「すばらしき世界」西川美和監督

 西川美和監督と言ったら、今最も新作が期待される映画作家の一人だろう。これまで長編は5本と決して多作ではないけれど、どれも人間の深層心理をえぐるような刺激的な作品で、海外の映画祭でも大いに評判を取っている。文才にも長けていて、小説は2度、直木賞候補になっているし、今回も新作の「すばらしき世界」の公開に合わせてエッセイ集の「スクリーンが待っている」(小学館)を上梓。映画の構想から編集まで5年の間に監督が何を考え、どんな行動をしたかが、リズム感のある生き生きとした文体でつづられていて、あっという間に読み終えた。映画好きにはぜひとも購読をお勧めする。

 で、その6作目の長編映画なんだけど、これがまたぞくぞくするようなすばらしい作品で、本当にこの監督は期待を裏切らないなという思いを強くした。

 原案からオリジナルで通してきた西川監督にとっては初めての原作もので、佐木隆三が1990年に刊行した実録小説「身分帳」が基になっている。そのあたりのほれ込み具合も先ほどのエッセイ集に詳しいが、映画では時代を現代に置き換えて、生きていくのだけでも骨が折れるくらい不器用な一人の人間の葛藤を、いとおしさと冷徹さを併せ持った視点で織り上げた。

 主人公は、殺人の罪で13年間、刑に服していた三上(役所広司)。北海道の旭川刑務所を出所し、身元引受人の弁護士(橋爪功)が用意したアパートの一室で一人暮らしを始めるものの、直情径行型の性格が災いしてなかなかうまく振る舞えない。三上は幼いころに生き別れた母親と会いたいという思いがあり、番組で取り上げてもらおうと、自分の「身分帳」をテレビ局に送りつける。身分帳とは、受刑者の経歴が記されている個人台帳のようなもので、三上は服役中、自分のノートに几帳面な字でびっしりと書き写していた。

 このノートをプロデューサーの吉澤(長澤まさみ)から手渡されたのが、作家を志して制作会社を辞めたばかりの津乃田(仲野太賀)だった。ドキュメンタリー番組に仕立てたいという吉澤の依頼を受け、津乃田はビデオカメラを手に取材を始めることになる。こうして映画は三上と津乃田の2人を軸に展開していくのだが、古風で一直線の三上に対し、津乃田は現代人を代表するような立場で、つまり映画を見ているわれわれ自身でもある。曲がったことが大嫌い、弱きを助け、悪をくじく三上のキャラクターは、時代劇だったら間違いなくヒーローなんだけど、長いものには巻かれろ的な現代社会の風土では、歓迎されず、生きづらい。

 そんな三上に、じゃあわれわれはどう接したらいいの? という問いかけに、西川監督は決して単純に答えを出そうとはしない。必死になって自問自答を繰り返し、見る者にも真剣に考えさせる。何の落ち度もない人間が理不尽な目に遭っているのを見過ごしてしまう社会は、果たして幸せと言えるのか、と。

 この難題に豊かな味わいを与えているのが、三上を演じる役所のすごみだ。今さらとは言え、日本を代表する名優の存在感は圧倒的で、一人きりのシーンも、誰かにぶつかっていくシーンも、もう三上という人間以外の何者でもない。決して間違った生き方ではないんだけど、かと言って思い切り感情移入できる人物とは違う。こんな人が周りにいたら嫌だなと思う一方、でも放っておくことはできない。そんな複雑な感情を抱かせるような役に自然になりきることができる役者って、ほかにいるだろうか。

 もう一つ、西川監督の創造性が見事に発揮されているのがお天気だ。冒頭の雪深い北海道の風景に始まって、うだるような夏の日の青空、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨、そして嵐が近づく前触れの強い風と、三上の激しい感情に合わせるように刻々と表情を変える。ラストに見上げる空模様など、思わずうまいなあ、とうならずにはいられない。次回作もまた5年くらいかけるのかもしれないが、ますます目が離せない監督であることは確かだ。(藤井克郎)

 2021年2月11日(木)、全国公開。

©佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会

西川美和監督作「すばらしき世界」から。作家を目指す津乃田(左、仲野太賀)は、三上(役所広司)に密着取材を試みる ©佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会

西川美和監督作「すばらしき世界」から。何とか社会に溶け込もうと努力する三上(左、役所広司)だが…… ©佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会