「世界が引き裂かれる時」マリナ・エル・ゴルバチ監督
映画というものはときどき、作られたときと公開されるときのタイムラグで、とんでもなく大きな意味を持ってしまうことがある。ウクライナ出身のマリナ・エル・ゴルバチ監督が手がけた「世界が引き裂かれる時」は、2014年にウクライナ東部のドネツク州で起きた実話をモチーフにした作品で、2022年1月の米サンダンス映画祭でお披露目されて監督賞を受賞したほか、2月のベルリン国際映画祭ではパノラマ部門で上映されて喝采を浴びた。だがベルリンの閉幕から4日後の2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻。いまだに終結の兆しが見えない戦争が続いているのはご承知の通りだ。
その発火点とも言える親ロシア派武装勢力と反ロシア派住民との衝突を、ごく普通の若い夫婦の視点で描いているのがこの映画で、もう9年も前からこの地域はのっぴきならない状況が続いていたことがわかるし、悲劇の種はどこにでも転がっているということを見せつけられて、改めて映画の力の強さ、尊さに感じ入った。
ある未明、若い夫婦が交わす何気ない会話から始まる。夫のトリク(セルゲイ・シャドリン)とともにドネツク州の小さな村のはずれで乳牛を飼育しているイルカ(オクサナ・チェルカシナ)は妊娠中で、生まれてくる赤ん坊との新たな生活を心待ちにしていた。壁には南国のリゾート地の大きなポスターが張られていて、どこにでもある夫婦の寝室の風景だが、突然の轟音とともに部屋に大きな穴が開く。親ロシア派の武装勢力が誤って砲弾を撃ち込んできたのだ。
パニックになるイルカだが、彼女にとってはとにかく穴を塞いで、以前のような穏やかな生活を取り戻すということしか頭にない。だがトリクのもとには、友人たちから武装勢力に加担するようにと圧力がかかるし、銃を携えて押し入ってきた一団には、飼っている牛の肉を供出するように迫られる。一方で反ロシア派の弟、ヤリク(オレグ・シチェルビナ)からは、こんな武装勢力に支配された村から避難して、一緒に首都のキーウに行こうと促される。あたかもマレーシア航空の旅客機が近くで撃墜される事件が発生し、緊迫感が高まる中、イルカは果たしてどんな行動を選択するのか。
何しろ砲撃によって大きく開いた壁の穴と、ヤシの浜辺が大写しのポスターとのギャップが強烈で、悲惨な出来事はこうして不意にやってくるという真実を突きつける。冒頭、まだ映像が映る前の黒味の画面に、「落ち着いたら穴を塞ぐ大きな窓をはめるわ」といった女性の声が流れるが、後でイルカがこの言葉を発する場面が出てきたときは、あまりの切なさに胸が張り裂けそうになった。あくまでもイルカは穴が開く前の平穏な暮らしを求めていて、どんな悲惨な状況になろうとも希望は失わない。でも……、というところに、今はともに映画づくりに取り組むトルコ人の夫とトルコに住むゴルバチ監督の、ウクライナ人だからこその思いの丈が詰まっている。
緊迫感みなぎる展開ながら、まだロシア軍侵攻前のウクライナ南部で撮影された風景はあくまでものどかで、果てしなく地平線が広がる大地は豊かで美しい。だがソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演の「ひまわり」(1970年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)でも描かれた一面のひまわり畑は、すべて一様に枯れている。あの映画でもひまわり畑はウクライナでの悲惨な戦争の象徴だったが、枯れていることでさらに悲劇性を予感させる。大きな穴が開いたイルカの部屋からカメラをゆっくりと、本当にじわりじわりと水平にパンして、外の広大な景色を見せるショットには、イルカの不安に押しつぶされそうな気持ちが見事に表出されている。
さらにゴルバチ監督は、イルカの出産や乳牛の供出といった出来事を通じて、命の軽重について鋭く問いかける。こんなに大変な思いをして子どもを産み育て、こんなに手間暇かけて家畜を養う一方、1発の砲弾でいともたやすく大量の命が奪われる。独特の冴えを見せる映像センスの裏側に、ゴルバチ監督の行き場のない憤りが見え隠れする。
それにしても連日のように激しい戦闘のニュースがウクライナから届けられる今日、この作品が意味するものは極めて重い。ごく当たり前の日常の生活を欲するだけが、こんなにも困難で貴重だということを、改めて教えてもらった気がする。(藤井克郎)
2023年6月17日(土)から、シアター・イメージフォーラムなど全国で順次公開。
マリナ・エル・ゴルバチ監督のウクライナ、トルコ合作映画「世界が引き裂かれる時」から。妊娠中のイルカ(オクサナ・チャルカシナ)の自宅は、誤射によって大きな穴が開いてしまう
マリナ・エル・ゴルバチ監督のウクライナ、トルコ合作映画「世界が引き裂かれる時」から。イルカ(オクサナ・チャルカシナ)の自宅の穴の先には、広大なウクライナの大地が続いている