「浜の朝日の嘘つきどもと」タナダユキ監督

 映画館好きとしては、映画の中に映画館が出てくるだけで、もう目頭が熱くなる。ましてや映画館にまつわるすてきなせりふがちりばめられているときては、涙があふれ出てくるのをこらえるのに大変だった。

「浜の朝日の嘘つきどもと」は、福島県南相馬市に実在する映画館、朝日座が舞台の作品だ。実在すると言っても、1991年を最後に通常営業はしておらず、現在は企画上映などがときどき行われるくらいだという。

 だが木造の建物は大正年間の1923年に開館した当時のままだし、何より南相馬市と言ったら東日本大震災で甚大な津波被害に見舞われた福島県浜通りに位置する。東京電力福島第一原発からもそう離れてはおらず、事故直後は市内のかなりの部分が避難区域に指定されていた。朝日座は、2013年にも「ASAHIZA 人間は、どこへ行く」(藤井光監督)という映画になっているが、震災を経験した人々が朝日座について思い思いに語るという極めてアーティスティックなドキュメンタリーで、災害と生活と芸術についての思索材料を提示するような作品だったという印象がある。

 今度の「浜の朝日の嘘つきどもと」はまたがらりと趣が異なり、人情味がいっぱい詰まった明快な娯楽映画になっていた。

 閉館を決めた朝日座に東京から若い女性(高畑充希)が訪ねてきて、「潰れてもらっては困る」と支配人(柳家喬太郎)に存続を迫る。茂木莉子と名乗る彼女は、強引に映画館のスタッフに収まり、あの手この手の改革で客足を取り戻していく。だがこの土地はすでに、複合レジャー施設への建て替えを計画している企業の手に渡っていた。

 莉子はなぜ、朝日座にそんなに肩入れをするのか。その謎が高校時代の回想シーンを織り交ぜて徐々に明らかになっていくのだが、この過去の場面で、映画愛、映画館愛が炸裂する。彼女に映画への興味を芽生えさせたのは、数学教師の茉莉子先生(大久保佳代子)で、この先生が教える基礎中の基礎の映画講座が珠玉の言葉に彩られている。

 中でもぐっとくるのが、「映画は半分、暗闇を見ている」というせりふだ。今はデジタルでの上映が主流だから違うけど、と断りつつ、茉莉子先生は説明する。フィルムの映写はシャッターを素早く開閉して1コマ1コマを投影し、それを連続させることで絵が動いているように見える。つまりシャッターが閉じている間は暗闇がスクリーンに映っているわけだが、その暗闇の残像を見て人々は笑ったり泣いたりしているのだ、と。映画が必要な理由について「残像現象に救われるネクラはいるはずだ」と断言する茉莉子先生には、心の底から快哉を叫んだ。

 映画が主題の作品だけに名画のフッテージも何作か登場するが、その選択にも注目だ。バスター・キートンの喜劇に若尾文子主演の「青空娘」(1957年、増村保造監督)、太地喜和子主演の「喜劇 女の泣きどころ」(1975年、瀬川昌治監督)など、手あかのついた紋切り型とはちょっと異質のセレクトで、タナダユキ監督の思い入れがうかがえる。自主映画の出身で、デビュー作の「モル」(2000年)では監督、脚本に主演から宣伝まで何でもこなしたタナダ監督ならではの映画愛がほとばしる。

 さらに言えば、映画以上に貫かれているのが、家族愛に勝る非家族愛というテーマだろう。東日本大震災、コロナ禍と、生活を脅かす災厄が相次ぐ中、映画などの娯楽が大打撃を受ける一方で、しきりに強調されてきたのが家族の絆だ。だが果たして家族は最も大切なものなのか。血よりも濃い人間関係があってもいいのではないか。食事もカラオケも銭湯も何でもありの複合レジャー施設は、趣味嗜好がばらばらの家族には都合がいいかもしれないが、映画しか味わえない無駄に広い空間の方が居心地のいい人たちだってたくさんいる。そんなかけがえのない人と最高の時間を過ごすことができる場所を潰してしまったら、もう二度と同じものは取り戻せない、と。

 決して声高な主張ではなく、あくまでも涙あり笑いありの人情喜劇なんだけど、コロナ禍でなかなか人と会えない今だからこそ、そんなメッセージを感じてしまった。うん、やっぱり映画は映画館で見なくっちゃ。(藤井克郎)

 2021年9月10日(金)、全国公開。

©2021 映画『浜の朝日の嘘つきどもと』製作委員会

タナダユキ監督作「浜の朝日の嘘つきどもと」から。福島県南相馬市に実在する朝日座で人情喜劇が展開する ©2021 映画『浜の朝日の嘘つきどもと』製作委員会

タナダユキ監督作「浜の朝日の嘘つきどもと」から。莉子(高畑充希)は、森田(柳家喬太郎)が支配人を務める朝日座の仕事を手伝うが…… ©2021 映画『浜の朝日の嘘つきどもと』製作委員会