第346夜「大統領のケーキ」ハサン・ハーディ監督

 イラクのサダム・フセイン政権が倒れた日のことはよく覚えている。2003年4月9日だからもう23年も前になるが、当時は産経新聞社会部次長として、ほぼ4日ごとに朝刊の当番デスクに入っていた。社会部の当番デスクは、3ページあった社会面の編集責任者であるとともに、特ダネや重要ニュースを1面や総合面に売り込む役目も負っていた。深夜の1時半ごろに締め切りが終わっても、ニュース速報が入ってくれば人員を配置しなくてはならないし、まんじりともせずに夜を明かし、翌日は夕刊時間帯の出稿に備えるというハードな日々だった。

 当番以外の日もサブでデスクの補佐に入ったり、「ブラ勤」と言って企画記事などの編集作業をしたり、それなりに仕事をしていたものの、当番デスクの緊張度と比べると気は楽だ。イラク戦争で米英軍の侵攻が進む中、イラクの首都、バグダッドが陥落すれば大々的に紙面展開するというのは事前から決まっていた。社会部で何ができるか、というのも検討していたように思うが、実際にそのときになってみないとわからないこともある。いわゆる「やっちゃ場」になることは目に見えていたし、できれば自分の当番のときには当たりたくないな。などと弱気な考えでいたら、おっと、サブ番のときにその日がやってきた。やれやれ、だ。

 ということで、当番デスクがしっちゃかめっちゃか奮闘しているのを横目に、イラク以外の記事を粛々と出稿しつつテレビの速報を眺めていた。バグダッドの広場にあるフセイン大統領の大きな銅像が市民によって引き倒されるのを見て、これで圧政から解放されるのか、と感慨深かったが、アメリカ政府が主張していた大量破壊兵器が最後まで発見されなかったのはご存じの通り。昨今のイラン攻撃に至るまで、大国の横暴は昔も今も変わらない。

 イラクに関しては、フセイン大統領亡き後、どのような国情になっているのか、とんと不明だが、独裁政権下のイラクで育った若い映画監督が、母国を舞台に風刺あふれる、それでいて何ともほほ笑ましいハートウォーミングなコメディーを紡いでくれた。昨年2025年のカンヌ国際映画祭監督週間に出品され、全てのカテゴリーから選ばれる新人監督賞のカメラドールに輝いたというから大したものだ。

「大統領のケーキ」の時代設定は、フセイン大統領が独裁者として君臨していた1990年代となっている。国連からの制裁で庶民の生活は貧窮していたが、権力をほしいままにしていた大統領は、自身の誕生日を盛大に祝うことを国民に強制していた。

 沼が点在する湿地帯で祖母(ワヒーダ・サーベト)と2人で暮らす9歳の少女、ラミア(バニーン・アハマド・ナーイフ)は、翌日に小学校で行われるくじ引きのことが心配でならなかった。フセイン大統領の誕生日に与えられるさまざまな名誉ある任務がくじで決まるのだが、日々の食材さえ事欠くほどの貧乏な身としては、できれば指名にあずかりたくはなかった。

 だが強権的な先生が引いたくじで、ラミアは最も名誉ある「ケーキ係」に任命される。もちろん材料の小麦粉と卵と砂糖をそろえるだけの貯えはない。次の日、ラミアは父の形見の懐中時計や古いラジオ、そして友達でもある雄鶏のヒンディを携えて、祖母に連れられて町へと向かう。ケーキの材料をそろえるものとばかり思っていたラミアだったが、祖母の取った行動は……。

 ここからの純真でけなげなラミアと雄鶏ヒンディとの冒険が、適度な緊張感を伴いながらもほのぼのと描かれ、見ていて自然と頬が緩む。とにかくケーキを完成させることしか頭にない真面目なラミアは、打算的でつっけんどんな大人たちに翻弄されながらも小麦粉と卵と砂糖を手に入れようともがく。そこにそんなに真面目ではないお調子者の同級生、「果物係」のサイード(サッジャード・モハンマド・カーセム)が現れ、行動を共にするうちに社会というものを知っていく、というのが興味深い。

 だが果たして彼女が直面する社会は正しいものなのか。ハーディ監督はそこに痛烈な皮肉を込める。大統領の誕生日を小学校でお祝いすることに誰も疑問を抱かず、それどころかいかにも偉そうで独善的な教師はケーキを食べるのが本当に楽しみだとほざく。偉そうなのは何も先生に限らない。ラミアが出くわす大人たちはみんな似たり寄ったりで、ほとんど誰も自分の都合のことしか頭にない。独裁社会へのハーディ監督の嫌悪、恐怖が痛いほど伝わってくる。

 そんな中にも常にラミアのことを気にかけてくれる優しい郵便配達員(ラヒーム・アルハジ)が現れたりするなど、かすかな希望の芽があることも決しておろそかにはしない。ほかにも「沼は人生を反映する鏡だ」といった例えはイラクに伝わる言い習わしなのだろうし、まばたきをしないゲームなどは恐らく子どもたちが戦争を生き抜くための知恵か。戦時下のイラクで育った監督だからこその多彩な表現がちりばめられていて、なるほどカメラドールも納得の奥深さだ。

 さらに何よりも現在のイラクを垣間見ることができるのが大きい。砂漠しかイメージのなかったイラクにこんな湿地帯があるなんて知らなかったし、フセイン政権下の都市部を模した撮影はいったいどうやって行ったのか。何しろ至る所にフセインの肖像が掲げられ、大統領の誕生日を祝う大規模なパレードが再現される。これこそフセイン時代の負の遺産から脱却した証しなのかなと、さらに興味をかき立てられた。(藤井克郎)

 2026年7月10日(金)から新宿ピカデリー、TOHOシネマズ シャンテなど全国で公開。

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ハサン・ハーディ監督のイラク、アメリカ、カタール合作「大統領のケーキ」から。ラミア(右、バニーン・アハマド・ナーイフ)はケーキの材料を求めて町を探し回るが…… © 2025 TPC FILM LLC. All Rights Reserved.

ハサン・ハーディ監督のイラク、アメリカ、カタール合作「大統領のケーキ」から。町ではフセイン大統領の誕生日を祝うパレードが…… © 2025 TPC FILM LLC. All Rights Reserved.