「スパイの妻〈劇場版〉」(黒沢清監督)

 映画祭が徐々に通常に戻りつつある。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、例年5月に開かれていたフランスのカンヌ国際映画祭が中止に追い込まれるなど、自粛が続いていたが、8月ごろから開催に踏み切る映画祭がぽつぽつと出現。東京国際映画祭は10月31日の開幕で、コンペティション部門はないものの、国内外の新作、名作など100本を超える作品が上映されることが発表された。今年から同時期の開催となる東京フィルメックスにいたっては、たまたま日本にいる豪華な顔ぶれを国際審査員に招いてコンペティションを行うなど、ほぼ例年と変わらない内容になっている。

 欧米でも似た状況のようで、世界最古の歴史を誇るイタリアのベネチア国際映画祭は、9月12日に無事、幕を閉じた。客席を50%に制限するなど徹底した予防措置が取られる中、ゲストによるレッドカーペットもコンペティションも例年通りに実施。開会式には、カンヌやベルリン、ロッテルダム、サンセバスチャン、ロカルノといったヨーロッパの主要な国際映画祭の代表が顔をそろえ、コロナ禍を乗り越える連帯を訴えたという。

 そんな意義のある大会で、女優のケイト・ブランシェットを委員長とする審査員たちが監督賞に当たる銀獅子賞に選んだのが、黒沢清監督だった。出品作の「スパイの妻〈劇場版〉」は、黒沢監督が初めて戦時下という歴史ものに挑んだオリジナル作品で、物語といい、映像といい、芝居といい、すべてが見事に噛み合っていて、映画ならではの贅沢な時間を十二分に堪能できる超一級の芸術品になっている。

 舞台は1940年の神戸。貿易会社を営む優作(高橋一生)は、妻の聡子(蒼井優)を残して、物資の買い付けのために満州に向かう。大陸で趣味の映画も撮ると言って撮影機材を携えていったが、やがて帰国。だが夫は、妻の知らない何かを持ち帰っていた。

 夫婦の間に、いったいどんな秘密があるのか。その謎を、映画は決して高ぶることなく冷静に、しかし緊迫感を持って描き上げる。夫はスパイなのか。そして自分はスパイの妻なのか。信頼しているのに、だまし合う。本心が見えないサスペンスたっぷりのやりとりが最高で、そこに反戦のメッセージ性が加味されるという、こんな複雑で豊かなストーリーを、よくぞオリジナルで考えたものだ。

 この物語を支える映像の凝り方が、また素晴らしい。冒頭、何か8㍉映画を撮影する謎めいた場面から始まるが、廃墟っぽい金庫部屋のくすんだ色づかいは示唆に富んでいて、導入部だけでぞくぞくする。2人が繁華街を歩く長回しのショットなど、映画館の看板や飲食店が軒を連ねる中、クラシックカーや市電とともに多くの人が行き交う。いったいどうやって再現したのか、美術や撮影スタッフの本気度には恐れ入った。

 さらにぞくぞく感を増大させるのが、妻を演じた蒼井優の声だ。せりふ回しがいかにも時代性を感じさせ、凛としたたたずまいとともに、80年前に一気にいざなわれる。あの時代に生きていないわれわれは想像するしかないのだが、本当にあそこにいた人、と言っていいくらいリアルで、改めてすごい女優さんだ。

 冒頭の撮影場面だけでなく、2人が入った映画館で山中貞雄監督の「河内山宗俊」がかかっているなど、映画が重要なキーワードになっているのも、映画好きにはたまらない。しかも現在の新型コロナウイルス感染に通じる重大なテーマもはらんでいて、決して懐古趣味に終わっていない。むしろ今の政治情勢に絡めているのではないかと思うくらい、今日性のある問題意識が奥深く込められている。

 黒沢監督には、1996年に「勝手にしやがれ‼」シリーズ第5弾の「成金計画」で初めて取材して以来、何度かお会いしているが、どんどん国際的にビッグになっていて、一ファンとしてはうれしい限り。ベネチアの監督賞の次は何が待っているのだろう。ますますその動向から目が離せない。(藤井克郎)

 2020年10月16日(金)、全国公開。

©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

黒沢清監督作品「スパイの妻〈劇場版〉」から。妻(蒼井優)は夫(高橋一生)の行動に疑問を感じるが…… ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

黒沢清監督作品「スパイの妻〈劇場版〉」から。セットも衣装も芝居も、すべてが時代性を表現している ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I