「ドリーミング村上春樹」(ニテーシュ・アンジャーン監督)

 今年もノーベル賞の季節が来て、村上春樹の文学賞受賞はまたも持ち越しになった。村上文学に親しんでこなかった身からすると、もういい加減、落選のニュースで大騒ぎするのはやめたらいいんじゃないかと思うけど、それくらい注目しているファンが数多くいるということだろう。しかも日本だけでなく、熱烈なハルキストは世界中にいるということだが、この「ドリーミング村上春樹」なるデンマークのドキュメンタリー映画を観て、改めてその実感を強く抱いた。

 主人公はメッテ・ホルムというデンマーク人の女性で、学生時代に日本文化の魅力のとりこになった彼女は、1995年に村上春樹の小説「ノルウェイの森」と出合って以来、村上作品のデンマーク語訳を一手に引き受けてきた。デンマークで村上作品が広く読まれているのは彼女のおかげであり、その愛読者の一人に、この映画を手がけた若手のドキュメンタリー作家でインドに出自を持つニテーシュ・アンジャーン監督がいる。

 名翻訳家のホルムが、村上作品における曖昧な日本語をどうデンマーク語に訳すのか。映画は、その苦労の一端を垣間見せるとともに、彼女のこれまでの人生や他国の翻訳者たちとの交流、来日中の旅情と、実に多面的なアプローチで推移する。

 中でも興味深いのは、日本を一人旅する彼女が村上作品ゆかりの場所や人々を訪ね、思索にふけるさまを、巨大な「かえるくん」が見つめて小説の一節を日本語で語る幻想的な仕掛けだ。全編を通してたびたび登場する「かえるくん」とは、「かえるくん、東京を救う」という短編に登場するキャラクターだそうで、出没する場所やシチュエーションを含め、不勉強な当方にはとんとわからない。わからないながらも、バーの客やタクシーの運転手、レコード居酒屋の主人ら、ホルムが出会う日本人がみな一様に村上作品について楽しそうに語るさまを見ているだけで、村上ワールドに深くふれあうと何だかとてもすてきなことが起きそうだ、という気にさせてくれるから不思議だ。

 恐らくデンマークには、日本以上に村上春樹のことを知らない人がいっぱいいるに違いない。アンジャーン監督は、そんな無垢な人々に村上文学の奥深さを伝え、作品を読む楽しさに目覚めてもらいたかったのだろう。そのために編み出したのが、この独創的な演出であり、あえて村上春樹本人ではなく、メッテ・ホルムという作家以上に作品のことを愛している人物に迫ることだった。

 村上作品を知り尽くしている人がこの映画を観たら、また違った感想を持つかもしれない。でも一人の小説家にこんなにも惚れ込んで、とことんまで作品世界に肉薄しようとするドキュメンタリー映画は、そうはない。このチャレンジスピリットに触れるだけでも、一見の価値はあると言えるだろう。

 さあて、村上ワールド初心者として、まずは「かえるくん、東京を救う」を読まなくちゃ。(藤井克郎)

 2019年10月19日、東京・新宿武蔵野館などで順次公開。

©Final Cut for Real

デンマーク映画「ドリーミング村上春樹」から、村上作品の翻訳家、メッテ・ホルム ©Final Cut for Real

デンマーク映画「ドリーミング村上春樹」から、東京の街を見つめる「かえるくん」 ©Final Cut for Real