「聖なる泉の少女」ザザ・ハルヴァシ監督
日本ではこれまであまりなじみがなかったが、南コーカサスの国、旧ソ連のジョージアは、映画大国として知られている。ソ連時代から多くのジョージア映画がソ連映画として作られていたし、「ざくろの色」(1971年)のセルゲイ・パラジャーノフ監督や「月曜日に乾杯!」(2002年)のオタール・イオセリアーニ監督もジョージアの出身だ。昨年は、旧ソ連時代を代表するテンギズ・アブラゼ監督の「祈り」(1967年)、「希望の樹」(1977年)、「懺悔」(1984年)の3部作が劇場公開されたり、10月に「コーカサスの風」と称してジョージア映画祭が開かれたりと、ちょっとしたジョージア映画のブームが沸き起こったのは記憶に新しい。
そんなジョージア映画の今を伝える1本が「聖なる泉の少女」だ。製作は2017年で、メガホンを取ったのは現在62歳のザザ・ハルヴァシ監督。首都トビリシの映画演劇大学でアブラゼ監督らに師事し、1990年に長編第1作となる「私が生きている場所」を発表したのを皮切りに、今回が4作目に当たる。
その新作だが、この映画の魅力を文字で伝えるのはなかなか難しい。舞台はジョージア南西部のトルコ国境に近い山間の村。代々、この地にある泉を守り、その水を用いて村人たちを癒やしてきた一家がいる。だが3人の息子たちはみな家を出て、キリスト教の神父、イスラム教の聖職者、無神論の科学者になっていた。年老いた父親は娘のナーメに未来を託すが、村外からやってきた若者と出会ったナーメは、自由な世界に憧れを持つようになる。折しも川の上流で水力発電所の建設が進み、泉の水にも異変が起きていた。
と、あらすじだけをなぞるとそれほど難解には思えないかもしれないが、とにかくせりふが極端に少なく、音楽もほとんど流れない。何の予備知識もなく見始めたら、そもそもこの父娘が何をしているのかということすらはっきりしない。泉のほとりで大きな魚を飼い、その魚をたらいにすくってじっと眺める。占いなのか、魔術なのか、よくわからないながら、村人同様、この静謐な映像をじっと見つめているだけで、何だか癒やされた気分になるから不思議だ。
宗教や科学に生きる息子たちはこの前近代的な儀式に否定的だし、跡を継ぐべきナーメも恋心との間で決心が揺れ動く。それどころか父親自身も時代遅れということは重々わかっているようで、文明化の波に押されてこの伝統を失っていいのか悩みに悩む。
この音のない神秘的な世界と対照的に、たびたび登場するのが発電所の建設現場に響く無機的な轟音だ。思うに、聖なる泉は地球の営みそのもので、古来、この地では人間の暮らしと調和して、尊い環境が保たれてきた。そのバランスが崩れてきていることの象徴が泉の異変であり、宗教や科学は地球が壊れていくことにはまるで無力で、ジョージアのこんな山深い村でも守れなくなっているという風刺が込められているような気がする。
そんな社会性を感じながらも、この映画の芸術性には本当にほれぼれする。ナーメを演じるマリスカ・ディアサミゼの横顔はまるで中世の絵画のように美しく、霧が込める湖の絶景も極めて幻想的。これらを発電所の醜さと対比させることで、ハルヴァシ監督は決して失ってはいけない大切なものを強調させたかったか。しっとりと心に染み入る1本だ。(藤井克郎)
2019年8月24日から東京・岩波ホールなど順次公開。
©BAFIS and Tremora 2017
ジョージア・リトアニア合作映画「聖なる泉の少女」。ジョージアの山深い村を舞台に、神秘的な世界が広がる ©BAFIS and Tremora 2017
ジョージア・リトアニア合作映画「聖なる泉の少女」。ジョージアの山深い村を舞台に、神秘的な世界が広がる ©BAFIS and Tremora 2017