第349夜「開戦前夜」石井裕也監督
今年もまたあの夏がやってくる。戦争に負けて81年。この時期には映画もテレビも、あの戦争を振り返る企画が定番になっている。本来なら反戦や平和なんてものは年がら年中、心にとどめておくべきものだと思うが、日々の雑事に追われていると、こうして思い起こしてくれるタイミングが年に一度あるだけでもありがたい。特に昨今は新たな戦前との懸念も広がっており、戦争について考えるきっかけを与えてくれる機会はより一層、重要度が増している。
最近も「本心」(2024年)、「人はなぜラブレターを書くのか」(2026年)と精力的に新作を世に問い続ける石井裕也監督の「開戦前夜」は、まさに今の時代にこそ作られるべきであり、そして今の時代の人にこそ見られる必要のある、とても力強い衝撃的な作品だ。ドキュメンタリーとドラマで構成され、昨2025年夏に前後編にわたって放送されたNHKスペシャル「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」のドラマパートの完全版で、テレビ版も十分に見応えがあったものの、さらに踏み込んだ実に恐るべき意欲作に仕上がっている。
原案は猪瀬直樹著のノンフィクション「昭和16年夏の敗戦」で、日米が相まみえることになる8カ月前の1941年4月、政府が各方面の若手トップエリートを招集して組織した実在の「総力戦研究所」をモチーフに、石井監督自身が脚本を手がけた。
産業組合中央金庫の調査課長を務める宇治田洋一(池松壮亮)は、夫を戦場で亡くした妹(二階堂ふみ)とまだ幼いその娘、勉学にいそしむ学生の弟(杉田雷麟)を養う若き金融マンだった。両親は満州で謎の死を遂げており、その真相を追う中で洋一も憲兵に理不尽な扱いを受けた過去を持つが、ある日、平和工作に奔走する上司から総力戦研究所への出向を推薦される。陸海軍に国の機関、民間企業から選りすぐりのエリートたちが集められた研究所の任務は、模擬内閣を作って米英との総力戦の可能性を探るというもの。その模擬内閣で洋一に与えられた担務は総理大臣だった。
序盤はこの模擬内閣での議論を中心に進行する。陸軍大臣に任命された陸軍少佐の高城(中村蒼)ら開戦派が大勢を占める中、通信社の政治部記者で、模擬内閣では書記官長を務める樺島(仲野太賀)や企画院総裁の峯岸(三浦貴大)、海軍大臣の村井(岩田剛典)らが慎重論を展開するなど、丁々発止のやり取りが続く。そんな中、数字に強い宇治田総理が導き出した日米戦の結末は……。
と、ここまではNHKスペシャルのドラマ版でも描かれた経緯と同じで、日本必敗というのが総意だった。それでも歴史は米英との戦争に突き進んでいくのは周知の通りだが、ここからの展開こそがこの映画の真骨頂と言えるだろう。
作品には実在の人物として、1941年4月当時は陸軍大臣だった東條英機(佐藤浩市)が登場する。東條は洋一らが結論づけた「日本必敗」の判断を重く受け止め、陸軍中佐の西村(江口洋介)らと戦争回避の道を模索する。だが……、というところから先はネタバレになってしまうから詳述はしない。もちろんエンターテインメントのフィクションだから史実そのものというわけではないだろうが、いかな実力者の東條でもなぜ、負けると分かっている戦争を止めることができなかったのか、という部分は、歴史とそれほどかけ離れてはいないのではないか。
慄然とするのは、その流れは決してはるか昔の85年前のことだと言い切ることができない点だ。SNSなど現在のネット上で飛び交っている種々雑多な言説、それらの不確かな情報に踊らされているリアクションを見ると、その危険度は日に日に高まってきているように感じる。まさか、まだまだ、と思っているうちに、いつの間にか開戦前夜になっていてもおかしくない。そんな不穏な動きがひたひたと忍び寄っている恐怖を覚えるのは、自分だけではないだろう。
これまでも、津久井やまゆり園殺傷事件に材を取った「月」(2023年)など、物議を醸すような題材に真正面から向き合ってきた石井監督だけに、「開戦前夜」への思いも並々ならぬものがあるに違いない。映画はとにかく自分の目で見て、自分の耳で聞かなければ何も始まらない。まずは映画館に足を運んで、時代の空気というものについてちょっと考えてみてはいかが。(藤井克郎)
2026年7月31日(金)、全国公開。
©2026 ポニーキャニオン/東京テアトル/NHKエンタープライズ/RIKIプロジェクト

石井裕也監督「開戦前夜」から。模擬内閣で総理大臣を務めた宇治田洋一(前列中央、池松壮亮)らが出した結論は…… ©2026 ポニーキャニオン/東京テアトル/NHKエンタープライズ/RIKIプロジェクト

石井裕也監督「開戦前夜」から。大命降下で東條英機(前列中央、佐藤浩市)を総理大臣とする内閣が誕生するが…… ©2026 ポニーキャニオン/東京テアトル/NHKエンタープライズ/RIKIプロジェクト

