「ぼくが生きてる、ふたつの世界」呉美保監督

 コーダ(CODA)という言葉は、映画の「コーダ あいのうた」(2021年、シアン・ヘダー監督)で初めて知った。Children of Deaf Adults(聴覚に障害のある親を持つ子)の略で、家族の耳代わりになって自分を押し殺していたコーダの女子高校生が歌の才能を開花させていくというこの作品は、アカデミー賞の作品賞や助演男優賞を受賞するなど大いに話題を呼んだ。もともとフランス映画の「エール!」(2014年、エリック・ラルティゴ監督)をリメイクしたもので、こちらのオリジナルもやはり耳の聞こえない家族と自分の夢との間で苦悩する女子高校生の姿が印象的だった。

 両作品とも、家族の耳が聞こえない、ということをどのように映画で表現するかに工夫を凝らしていたが、映画評などでは割と賛否両論に分かれていたように思う。映画作家としては腕の見せ所でもあると同時に、かなり慎重な判断を求められるだろうことは想像に難くない。

 やはりコーダをモチーフにした「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、作家でエッセイストの五十嵐大が2021年に発表した自伝的エッセー「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を原作に、「そこのみにて光輝く」(2014年)などの呉美保監督が映画化した作品だ。コーダの青年の家族への思い、自我の葛藤がテーマになっているが、トリッキーな表現に頼ることなく主人公の悩み、苦しみに誠実に向き合っていて、「コーダ あいのうた」に匹敵する、いや、むしろより深みのある社会派娯楽作に仕上がっていた。

 宮城県の小さな港町に生まれた大(吉沢亮)は、塗装職人の父、陽介(今井彰人)と母の明子(忍足亜希子)、それに豪快な祖父(でんでん)、祖母(烏丸せつこ)と、家族みんなの愛情を一身に受け、健やかに育っていった。両親とも耳が聞こえなかったが、幼いころの大は、手話で通訳をしたり、背後から来る車から守ってあげたり、大好きな母と一緒に過ごす時間が楽しくて仕方がなかった。

 だが成長するにつれ、大は友達とは違う家庭環境に戸惑いを抱くようになり、中学に入ると、母の明子が明るく振る舞えば振る舞うほど遠ざけるようになっていく。このまま近くにいると母をますます傷つけてしまうと恐れた大は、父の後押しもあって一人、東京へと旅立つ。20歳の決断だった。

 やがて東京で手話グループのメンバーと知り合い、小さな編集プロダクションで書く仕事に携わるうちに、コーダとしてのわだかまりも薄れていく。というのが大まかなストーリーで、映画は大が生まれたときからの28年間の家族の軌跡を、実に丁寧にじっくりと積み上げる。

 まずもってびっくりするのは、この30年近い時の流れを、全く違和感なくたどることができることだ。主人公の大は、乳児、幼児、小学生とそれぞれの子役が演じているが、みんなぱっちりとした目でよく似ているし、中学から登場する吉沢亮にいたっては、年相応に成長していく過程を驚くほど自然にスクリーン上で示してくれる。まさに上映時間の1時間45分の中で、この大というコーダの青年のこれまでの人生を追体験するかのように、喜びも悲しみも苛立ちも、感情の全てを同じように感じ取ることができるのだ。

 これに輪を掛けて、大の両親役の忍足亜希子と今井彰人の存在感がとてつもない。2人とも実際に聴覚に障害のある聾者俳優だが、特に母親役の忍足は、大が生まれたばかりの若く溌溂とした20代から、夫が病に倒れたことですっかり弱り果てた50代までを、確かにその年月を生きてきた母親としてリアルに体現している。しかも手話だけでなく、言葉にならない言葉を必死に絞り出すかすれた声に、目で物を言う豊かな表情と、その表現力には目を見張るばかりだ。「アイ・ラヴ・ユー」(1999年、大澤豊、米内山明宏監督)の主演でデビューしたときも話題を呼んだが、着実に実力を積み重ねてきたことがうかがえる。

 それに何と言っても、この母子関係を見つめる呉監督の優しいまなざしが素晴らしい。大も明子も本当はお互いにいとおしくてたまらないのに、どうしてもよそよそしくしてしまう。そんな複雑な気持ちをあからさまに描くのではなく、乾いたタッチで、でもわずかな表情の変化で切り取ってみせる。

 特に久しぶりに宮城に里帰りした大が老け込んだ母と再会する場面は、無音の効果も相まってぐっと胸に迫ってくる名演出だ。こういった創意工夫も、耳が聞こえないということを決して哀れみではなく、ごく当たり前の人の営みとして盛り込んでいる。手話グループの面々のあけすけさといい、障害者への気づきを自然な感じで娯楽の中に落とし込んでいて、呉監督の人のぬくもりへの温かくも研ぎ澄まされた感覚に改めて感じ入った。

 呉監督にはこれまでに2度、インタビューをする機会を得ているが、2015年5月に「きみはいい子」(2015年)の取材で会った2度目のときは、身重の大きなおなかを抱えていた。子育てについて「創作する立場にいる限りは、恐らく何かしらの発見はあるような気がする。どんな経験でも一つ一つ大事にしていきたいし、いろんなことを楽しみたいなと思っています」と前向きに話していた。

 その後、2人目も産み育て、「ぼくが生きてる、ふたつの世界」が9年ぶりの長編監督作になる。出産、子育てを経て、どのような発見があったのか。この作品の母子を巡る圧倒的な描写が、どんな言葉よりも雄弁に物語っている気がした。(藤井克郎)

 2024年9月20日(金)から、東京・新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座など全国で順次公開。

©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」から。耳が聞こえない両親のもとで育った大(吉沢亮)は…… ©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会

呉美保監督「ぼくが生きてる、ふたつの世界」から。大(左、吉沢亮)は、成長するにつれて耳の聞こえない母(忍足亜希子)を遠ざけるようになる ©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会