「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」エレネ・ナヴェリアニ監督

 ジョージアという国を取り上げるとき、一言でどう修飾すればいいか、いつも悩む。地理的には東欧とも中東とも西アジアとも言えず、一番しっくりくるのは南コーカサスなのだが、そもそもコーカサスという地域もイメージしにくい。バルト三国みたいに隣国のアルメニア、アゼルバイジャンと合わせてうまい呼称があればいいが、それぞれ文化も歴史も違う。いまだに旧グルジアと併記する報道もあるが、ロシアとの対立を経てジョージア政府から日本での国名変更を何度も要請されたという経緯がある。いつまでもロシア語読みを冠するのは、果たしてどうなんだろう。

 アメリカに同名の州があることもさらにややこしくしているが、最近は単に「映画の王国」と称することにしている。それでも、一体どこ? というのは変わりないが、ソ連時代からテンギズ・アブラゼ、ラナ・ゴゴベリゼ、エルダル・シェンゲラヤ、ギオルギ・シェンゲラヤ、オタール・イオセリアーニといったジョージア出身の名匠、巨匠が数々の名作を残しており、世界に確固たる存在感を示してきた。そのジョージア映画の豊かさは、今もしっかりと受け継がれている。

「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」は、ジョージア出身でスイス在住の1985年生まれ、エレネ・ナヴェリアニ監督が、ジョージアのフェミニスト作家、タムタ・メラシュヴィリのヒット小説を映画化した作品だ。

 ジョージアの小さな村に暮らすエテロ(エカ・チャヴレイシュヴィリ)は48歳。生まれてすぐに母親を亡くし、現在はどうしようもない男だった父と兄が残した日用品店を一人で営んでいる。村の女性たちはエテロに対して「太り過ぎだ」「子どももいないくせに」などと陰口をたたくが、不愛想でふてぶてしい彼女は気にも留めない。

 ある日、崖の上でブラックベリーを摘んでいたエテロは、ブラックバード(黒ツグミ)に気を取られ、足を踏み外してしまう。何とか自力で崖をよじ登ったエテロが店に戻ってけがの手当てをしていると、高齢の配達人のムルマン(テミコ・チチナゼ)が仕入れ品を持って現れる。いつもの顔なじみだが、この日は様相が違っていた。体を重ねたムルマンが立ち去った後、エテロは出血しているのを確認し、一人つぶやく。「ついに48歳で処女を失った」と。

 このエテロの日常描写が何とも形容しがたい味わいで、ナヴェリアニ監督の秘めた意志の強さを感じる。村の女性たちの会話から、父や兄によって恐らくつらい過去を背負っているはずなのに、淡々と、というかむしろ堂々と生きている。決して弱みは見せないし、暴言を吐かれてもへこたれないどころか、逆に悪態をつきまくる。もう孫もいるムルマンとのセックスや屋外で小便をする場面など、いくらフェミニズム文学が原作とは言え、こんな攻めた映像表現はなかなか見当たらないのではないか。

 一見すると醜悪で悪意に満ちているようにも思えるが、でも全く嫌味に映らないというのがまたこの映画の妙味でもある。それはエテロを演じた舞台出身のチャヴレイシュヴィリによるところも大きい。あまり表情を変えずにとぼけたような雰囲気を醸しながら、どこか間の抜けた会話を交わす。まるで毒っ気を感じさせないせりふ回しと絵づくりで、実はたっぷりと毒を盛り込んでいるというのが、何ともアンバランスで革新的だ。

 映画の背後には、女性の権利を阻害しているのは、古い価値観に縛られた女性自身にあるのでは、という揶揄も見え隠れする。ジョージアの国民性についてはよく知らないけれど、いくら毒っ気を抑えたとぼけたスタイルとは言え、この挑発はかなり先進的だろう。そんな問題作がここまで娯楽要素を詰め込んで映画として世に出るんだから、やっぱりジョージアは「映画の王国」と呼ぶにふさわしい。(藤井克郎)

 2025年1月3日(金)から東京・ヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンク吉祥寺、10日(金)から京都シネマ、18日(土)から大阪・第七藝術劇場など全国で順次公開。

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エレネ・ナヴェリアニ監督のジョージア、スイス合作映画「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」から。一人で店を切り盛りするエテロ(エカ・チャヴレイシュヴィリ)は…… © – 2023 – ALVA FILM PRODUCTION SARL – TAKES FILM LLC

エレネ・ナヴェリアニ監督のジョージア、スイス合作映画「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」から。エテロ(右から2人目、エカ・チャヴレイシュヴィリ)は村の中で浮いた存在だった © – 2023 – ALVA FILM PRODUCTION SARL – TAKES FILM LLC