「正体」藤井道人監督
このミッドナイトレビューも何だかんだで5年半、270夜まで漕ぎつけたが、これまでに取り上げた作品の最多監督となると断トツで藤井道人監督だ。第5夜の「新聞記者」(2019年)から始まって、第91夜「ヤクザと家族 The Family」(2021年)、第201夜「ヴィレッジ」(2023年)、第246夜「青春18×2 君へと続く道」(2024年)とすでに4本にもなる。もちろん多作ということもあるけれど、一つ一つテイストが違うのにどれも外れのない面白さで、しかも作家性にあふれていて何か語りたくなるんだよね。「幻肢」(2014年)でインタビュー取材をした後、ちちぶ映画祭のときは路上で向こうから声をかけてくれたし、謙虚で飾り気のない姿勢もすごく印象に残っている。
その藤井監督が、またまた気になる作品を世に送り出した。「正体」は「青の帰り道」(2018年)や「ヴィレッジ」でも組んだ横浜流星を主役に据え、染井為人の同名小説を原作に、脱走した死刑囚とその逃亡先で出会う人々、そして彼を執拗に追いかける刑事が織りなす手に汗握る珠玉のサスペンスに仕上がっている。
一家惨殺事件の容疑者として逮捕され、死刑の判決を受けた鏑木慶一(横浜流星)が救急車での搬送中に逃走し、日本中を恐怖に陥れる。鏑木は顔と名前を変えながらさまざまな場所に潜伏。工事現場で働く和也(森本慎太郎)、雑誌編集者の沙耶香(吉岡里帆)、介護施設職員の舞(山田杏奈)らに正体がバレそうになるが、すんでのところで又貫刑事(山田孝之)の追跡を振り切る。果たして鏑木の目的は何なのか。殺人事件の真相とは。
といったミステリー仕立てのスリルを、過去と現在を交錯させながらテンポよく畳みかけていく描写は、さすがは藤井監督ならではの疾走感だ。ホラーまがいのぞっとする場面があるかと思えば、沙耶香の部屋に居候するくだりではほほ笑ましい気分にさせられるなど、一つの映画でいろんなジャンルの要素が味わえる。さらに根底には袴田事件を彷彿とさせる冤罪の問題が横たわっているし、「信じる」という言葉が最後までキーワードになるなど、社会の在り方、人として生きるべき道といった深遠なテーマも内包する。もちろんサスペンスとしても最後までぐいぐい引きつけていくし、多様な角度から楽しませてくれる映画だと明言できる。
こんな藤井監督の魔術にすっかり心酔していると思われる出演陣が、またそれぞれいい味を出しているんだよね。主役の横浜流星は「信じる」という映画のキーワードを体現するかのように監督を信じ切っていて、次々と変装して逃げている鏑木の変容を、顔かたちだけでなく声色、表情、性格まで趣向を凝らす熱演ぶりだ。逃走先で鏑木と出会う吉岡里帆や山田杏奈らも、どこで「信じる」ようになるのか、その微妙な瞬間を巧みに表現しているし、逆に何を「信じる」のかを最後まで表に出さない山田孝之の無表情の中に潜むかすかな変貌も見逃せない。
雪深い地方の介護施設を空撮で捉えた映像などスケール感も相当なもので、第一級の娯楽大作であることは間違いないのだが、試写を見終わってふと、原作はどうなっているんだろうと好奇心が湧いた。さっそく文庫本を購入して600ページを超える大長編を一気に読み切ったが、驚くべきことに結末が全く違う。でもどちらも納得の展開でちっとも違和感がないばかりか、十分に書き尽くされているはずの原作を映画がさらに深めているような側面もある。映像作品ならではの創意工夫を目いっぱい感じることができたし、ここまで鮮やかに翻案するとは、やはり恐るべし、藤井道人監督、だ。(藤井克郎)
2024年11月29日(金)、全国公開。
©2024 映画「正体」製作委員会
藤井道人監督「正体」から。脱走した鏑木慶一(中央、横浜流星)を巡る人間模様がサスペンスを彩る ©2024 映画「正体」製作委員会
藤井道人監督「正体」から。さまざまに変装して逃亡する鏑木慶一(横浜流星)の狙いは…… ©2024 映画「正体」製作委員会