「家族を想うとき」(ケン・ローチ監督)

 イギリスを代表する巨匠、ケン・ローチ監督には、個人的に思い入れがある。初めてその作品に接したのは1996年に「レディバード・レディバード」(1994年)が公開されたときだったが、厳しい現実を写実的に描いた作風に衝撃を受け、今はなきシネ・ヴィヴァン六本木での特集上映で、「ケス」(1969年)などの過去作品に触れたものだ。

 その後、1999年に「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(1998年)が公開されたときは、無謀にも通訳を介さずに電話インタビューに挑戦。「社会的弱者を扱うのは、人間的な苦悩が最も顕著に現れるからで、それはすべての人類に共通のテーマだと思う」などと語ってもらった。そのとき、受話器に吸盤でくっつけて相手の声を録音する機材を購入したが、以後、一度も使ったことがないかもしれない。さらに一度しか訪れていない2016年のカンヌ国際映画祭では、「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)で最高賞のパルムドールに輝き、満面の笑みで記者会見に臨む姿を間近で見ることができた。

 それ以来となる今回の新作「家族を想うとき」も、やはり社会的な弱者を題材にしている。しかも、これまで描いてきた貧困層や移民といった特定の人たちではなく、どこにでもいるごく普通の家族が主人公であり、より切実度は増していると言えるだろう。

 妻と2人の子どもを抱えるリッキー(クリス・ヒッチェン)は、独立してフランチャイズの宅配ドライバーの仕事を始める。組織に属さず、どれだけ稼ぐかは自分の腕次第という職業に希望を抱くが、仕事に追われて家族との大切な時間を作ることができない。妻のアビー(デビー・ハニーウッド)も介護のパートに忙しい毎日を送る中、成績優秀だった高校生の長男、セブ(リス・ストーン)が問題を起こす。

 夫も妻も精いっぱいまじめに働いているのに、悪い方、悪い方に物事が進んでいく。その展開が何とももどかしく、やるせない。息子のセブも決して不良ではなく、ちょっと粋がっているだけなのに、学校や社会があまりにも杓子定規すぎて家族を追い詰めていく。日本にも当てはまる現代社会の余裕のなさを象徴するような状況で、いずこも同じなんだと身につまされる。

 一度だけ家族がぬくもりを取り戻す場面があり、その描写がすばらしい。久しぶりに4人で夕食の食卓を囲んでいると、アビーが世話をしている高齢者から呼び出しがかかる。じゃあみんなで行こう、とお父さんの宅配バンに4人で乗り込み、介護先に駆けつけるときの幸せそうな笑顔。これこそがこの家族の本来の姿なんだな、とほっとするのもつかの間、「他人を車に乗せているとクレームが入っている」と翌日、宅配のオーナーから文句が来る。大目に見てやれよ、と誰もが思うが、今の社会はことほどさように融通が利かないというのもまた事実なのだ。

 ローチ監督は、前作の「わたしは、ダニエル・ブレイク」を最後に引退表明していたのを撤回して、この作品を撮ったらしいが、社会の障壁がますます強固になっていく現状を考えると、まだまだ作り続けなくちゃならないかもね。(藤井克郎)

 2019年12月13日、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館など全国順次公開。

photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019
© Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019

イギリス、フランス、ベルギー合作映画「家族を想うとき」から。独立して宅配ドライバーを始めたリッキー(左、クリス・ヒッチェン)だが…… photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019tag

イギリス、フランス、ベルギー合作映画「家族を想うとき」から。独立して宅配ドライバーを始めたリッキー(クリス・ヒッチェン)だが…… photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019