現以前に、本当にただそこにいるのだ。カンヌで男優賞を獲得したのももっともで、何も語らずとも平山の人生がにじみ出る。

 ちなみに平山という役名は、「東京物語」や「秋刀魚の味」で笠智衆が演じるなど、小津作品でよく使われている名前だ。ヴェンダース監督はどこまで小津安二郎が好きなんだという気がするが、小津映画の世界も現代の東京も、全てひっくるめて監督なりの夢をわれわれに提供してくれた。スタンダードサイズの画面にあり余るほどの余白を、想像の翼を広げて楽しみたい。(藤井克郎)

 2023年12月22日(金)、TOHOシネマズ シャンテなど全国で公開。

© 2023 MASTER MIND Ltd.

ヴィム・ヴェンダース監督の日本映画「PERFECT DAYS」から。平山(左、役所広司)の元に姪(中野有紗)が転がり込んできたが…… © 2023 MASTER MIND Ltd.

ヴィム・ヴェンダース監督の日本映画「PERFECT DAYS」から。平山(役所広司)は寝る前の読書が日課だった © 2023 MASTER MIND Ltd.

東京国際映画祭オープニング作品としての上映前、「PERFECT DAYS」の出演者らと登壇してうれしそうに挨拶するヴィム・ヴェンダース監督(中央)=2023年10月23日、東京都千代田区の東京宝塚劇場(藤井克郎撮影)