「モロッコ、彼女たちの朝」マリヤム・トゥザニ監督
モロッコのカサブランカと言えば、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが大人の恋物語を演じた「カサブランカ」(1942年、マイケル・カーティス監督)の舞台として有名だ。「Here’s looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」の名ぜりふや、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」のメロディーなどが心に染みる名作中の名作だが、さて、カサブランカの街がどんなふうに描かれていたかというと、ほとんど記憶にない。戦争中に作られた映画だし、現地でロケなんてしていないんだろうけど、地名だけが先行している典型的な例かもしれない。
1980年生まれのモロッコ人女性、マリヤム・トゥザニ監督が初の長編映画に挑んだ「モロッコ、彼女たちの朝」は、現代のカサブランカを舞台にした社会派娯楽作だ。モロッコ最大の商業都市であるこの街に象徴される旧弊と改革のせめぎ合いが描かれるが、決して声高に主張するわけではなく、奇跡的な瞬間がいっぱい映り込んだ繊細で美しい作品に仕上がっている。
臨月のおなかを抱えた若い美容師のサミア(ニスリン・エラディ)は、住み込みで働かせてくれるところを探してカサブランカの街をさまよっていた。だが美容院はおろか、どの店も門前払いで追い返されてしまう。小さなパン屋でも即座に断られたサミアは、仕方なく歩道で野宿を決め込むが、パン屋の女主人、アブラ(ルブナ・アザバル)は、店の近くに居座られてはたまったものではない。仕方なく一晩だけ泊めることにしたが、夫を亡くしたアブラは、女手一つで幼い娘のワルダ(ドゥア・ベルハウダ)を育てていた。
こうしてアブラ、ワルダ母子とサミアとのちょっと危うげな同居生活が始まるが、特にこれといった出来事が起こるわけでもないのに、とても豊かなドラマが紡がれていく。生活のためにパンを焼いてはいるものの、決しておいしくはないアブラに対して、パン作りが得意なサミアは何とかお役に立ちたいと控えめに手伝う。そんな心優しいサミアが来たことがうれしくて仕方がないワルダを見て、アブラは複雑な思いを抱く。
女性同士のこの何とも入り組んだ心理描写を、それぞれの表情にできるだけ肉薄してえぐり出していくカメラワークが素晴らしい。手持ちカメラなのにほとんどぶれがなく、しかも彼女たち以外の背景はぼかして、ずっと近くで寄り添うように見つめていく。冷静で透徹した視点ながら、決して突き放してはいないという圧巻の映像を生み出したポーランド出身の撮影監督、ヴィルジニー・スルデージュのセンスにはびっくりした。
さらにこの映画のクライマックス、サミアの出産シーンは、驚異的を通り越して神がかっているとしか言いようがない。赤ちゃんを産んでからのショットはいったいどうやって撮影したのか、ドキュメンタリー以上とも言えるリアルさで、トゥザニ監督の執念を垣間見た気がした。
なぜサミアは妊娠して、縁もゆかりもないカサブランカの街を歩き回っていたのか。なぜアブラはかたくななまでにサミアを遠ざけようとしていたのか。その背景については、映画の中ではほとんど語られない。
ただ画面の背後から漂ってくるのは、モロッコ社会において未婚の母というのはタブーの存在で、それは伝統的な価値観のせいとともに、女性の側が自ら隠そうとしているからではないか、と訴えているようにも思える。トゥザニ監督は、この作品を世に出すことで、女性たちに意識を変えるようそっと背中を押しているのかもしれない。
未婚の母に対する偏見は、日本でも決してないわけではない。この神々しいまでの映像を目に焼き付けたならば、もう古臭い間違った考えに固執することはできないんじゃないかな。(藤井克郎)
2021年8月13日(金)から、TOHOシネマズ シャンテなど全国で順次公開。
©︎ Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artémis Productions
モロッコ・フランス・ベルギー合作「モロッコ、彼女たちの朝」から。身重のサミア(右、ニスリン・エラディ)は、アブラ(ルブナ・アザバル)のパン屋に住まわせてもらうが…… ©︎ Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artémis Productions
モロッコ・フランス・ベルギー合作「モロッコ、彼女たちの朝」から。出産したサミア(ニスリン・エラディ)は…… ©︎ Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artémis Productions