「オルガの翼」エリ・グラップ監督
ウクライナの映画というだけで、何だか胸が締めつけられる思いがする。ましてやロシアのウクライナ侵攻にもつながっている出来事がモチーフだと聞くと、何としても見ておかなければならないという気になるが、驚いたのは決して社会性だけの堅苦しい作品ではないということだ。体操選手の青春模様を絡ませて娯楽性もたっぷりと盛り込まれているばかりか、スポーツの躍動感も十分に味わうことができて、かなり志の高い映画に仕上がっていた。
この「オルガの翼」、設定は2013年というから、今から9年前のウクライナが舞台になっている。15歳の体操選手、オルガは、ウクライナ代表の一員として、欧州選手権を目標に日夜、トレーニングに励んでいた。だがある日、母が運転する車で帰宅途中、何者かに車で追突され、命の危険にさらされていることを知る。母はジャーナリストとして大統領の汚職を追及していた。娘に安全な環境で体操に打ち込んでもらいたいという母の思いもあって、オルガは単身、亡き父の故郷、スイスで代表入りを目指すことになる。
映画は、スイスで孤独な日々を過ごすオルガの苦悩を中心に、ウクライナの反政府運動を絡めて重層的に描かれていく。スイス人の父の家族はウクライナ人の母のことを快く思っておらず、オルガにも露骨に悪口を言ったりする。スイスの体操チームのライバルたちの中には、いきなり外国からやってきて大技を繰り出す生意気なオルガに対して不満を抱く者もいて、軋轢は絶えない。何より故国に残る母やチームメイトのことが心配で、練習にもまるで身が入らない。何とか欧州選手権に出場することになったが、その大会前夜のことだった。オルガは、ホテルの部屋を訪ねてきたコーチから、ウクライナにいる母が救急車で緊急搬送されたという衝撃的なニュースを聞かされる。
連日の戦争関連の報道によって、遠い日本でもウクライナの情勢について知る機会が増えてきたとは言え、この2013年時分の状況についてはほとんど知識がなかったというのが正直なところだ。当時のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は親ロシア派の人物で、汚職疑惑や経済政策の失敗などで市民の不満は頂点に達していた。2013年11月、首都キーウの独立広場に集まった市民と政府側が衝突。運動の輪はどんどんと広がり、翌2014年2月にはヤヌコーヴィチ大統領が追放される。その後、ウクライナに親欧州政権が誕生するが、これに反発する親ロシア派の東部2州は独立を宣言し、後のロシアのウクライナ侵攻へとつながっていく。
この市民運動は、欧州広場という意味の「ユーロマイダン革命」と呼ばれているが、映画では当時のニュース映像を効果的に駆使。広場に集まってきた群衆を排除しようとする警察の暴力や、レーニン像を引きずり下ろす市民の熱気などを織り込んで、一人ウクライナを離れて安全な場所に身を置くオルガの自責の念にリアリティーをもたらす。
これだけでも、1994年フランス生まれと若いエリ・グラップ監督、なかなかやりおるわい、といった感じなんだけど、さらに感心したのが体操競技の再現だ。陸上や水泳、それに球技なんかを扱ったスポーツ映画はごまんとあって、俳優の頑張りや映像の工夫で何となくそれらしく見えたりするが、体操となるとごまかしが利かない。よほどの運動神経でも短期間の修練で鉄棒の大車輪や平均台での宙返りなんてそうそうできないだろうし、まして15歳前後の少女という設定だ。それがオルガ役のアナスタシア・ブジャシキナをはじめ、ウクライナ人の親友を演じたサブリナ・ルプツォワに、スイス代表メンバー役のカテリーナ・バルロッジョ、テア・ブログリら、みんな跳馬も段違い平行棒もオリンピック選手ばりの高度な技を連発する。
それもそのはず、主演のブジャシキナはウクライナの代表補欠チームのメンバーだったそうだし、ほかにもウクライナやスイスの代表だった出演者が顔をそろえている。逆に言えば演技経験はゼロなのだが、それにしてはオルガが見知らぬ異国の地で苦闘し、ふるさとの社会情勢に心を痛める描写など、素人とは思えない深みを帯びている。大技のイェーガーに何度も何度も挑み続ける姿からはオルガの内面の葛藤がひしひしと伝わってきて、俳優としても一流の表現者であることがうかがえる。
さらに素晴らしいのが、彼女たちを見つめる視線のすごみだ。練習でも、本番の試合でも、オリンピックの中継では見かけないようなアングルやスピードで選手の表情に肉薄していて、相当な工夫が施されている。これが初長編というグラップ監督の信念の強さには舌を巻くことしきりだ。
監督がこの題材を思い立ったのは、ウクライナのバイオリン奏者からユーロマイダン革命の話を聞いたのがきっかけで、脚本から5年をかけて完成させたという。ロシアのウクライナ侵攻という悲劇に接し、次はどんな作品を構想するのか、興味は尽きない。(藤井克郎)
2022年9月3日(土)から東京・渋谷のユーロスペースなど全国で順次公開。
© 2021 POINT PROD – CINÉMA DEFACTO
フランス、スイス、ウクライナ合作のエリ・グラップ監督作品「オルガの翼」から。混乱のウクライナから単身スイスに渡って体操の練習に励むオルガ(アナスタシア・ブジャシキナ)だが…… © 2021 POINT PROD – CINÉMA DEFACTO
フランス、スイス、ウクライナ合作のエリ・グラップ監督作品「オルガの翼」から。ウクライナの首都キーウでは、ユーロマイダン革命の熱気に覆われていた © 2021 POINT PROD – CINÉMA DEFACTO