第180夜「ある男」石川慶監督

 石川慶監督には一度、取材で会ったことがある。監督作についてのインタビューではなくて、日本とポーランドの文化交流に関する記事を書くに当たり、ウッチにあるポーランド国立映画大学で学んだ石川監督に、ポーランドの映画文化について話を聞くためだった。

 2017年4月、ちょうど「愚行録」で長編デビューを飾った直後のことで、謙虚さと同時に、世界でもまれた経験による自信も垣間見えた。何しろウッチの映画大学と言えば、アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、クシシュトフ・キェシロフスキといった名立たる名匠が巣立っているヨーロッパ屈指の名門だ。「きちんと基礎ができていないと点数がもらえないし、国費を使って教育しているので、ちゃんと監督に育てるという厳しさがあった」と話してくれたことが印象に残っている。

 その後、「蜜蜂と遠雷」(2019年)、「Arc アーク」(2021年)と話題作が続き、今度は平野啓一郎のベストセラー小説を映画化した「ある男」だ。日本映画界の期待の一番星と言っても差し支えないだろう。映画を見る前は原作を読んでいなかったが、物語の転がし方といい、俳優陣の見せ方といい、社会性の掘り下げ方といい、まあものすごいのを見ちゃったなというのが正直な感想だ。

 冷たい雨の日、離婚を経て小さい息子と故郷に帰ってきた里枝(安藤サクラ)の文具店に、ある男(窪田正孝)がふらっとやってくる。この冒頭の場面だけで、何かとんでもないことが起きそうな雰囲気がびんびんに伝わってくる。安藤サクラも窪田正孝もテレビや映画でよく見ているはずなのに、ここに映っている2人はまるで別人の様相なのだ。あれ、この人は本当に安藤サクラなの、窪田正孝なの、といった不思議模様が頭の中で渦巻く。

 里枝はやがて、大祐と名乗るこの男と結婚し、新たに娘もできて幸せな日々を送っていたが、そんなある日、林業に携わる大祐が山の事故で命を落とす。里枝の悲しみもなかなか癒えないまま迎えた夫の一周忌。疎遠にしていた兄がやってきて仏壇に手を合わせようとしたそのとき、信じられない言葉を吐く。「弟の遺影はどこですか?」

 ここから先の展開は映画を見てのお楽しみだが、この里枝の家族の話に加えて、夫の過去、夫が名前をかたっていた本物の大祐の行方、そして里枝が相談を持ちかける弁護士の家庭事情などが並行して編まれていく。筋立ては映画の後に読んだ原作の小説通りという感じだが、決してこんがらがることなく、でも絶妙に絡み合いながら徐々にサスペンス性を盛り上げていく巧みさは、石川監督の演出力によるところが大きい。とともに、登場人物の内面をあぶり出すような撮影の近藤龍人の鋭い視線にも大いに魅入られた。

 ついでに言うと、弁護士役を演じる妻夫木聡も安藤や窪田同様、これまでかつて見たことのないような表情を見せる。ほかにも清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、仲野太賀、真木よう子、柄本明といったおなじみの顔による全く見知らぬ顔。まさに役柄その人を生きているといった感じで、演出力のなせる技なのかもしれないが、その要求に応えた俳優陣もさすがというほかない。

 こんなにも娯楽の要素がいっぱい詰まった大作なのに、一方で原作が持つ社会性も決して疎かにしていない。というか、むしろもっと色濃く反映させていることに、石川監督への驚きはいや増すばかりだ。在日韓国人へのヘイトクライムの問題も丁寧に描写しているし、さすがは複雑な歴史を抱えるポーランドで研鑽を積んだだけのことはある。そう言えば、是枝裕和監督が総合監修を務めたオムニバス映画「十年 Ten Years Japan」(2018年)でも、石川監督の作品は群を抜いてぎりぎりの際どさだった。

 ポーランドをはじめとしたヨーロッパ映画では、エンターテインメントに社会性が盛り込まれるのは当たり前と言っていい。このまま日本の娯楽大作にさらなる刺激をもたらすのか、あるいは活躍の場を海外に広げていくのか、石川監督の今後から目が離せない。(藤井克郎)

 2022年11月18日(金)、全国公開。

©2022「ある男」製作委員会

石川慶監督作品「ある男」から。安藤サクラ、妻夫木聡、窪田正孝(左から)ら、実力派俳優陣のすごみのある競演が見ものだ ©2022「ある男」製作委員会

石川慶監督作品「ある男」から。夫の一周忌にやってきた夫の兄(右、眞島秀和)の意外な一言に妻(安藤サクラ)は…… ©2022「ある男」製作委員会