「柳川」チャン・リュル監督

 福岡県の柳川には、一度だけ行ったことがある。産経新聞の社会部に所属していた20代の頃、参議院選挙の企画で福岡選挙区の情勢について出張取材をしたときで、話を聞きにいった農協青年部の委員長が柳川の近くに住んでいた。ほかに小倉や飯塚にも取材の予定が入っていたので、掘割などの観光名所は全く訪れていないが、取材後にその委員長と柳川市内の居酒屋で有明海のうまい魚をつまみに酒を酌み交わしたことを覚えている。

 その際、福永武彦の小説を原作に大林宣彦監督が柳川で撮った映画「廃市」(1983年)の話になった。住民の中には「廃れた市なんて」と否定的に捉える人が多かったと言いながら、その人は「どんな作品でも舞台になることは町の活性化につながる」と歓迎していた。確かに映画は暗い印象ながらも、大林監督らしい映像魔術が随所に施されていて、柳川を訪ねてみたくなった人は多かったのではないだろうか。

 中国・吉林省出身の朝鮮族で、現在は韓国を拠点に活動しているチャン・リュル(張律)監督の新作「柳川」も、特に観光スポットを強調しているわけではないけれど、この町の魅力が端々から匂い立ってくる映画だ。

 中国に住むドン(チャン・ルーイー/張魯一)は自分が不治の病に侵されていることを知り、疎遠になっている兄のチュン(シン・バイチン/辛柏青)を誘って、日本の柳川への旅を持ちかける。柳川は中国語で「リウチュアン」と読み、2人が若かりし頃にともに愛した女性、リウ・チュアンと同じ発音だった。チュアン(ニー・ニー/倪妮)は20年ほど前、2人の前から理由も告げずに姿を消していたが、今は柳川で暮らしているという。柳川に着いた2人は、どことなく屈折した主人(池松壮亮)のいる宿に逗留し、チュアンを探して町をさまよう。

 2人も柳川名物の川下りの舟に乗ったりして旅情を楽しんだりするのだが、ほかにも観光客はいるのに町は驚くほど静かで、その風景はどこか寂しげだ。そもそも、冒頭の兄弟の会話からして「東洋のヴェニスと言われているけれど、人がいない」などと語っているし、2人が出会う人たちも現実なのか幻想なのかはっきりしない。柳川はオノヨーコのルーツにつながる土地だと、弦が1本切れたギターを奏でる女性が現れたかと思うと、日本の笑い話をすると宣言したドンが、笑い話を忘れたと言って笑いを取るなど、何とも独特の不思議な緩さが作品を覆う。

 その世界観を彩る音楽も印象的で、BGMが一切ない代わりに、ナイトバーで歌手をしているチュアンをはじめ、さまざまな歌が流れる。2人が入った居酒屋の女将(中野良子)が美空ひばりの「悲しき口笛」を口ずさめば、宿の主人の娘が聴いているのはテレサ・テンで有名な「月亮代表我的心」だ。ほかにも川下りの外国人旅行客は韓国語の歌を歌っているなど、国籍にとらわれないアジアの歌の数々がけだるく響き、夢見心地にしてくれる。

 映像もかなり凝っていて、掘割沿いの夜道をドンとチュアンが自転車で進むショットなどは、川面の反射を利用して、まるで水中から見上げているようだ。このゆがみとほの暗さが、別れから20年の歳月を経たからこその2人の揺れる思いを表していて、心にじわっと染み入ってくる。

 チャン監督のことは不勉強で、あまりよく知らなかったが、これまでも「重慶」(2007年)や「イリ」(2008年)、「慶州(キョンジュ) ヒョンとユニ」(2014年)など、アジアの特定の土地を主題にした作品が多い。「柳川」の前には「福岡」(2019年)も撮っていて、「柳川」の公開に合わせて全国で順次上映されている。こちらは韓国人が主人公なんだけど、この機会にぜひとも見にいかなくっちゃ。(藤井克郎)

 2022年12月30日(金)から新宿武蔵野館など全国で順次公開。

チャン・リュル監督の中国映画「柳川」から。チュン(右端、シン・バイチン)とドン(中央、チャン・ルーイー)の兄弟は、柳川でチュアン(ニー・ニー)と出会う

チャン・リュル監督の中国映画「柳川」から。宿の主人(左、池松壮亮)も物語に独特の深みをもたらす