「波紋」荻上直子監督

 荻上直子監督と言えば、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)のスカラシップ制度で作った劇場第1作の「バーバー吉野」(2003年)をはじめ、フィンランドで撮影した「かもめ食堂」(2005年)、南の島が舞台の「めがね」(2007年)と、どこかとぼけた味わいののんびりとした空気感が持ち味だった。「癒やし系」という言葉で紹介されることも多かったが、2017年にトランスジェンダーをモチーフにした「彼らが本気で編むときは、」(2017年)でインタビュー取材をしたとき、ご本人は「癒やしているつもりは一切ないんですけどね」と戸惑いつつ、「『バーバー吉野』のころから一貫して、ちょっとくすっと笑えるものを作りたいという気持ちはありました」と話していた。

 確かに今回の「波紋」なんか、主人公の心の中や人間関係に、まさに波紋が広がっていくような、癒やしとは真反対の作品だが、くすっと笑えるというのは変わらない。いやいや、くすっとどころか、めちゃくちゃ毒のあるブラックユーモアに包まれていて、これはこれで荻上監督のまた新たな一面かなとも思ったりした。

 スーパーでパートとして働く依子(筒井真理子)は新興宗教にはまり、飲料水は教団があがめる「緑命水」のペットボトルを大量に常備。自宅の庭には枯山水の波紋を描いて、一人で穏やかに暮らしていた。そんなある日、10年以上も前にふらっと出ていったきりだった夫、修(光石研)が突然、姿を見せる。がんにかかっていると打ち明け、高額な治療費の援助を求める修に対し、依子は怒りで打ち震えるが、宗教団体のリーダー(キムラ緑子)やパート先の清掃係(木野花)からアドバイスをもらい、何とか心を落ち着かせようと努力する。そんな折、遠くに就職した一人息子の拓哉(磯村勇斗)が、聴覚に障害のある恋人の珠美(津田絵理奈)を連れて帰ってきた。

 とまあ、主人公の依子は、本当はもっと楽に自分のペースで生きていきたいのに、でも周りのいろんなストレスからなかなか解放されないというジレンマに陥っていて、それがリアルとアンリアルの絶妙なバランスの上で構成されているというのが、いかにも荻上流だ。現実離れした癖のある人のように思える依子も、新興宗教にはまっているとは言っても決して狂信的ではなく、どこか冷めた目で宗教団体のことを見ているし、清掃係のおばさんとも、別に上下関係を気にすることなく普通にコミュニケーションを取っている。スーパーに来るたびに難癖をつけるじじい(柄本明)のあしらいもなかなかのものだ。

 むしろ周囲の人々の何気ない行動の方が、依子の目を通すと過剰に映るから面白い。夫の修も別に悪人というわけではないけれど、何で出ていったのかはっきりとは示さず、がんになったから帰ってきたというのも虫がいい話で、まあ無神経と言えば無神経なんだよね。息子はほとんど色がないが、連れて帰ってきた恋人が何となく厚かましく、でも聴覚障害者ということもあって依子は2人に何も言えない。

 宗教団体の人も、清掃係のおばさんも、それに飼い猫が勝手にほかの家の庭に入ってしまう近所の人(安藤玉恵)も含め、みんな特に悪気があるわけではないのに、でもどこか嫌なところが目について、その積み重ねが依子にいらいら感を募らせていく。こういう微妙な人物をそろえてドラマを組み立てるというのは極めて斬新な試みで、荻上監督のチャレンジ精神を垣間見た気がした。

 こうして何となく不安定な空気感で推移していった依子の物語は、突如として意表を突くクライマックスを迎える。この場面は本当に鮮やかで、装束といい、天候といい、音楽といい、そして何と言っても筒井真理子のパフォーマンスといい、もう何から何まで「やられたっ!」って感じなんだよね。またこのカメラワークがすごくて、ワンカットの長回しで前後左右上下360度を自由自在に飛び回る。「HANA-BI」(1997年、北野武監督)や「フラガール」(2006年、李相日監督)など数々の名作を手がけてきた撮影の山本英夫と荻上監督が組んだのは初めてのようだが、相性はばっちりというか、映画史に残る名ショットと言っていいかもしれない。

 それにしても、こういう中年女性の生き方に焦点を当てた作品って、日本映画に一番抜け落ちているような気がする。癒やしになるかどうかはともかくとして、同世代に向けた荻上監督からの力強いエールが、目いっぱいの創意工夫の中に詰まっているのは間違いないだろう。(藤井克郎)

 2023年5月26日(金)、全国公開。

©2022 映画「波紋」フィルムパートナーズ

荻上直子監督作品「波紋」から。スーパーでパートとして働く一人暮らしの依子(筒井真理子)に、さまざまなストレスがのしかかってくる ©2022 映画「波紋」フィルムパートナーズ

荻上直子監督作品「波紋」から。依子(筒井真理子)は自宅の庭に枯山水を描くことを日課にしていたが…… ©2022 映画「波紋」フィルムパートナーズ