「うたのはじまり」河合宏樹監督
「うたのはじまり」とはまた大仰なタイトルだが、確かにこのドキュメンタリー映画にはまさに歌が生まれる瞬間が映っている。音楽というものが持つ不思議な力に改めて驚かされると同時に、人間の無限の可能性をまざまざと見せつけられた気がした。
主人公は、齋藤陽道さんという写真家だ。1983年の生まれで、俳優の窪田正孝の写真集や、Mr.Children、クラムボン、森山直太朗らのアーティスト写真などを手がけているらしい。映画は彼の家族を中心にその日常生活をつぶさに見つめるのだが、実はこの齋藤さん、耳が聞こえない。妻の盛山麻奈美さんも、同じく耳の聞こえない写真家だ。
この夫婦に子どもが授かり、妻が出産するシーンから映画は動き出す。息子が生まれ落ちた瞬間をカメラで収める齋藤さんの表情は慈愛に満ちていて、本当にうれしそうだ。と同時に不安もよぎる。果たして両親とも耳が聞こえないで、ちゃんと子育てができるのだろうか。
こうして樹くんと名付けられた赤ちゃんと齋藤さん夫妻の奮闘の日々がつづられる。齋藤さんは耳が聞こえないながらも、言葉を発することはできるし、筆談でコミュニケーションは取れる。学校では音楽の時間が嫌いだったと言いつつ、リズム感はいいし、音楽劇の公演などにも参加して、積極的に歌を受け入れようとしている。樹くんをお風呂でじゃぶじゃぶさせていたときに「大丈夫」と初めて声を発した喜びや、齋藤さんがハミングする子守唄で樹くんがこっくり眠りに落ちる過程など、まさに奇跡とも思える瞬間がいくつも映像に刻み込まれていて、見ているこちらも実に幸せな気分に包まれる。
ここには何かを声高に主張したり、訴えたりといったものはない。だが赤ん坊が両親の愛情のもと、音楽を感じて言葉を発するようになるという根源的な人の営みが映り込んでいて、ああ、人間ってなんてすばらしいんだろう、という思いにさせられた。
何よりこの齋藤さんの温和な表情がいい。耳が聞こえないのにここまで言葉を発し、写真家として自己を確立するためには、並大抵の努力ではなかったはずだ。そんな裏の苦労はみじんも見せず、優しい笑顔で妻をいたわり、子どもをあやす。生きることの喜びにまで踏み込んで被写体に肉薄した河合宏樹監督の徹底ぶりにも恐れ入った。(藤井克郎)
2020年2月22日からシアター・イメージフォーラムなど順次公開。
© 2020 hiroki kawai / SPACE SHOWER FILMS
日本映画「うたのはじまり」から。樹くんに音楽の喜びを伝える齋藤陽道さん(中央) © 2020 hiroki kawai / SPACE SHOWER FILMS
日本映画「うたのはじまり」から。お風呂で樹くんをあやす齋藤陽道さん © 2020 hiroki kawai / SPACE SHOWER FILMS