「林檎とポラロイド」クリストス・ニク監督
日本ほど世界の多種多様な映画をスクリーンで見ることができる国はないと言われる。目利きの配給会社が海外の映画祭などで発掘し、日本独特の文化であるミニシアターが助成なんかなくても頑張って上映してくれるおかげだが、最近はアート系洋画の入りが極端に悪くなっていると聞く。コロナ禍で映画館から足が遠のいてしまう心情は理解できるけど、映画は一期一会。今ここで見ておかなければ、二度と出合うことがない作品もいっぱいあるからね。
それに今はまだ海のものとも山のものともつかない新人監督かもしれないが、のちに巨匠と呼ばれるほどの名監督になることだってありうる。例えば「TITANE/チタン」が昨年2021年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを獲得したジュリア・デュクルノー監督。長編第1作「RAW~少女のめざめ~」の注目度は決して高くはなかったが、日本での公開時に産経新聞の映画評で取り上げたことは密かな自慢だ。今年2022年のベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた「Alcarras(原題)」のカルラ・シモン監督には、初長編の「悲しみに、こんにちは」で来日したときにインタビュー取材もしているもんね。
そんな可能性を秘めた監督の1人に、ギリシャ出身のクリストス・ニク監督がいる。1984年生まれのニク監督は、短編映画で評判を取る一方、リチャード・リンクレイター監督やヨルゴス・ランティモス監督の作品で助監督を務め、「林檎とポラロイド」で長編デビューを飾った。何ともシュールな笑いに包まれたコメディーで、ベネチア国際映画祭の先鋭的な作品を集めたオリゾンティ部門で上映されてはいるものの、知名度の高い俳優が出ているわけでもなし、よくぞ日本で劇場公開に踏み切ってくれたものだと配給元には感謝の言葉しかない。
何せこの映画、前提となる舞台設定からぶっ飛んでいる。どうやら巷では記憶喪失になる奇病がはやっているらしく、ラジオのニュースでも病院の対策法が報じられているし、主人公の男が出かけると、やはり記憶を突然に失くした男が近所で駐車トラブルを起こしている。
主人公自身もバスの終点で運転手に起こされ、記憶がなくなっていることに気づく。病院で診てもらうと「治る見込みはない」と言われ、勧められたのが「新しい自分」というプログラムだった。古い記憶を取り戻すことは諦めて、新たな記憶を積み重ねることで人生をやり直そうというものだが、このプログラムが実に不条理で寓意に富んでいる。
最初は「自転車に乗る」「ホラー映画を見る」という他愛もないもので、それをいちいちポラロイドカメラで撮って、証拠として医者に見せなくてはならない。ほかの患者もみんな同じプログラムをやらされているから、例えば「車を運転してぶつける」という指令だと、あちらこちらで交通事故の車が続出する。やがて男は、同じ記憶喪失の女と出会ってグラスを傾ける仲になるが、彼女の目的は「誰でもいいから酒を飲んでトイレに誘う」というミッションのためだった。
と、かように無意味な指令が次から次へと繰り出され、それを淡々とこなすという展開なのだが、その流れの中でところどころ引っ掛かる箇所が紛れ込んでいる。この引っ掛かりは決して回収されないし、人によっては気づいたり気づかなかったり、あるいは本当に意味がある描写なのか、監督の単なる気まぐれなのか、さえ分からない。まさに10人が見れば10通りの解釈ができるような作品になっていて、言ってみれば映画の肝を観客に委ねているように思える。まあ大胆と言うか、ニク監督の思い切った試みに度肝を抜かれたというのが正直な気持ちだ。
それにしても、流行病が蔓延する世の中の漠然とした不安感といい、「新しい自分」プログラムの無意味さといい、まるでコロナ禍における社会の閉塞感や政治の無策ぶりを暗示しているかのように見える。2020年の製作だから、企画や脚本の段階では新型コロナウイルスはまだなかっただろうから、驚くしかない。それも強烈な風刺を込めたユーモアで揶揄していて、これはもうコメディーのカテゴリーでは収まり切れない怪作だ。
冒頭の「スカボロー・フェア」をはじめ、選曲のセンスも抜群だし、音楽と絵をマッチさせるテストなど、とにかく特異な感覚にはうならされるばかり。恐らく今後、世界中を驚嘆させる話題作をどんどん出してくるのは確実で、今のうちからこのニク監督、抑えておいた方がいいかもね。(藤井克郎)
2022年3月11日(金)から、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館などで順次公開。
©2020 Boo Productions and Lava Films
ギリシャ、ポーランド、スロベニア合作映画「林檎とポラロイド」から。「新しい自分」プログラムのさまざまなミッションをクリアする男だが…… ©2020 Boo Productions and Lava Films
ギリシャ、ポーランド、スロベニア合作映画「林檎とポラロイド」から。随所随所に奇妙な引っ掛かりが施されている ©2020 Boo Productions and Lava Films