「水を抱く女」クリスティアン・ペッツォルト監督
ドイツのクリスティアン・ペッツォルト監督のことを知ったのは、それほど前のことではない。2014年の「あの日のように抱きしめて」が初めて接する作品だったが、見ている間じゅうずっと、もやもやっとしたものが心の中に渦巻いていたというのが正直な印象だった。ナチスの強制収容所から命からがら生還したユダヤ人の女性がドイツ人の夫と再会するという話で、女性は深い傷を負い、手術で全く別の顔になっていたというのがミソなのだが、この夫婦のやりとりがどうにも違和感ありまくりだった。まあ夫婦の機微なんて家庭によって千差万別だから、これはこれで奥が深い作品なんだろうなと納得したが、2020年のベルリン国際映画祭で女優賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した新作「水を抱く女」を見て確信した。この監督の感覚はただものじゃない。
今度の作品は、ウンディーネという水の精の神話をベースにしている。この神話自体にあまりなじみがなかったが、映画のプレス資料によると「人間との結婚によってのみ不滅の魂を得ることができる女性の形をした水の精霊」とある。物語の多くは、愛する男が裏切ったとき、その男の命は奪われ、ウンディーネは水に帰るという流れになっているそうで、確かにそう言われればこの映画もそうなのかもしれないが、心配ご無用。神話を知ろうが知るまいが、そんなこととは関係なく、十分に、いや十分どころかおつりがくるくらいに興奮できる娯楽映画になっていた。
何しろ恐らくこうなるだろうという物語の法則をことごとく覆すような展開で、この意外性はちょっとほかではお目にかかれないのではないか。主人公のウンディーネ(パウラ・ベーア)は、ベルリンの博物館でガイドをしている都市開発の研究者だ。映画は、彼女がカフェで恋人のヨハネス(ヤコブ・マッチェンツ)に別れを切り出される場面から始まる。彼女は泣きながら叫ぶ。「あなたを殺す!」。何、この異様な冒頭は。
その後も予測不能なシーンが次から次へと押し寄せる。ウンディーネは、ヨハネスを探しに舞い戻ったカフェで、クリストフ(フランツ・ロゴフスキ)という潜水作業員と出会うのだが、そのときの描写がまた衝撃的すぎる。これがきっかけで付き合い始めた2人はある日、偶然にヨハネスとすれ違い、彼女の表情から疑念を持ったクリストフは……、というストーリーを書き連ねても、この作品のすごさは伝わらない。
とにかくここで起こっている出来事は、現実のことなのか、それとも誰かが見ている夢か幻か。その区別が何ら明示されないまま、どんどん次の場面に転換していって、頭の中にはクエスチョンマークが浮かびまくる。ウンディーネが勤める博物館に敷き詰められたベルリンの街の立体模型に、クリストフが潜る沼の底に住みついている巨大ナマズ、心臓マッサージをしながら歌う曲が「ステイン・アライブ」など、随所にちりばめられたさまざまな記号もどこか意味ありげで、でも行き当たりばったり的でもある。見ていると妙な宙づり感覚に陥って、とても不安な気持ちになるんだよね。
でも決して難解な映画ではないし、ストーリーだって破綻してはいない。テーマは単純な男女の恋愛だし、ただ何となく不思議な表現に彩られている。それって恐らく何千年も前から伝わる神話そのもので、もしかしたらペッツォルト監督は神話的な映画づくりを目指そうとしたのかもしれない。この監督の独特の感性に、ますます溺れてしまいそうだ。(藤井克郎)
2021年3月26日(金)から新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺など全国で順次公開。
© SCHRAMM FILM/LES FILMS DU LOSANGE/ZDF/ARTE/ARTE France Cinéma 2020
ドイツ・フランス合作映画「水を抱く女」から。ウンディーネ(パウラ・ベーア)はヨハネスと別れた後、クリストフと付き合い始めるが…… © SCHRAMM FILM/LES FILMS DU LOSANGE/ZDF/ARTE/ARTE France Cinéma 2020
ドイツ・フランス合作映画「水を抱く女」から。水の精であるウンディーネの神話をモチーフにしている © SCHRAMM FILM/LES FILMS DU LOSANGE/ZDF/ARTE/ARTE France Cinéma 2020