「コート・スティーリング」ダーレン・アロノフスキー監督

 無名の若手だったころにインタビューをした映画人が、その後どんどん大物になっていくのを見るのは、この仕事をしている楽しみの一つでもあるが、これが海外の監督となるとそうそうあることではない。そんな極めてまれなケースにダーレン・アロノフスキー監督がいる。

 長編第1作の「π」(1998年)を最初に見たのは、社内留学制度で米ロサンゼルス在住中の1998年8月1日、ソーテル地区にあったアート系映画館のNuart Theatreだった。数字をモチーフにした全編モノクロの前衛的な作品で、日本語字幕もない上映は、すでに留学して1年以上たっていたものの、ほとんど理解できていなかったような気がする。余談ながら当時の手帳を引っ張り出してみたら、土曜日だったその日はまず自宅で「走り来る人々」(1958年、ヴィンセント・ミネリ監督)のビデオを見た後、午後3時20分から郊外のパサデナにある映画館で「ハイ・アート」(1998年、リサ・チョロデンコ監督)を鑑賞。ロサンゼルスに移動して午後7時15分からアメリカン・シネマテークの劇場で「午後の網目」(1943年、マヤ・デレン、アレクサンダー・ハミッド監督)を見て、それから夜10時からの「π」に向かっている。まだ30代だったとは言え、映画に対して貪欲で精力的だったんだなあ、とわれながら感心する。

 その年の10月には帰国して、翌1999年6月、「π」の日本公開を前に初来日した当時30歳のアロノフスキー監督にインタビューする機会に恵まれた。そのころは粋がって英語の取材は通訳なしで通していたが、写真撮影の際、おちゃめに親指と人差し指でフレーミングのポーズを取ってくれるなど、スムーズにコミュニケーションを取ることができたという記憶がある。残念ながら録音したカセットテープはどこかに行ってしまったが、英単語を断片的に書きなぐってある取材メモは残っていて、ハーバード大学に進学後、視覚環境の講座を受講したことから映画の道に進むことになったと話していたことや、影響を受けた監督として、黒澤明、ロマン・ポランスキー、テリー・ギリアム、フェデリコ・フェリーニといった名前が並んでいる。

 すでに長編2作目の「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000年)も撮り終えたと言っていたが、その後「レスラー」(2008年)でベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞。さらに「ブラック・スワン」(2010年)ではナタリー・ポートマンがアカデミー賞主演女優賞、「ザ・ホエール」(2022年)ではブレンダン・フレイザーがアカデミー賞主演男優賞に輝くなど、今や世界の名匠と呼ぶにふさわしい活躍ぶりだ。返す返すも取材のときの録音テープがなくなってしまったのが惜しまれる。

 さて、そんなアロノフスキー監督の最新作が、「エルヴィス」(2022年、バズ・ラーマン監督)のオースティン・バトラーを主演に迎えたクライムアクション大作「コート・スティーリング」だ。英語の原題を片仮名で表記した邦題はちょっと分かりづらいが、アルファベット表記はCaught Stealingで、直訳だと「盗んで捕まる」というのは、野球用語で「盗塁失敗」、転じて「チャンスをつかもうとして失敗する」という意味だそうだ。

 高校時代、野球で将来を嘱望されていたハンク(オースティン・バトラー)は、ある事故によってプロ入りの夢が破れ、今はニューヨークでしがないバーテンダーをしていた。だが離れて暮らす母親が熱狂的なジャイアンツファンとあって野球好きは変わらず、恋人のイヴォンヌ(ゾーイ・クラヴィッツ)との仲も良好で、それなりに満足な毎日を過ごしていた。そんなある日、アパートの隣の部屋に住むパンク野郎のラス(マット・スミス)から数日だけ猫を預かってほしいと頼まれる。

 ここからのっぴきならない状況に追い込まれていく、という展開で、ロシア語を操る凶暴な2人組に、敵か味方か判然としない女性刑事(レジーナ・キング)、さらに彼女が「恐ろしい怪物」と呼ぶユダヤ人兄弟(リーヴ・シュレイバー、ヴィンセント・ドノフリオ)らが入り乱れて壮絶なバトルを繰り広げる。いわゆる巻き込まれ系のクライムサスペンスなのだが、ハンクはあくまでも気の弱い生真面目な男で、最後までスーパーヒーローにはならないというのが今っぽいのかなと感じた。

 何しろ犯罪の全容は最後まで示されず、それはハンクにとっても同様であって、見る側は主人公と同じように戸惑い、同じように危機をすり抜け、でも何でまた、という疑問符が常に脳裏につきまとう。混沌とした中で、自分の身を守るのは自分しかいないし、何が起こっているのかよく分からないままでも、とにかく何とかして生き延びるんだ、というのは、まさに国際情勢が混沌としているこの時代に合致しているのかもしれない。

 加えて、ハンクの過去のトラウマというのも小出しにしか示されず、それが目の前で起こっている危機の回避にどう絡んでくるのか、という部分が、絶妙なさじ加減で紡がれる。一方では主人公に共鳴してはらはらどきどきの冒険を楽しんで、もう一方では主人公が抱える謎の部分を推理する。怒濤のように押し寄せるバイオレンスやアクションの洪水の中で、全く別のベクトルを同時にたどっていくという視聴体験はなかなか刺激的で、さすがは理論に裏打ちされた視覚芸術を追究してきたアロノフスキー監督だけのことはあるなと感じ入った。

 この2つのベクトルがまた、ラストでは見事に合致するから、後味は実にすっきりと爽やかなんだよね。電話でしか登場しないお母さんといい、八面六臂の大活躍を見せるラスの飼い猫といい、ほっこりする小ネタの使い方も抜群で、文句なしに楽しめる娯楽作に仕上がっている。改めてアロノフスキー監督の幅の広さを実感した次第だ。

 2月には長編第2作の「レクイエム・フォー・ドリーム」(2000年)4Kリマスター版もリバイバル公開される。「π」の取材のときにすでに撮影を終えていたと話していた作品で、初公開時には見逃していた。一足先に試写で見せてもらったが、分割画面にタイムラプスやスローモーションなどさまざまな映像表現を駆使して、主人公たちがドラッグに溺れていく過程を強烈に活写している。粗削りの若々しいアロノフスキーと、円熟味を増した手練れのアロノフスキーをほぼ同時に味わえるのだから、やっぱり映画館通いはやめられない。(藤井克郎)

 2026年1月9日(金)、全国公開。

ダーレン・アロノフスキー監督「コート・スティーリング」から。しがないバーテンダーのハンク(オースティン・バトラー)はのっぴきならない事態に追い詰められる

ダーレン・アロノフスキー監督「コート・スティーリング」から。ハンク(右、オースティン・バトラー)は恋人のイヴォンヌ(ゾーイ・クラヴィッツ)とささやかな幸せを感じていたが……