「オッペンハイマー」クリストファー・ノーラン監督

 アカデミー賞で作品賞や監督賞など最多の7冠に輝いた、という以前に、2023年夏に全米で封切られたときから大いに注目を浴び、もしかしたら日本では公開されないかもしれないと危惧された超話題作が、いよいよ劇場にお目見えする。日本公開が危ぶまれたというのは、「原爆の父」として知られる物理学者のJ・ロバート・オッペンハイマーをモチーフにしながら、広島、長崎の原爆被害に全く触れていないという憶測情報に加え、同時期に公開されたアメリカ映画「バービー」(グレタ・ガーウィグ監督)の本国の公式SNSが、きのこ雲とバービー人形を合成した投稿画像にハートマークをつけて拡散するなど無神経に扱われた余波で、この「オッペンハイマー」に対する拒否反応がネット上にあふれたことが大きい。

 しかし映画を見もしないで批判するのはもってのほかだし、何より「インセプション」(2010年)や「TENET テネット」(2020年)のクリストファー・ノーラン監督が型通りの伝記映画を作るなんてありえない。IMAXのフィルムカメラで撮影されたという最高解像度の映像も大いに気になるところで、さっそくグランドシネマサンシャイン池袋のIMAXシアターで開かれた試写会に足を運んだが、いやいや、映画表現の新たな地平を切り開いてきたノーラン監督の紛うことなき一つの到達点とも言える大傑作になっていた。

 映画は、オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の人となりを時系列でたどることはしない。原子爆弾を開発するまでの苦難の道のりと同時に、共産党員のジーン(フローレンス・ピュー)や、後に妻となるキティ(エミリー・ブラント)との愛と葛藤、さらに戦後の冷戦下、共産主義者を弾圧する赤狩りの嵐が吹き荒れる中、非公開の聴聞会に呼ばれて釈明を求められる場面など、オッペンハイマーを巡るさまざまな局面が断片的に差し挟まれる。画面はその都度、カラーからモノクロになったり、シネマスコープサイズからスタンダードになったりと目まぐるしく切り替わり、登場人物も、オッペンハイマーを開発の主導者に抜擢した原子力委員会のルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)をはじめ、学者、軍人、政治家らが入れ替わり立ち替わり出現する。

 いったい誰が誰で、これがいつの時点のことか、うすぼんやりとしかわからないまま3時間の上映時間の半分くらいが過ぎたころ、ニューメキシコ州ロスアラモスの研究施設で行われた原爆実験が成功して歓喜の渦に包まれる。ここからの展開が、前半でちりばめられた疑問が一つ一つ氷解されるだけでなく、映像にしろ音声にしろ、オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーの演技にしろ、ノーラン監督のあらん限りの想像と思慮が目いっぱいつぎ込まれていて、ぐいぐい引き込まれる。特に原爆の広島投下後の祝賀会でオッペンハイマーがスピーチに立ったときの映像表現がすさまじい。原爆被害の映像が一切ないという批判など吹っ飛ぶような実にまがまがしい描写で、オッペンハイマーの後悔と苦悩が痛いくらいに伝わってくる。

 その一方で、オッペンハイマーに同情を寄せもしなければ敬意を払ってもいないというのがノーラン監督らしいところだ。作品には野心家のストローズを筆頭に、職務遂行しか頭にない陸軍将校のグローヴス(マット・デイモン)や、さらに強力な水爆の開発を推し進めようとする物理学者のテラー(ベニー・サフディ)といった対立軸も据えているが、だからと言って決してオッペンハイマーをヒーローとして描くことはしない。彼が学者の純粋な探求心から生み出したものは、人類にとって、いや、この地球上の生きとし生けるものすべてにとって取り返しのつかないくらいの禍根であって、それは今を生きるわれわれ一人一人が考えなければならない重大な課題なのだということを突きつけてくる。

 ラスト、名誉も信頼も失ったオッペンハイマーに、理論物理学の大家、アインシュタイン(トム・コンティ)が語りかける言葉が深い。その余韻からは、勝手な大義名分を掲げて戦争や弾圧に突き進む為政者たちへの憤りとともに、広島、長崎で原爆の犠牲になった人々への哀悼の念が強く感じられて、日本人も含めてぜひとも見るべき作品だなとの思いを改めて抱いた。(藤井克郎)

 2024年3月29日(金)、全国公開。IMAX劇場全国50館/Dolby Cinema/35㎜フィルム版同時公開。

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クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」から。原爆開発の使命を帯びたオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)は…… © Universal Pictures. All Rights Reserved.

クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」から。戦後、赤狩りの嵐の中、オッペンハイマー(右、キリアン・マーフィー)は妻のキティ(エミリー・ブラント)を伴って公聴会に出席する © Universal Pictures. All Rights Reserved.