【百年映画館】長野相生座・ロキシー(長野県長野市)
☆まずは一箸、何もつけずに食す
長野を訪ねたのは8月の上旬、全国で気温40度超えが連発していた夏の真っ盛りだった。信州と言えば避暑地というイメージだし、確かに軽井沢や八ケ岳山麓などは過ごしやすい気候なのかもしれないが、長野盆地に位置する人口36万人の県都は、やっぱりうだるような灼熱地獄の中にあった。
善光寺の門前近く、市街地のほぼ真ん中に位置する長野相生座・ロキシーは、北陸新幹線の長野駅から歩いていけないこともない。グーグルマップで調べるとおよそ15分、長野市道をずっと進めばいいみたいだ。でもこの酷暑の中、カメラバッグを背負ってトランクを転がしながら15分も歩く気には到底ならない。長野電鉄で2つ目の権堂駅からだと5分ほどで行き着くようだし、迷うことなく地下にある長野電鉄長野駅を目指した。
東京ではほとんど見かけなくなった駅員さんのいる改札口で、紙の切符にスタンプを押してもらってホームに進む。3両編成の各駅停車信州中野行きに乗り込んで、いざ出発進行。と、あっという間に2駅目の権堂に到着する。この間、電車はずっと地下を走行していた。東京の地下鉄の風景と同様、ちょっと味気ない。
権堂はもともと善光寺参りの参詣客でにぎわう古くからの花街だったらしい。今は長野市内唯一のアーケード街が東西を貫いていて、ちょうど終わったばかりの七夕まつりの飾り付けがアーケード中につるされている。地元の小学生による手作りのぼんぼりや吹き流しが彩り豊かに通りを埋め尽くしていて、華やかなことこの上ない。
そのちょうど中間辺りに長野相生座・ロキシーが建っているが、約束の時間まではまだ間がある。とりあえず腹ごしらえをしてから目指す百年映画館を訪ねようかな、と何となく老舗っぽい信州そばの店ののれんをくぐった。
明治期の創業というこの店は、そば粉9割の九一そばが特徴らしく、地のそば粉を使用した看板メニューの盛りをいただく。卓上のしおりには「お召し上がり方」が書かれてあって、1、まず一箸、何もつけずにそばを食べる。2、そば猪口に少量のそば汁を入れ、ワサビと一緒に一箸食べる。3、薬味を猪口に入れ、そば汁の量を増やして一箸のそばを食べる。4、上質なノリを、盛ったそばの上にパラパラとまき、名物の八幡屋七味唐辛子を少々猪口に入れ、一箸持ったそばがそば汁に浸かる程度で食べる。5、そばを食べ終わったら、猪口にある汁の中にそば湯を注いで飲む。と、ご親切にどうも。でも確かに、この食べ方だとそばの味はもちろん、つけ汁や薬味の変化も楽しめて、ちょっと得した気分になった。
お腹も膨れて汗も引いたところで、1892(明治25)年建造と、恐らく現存する日本最古の映画館と思われる長野相生座・ロキシーとのご対面だ。「小屋としては今年(2025年)で133年になります。と言っても、いろいろと増改築されているんですけどね」と、2009(平成21)年から支配人を務める長野映画興業の田上真里さんは恐縮がる。

☆善光寺門前の歓楽街、権堂のブランド力
長野相生座・ロキシーという館名の併記は、この映画館が相生座、ロキシー1、ロキシー2の3つの劇場で成り立っていることによる。相生座は2階席33席を含む176席、ロキシー1は2階席42席を含む264席、そしてロキシー2は1階だけの72席の劇場で、もともとは相生座とロキシー1は1つの大きな劇場だった。1972(昭和47)年に間に壁を設ける工事を行い2スクリーン体制になり、さらに1984(昭和59)年、隣接する雀荘を合体させてロキシー2を開設した。
相生座の名称は、現在の権堂アーケードのかつての呼称、相生町通りからの命名で、一時は大映や松竹の直営館だった時代があり、大映相生座、松竹相生座と名乗っていたこともある。ロキシーはアメリカの興行主、サミュエル・ロキシーが基になっている。アメリカにロキシーという映画館があったことから、松竹が一時期、全国の洋画専門館に軒並み〇〇ロキシーと名付けたことがあったらしい。「そのころの名残です。年配の人は相生座とか松竹とか呼ぶ人が多く、最近の若い人は長野ロキシーでなじんでいるみたいですよ」と田上さんは説明する。
この木造の威容がお目見えした1892(明治25)年当初は、千歳座という芝居小屋だった。花街として栄えた権堂界隈の有力者が資金を出し合って建てたとされており、大衆演劇や舞踊の公演に政治演説会、ボクシングの興行なども行われていた。2017(平成29)年刊行の小林竜太郎著「長野のまちと映画館 120年とその未来」(光竜堂)によれば、開場式には東京の明治座を興した歌舞伎俳優の初代市川左團次が来場したほどで、当時の権堂の人々の意気軒昂ぶりがうかがわれる。その前年には善光寺門前を焼き尽くした大火も起きており、同書には「盛大な会場には、長野のまちの復興と発展への願いもこめられていたのでしょう」とある。
東京に帰ってから改めて、このテキストブックの著者で長野郷土史研究会の機関誌「長野」で編集を担当する小林さんに電話で伺った。
「長野は善光寺が中心の町で、県庁も市役所も脇役なんです。1000年以上も続くお寺を中心に町が大きくなっていったという独特の歴史は、ほかの都市にはありません。江戸時代、善光寺を訪れる多くの参拝客の精進落としの場だったのが権堂で、明治になると遊郭が別の場所にできますが、権堂は相変わらず料亭などが軒を連ねてにぎわっていた。長野の政治は権堂で決まる、などと言われていたようです」と小林さんは解説する。
開場5年後の1897(明治30)年7月には、この千歳座で早くも活動写真、つまり映画が上映された。映画興行の嚆矢とされるリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフが日本で初めて披露されたのは、同じ1897(明治30)年2月の大阪・南地演舞場と言われているから、わずか5カ月後に長野に登場していたわけだ。やはりリュミエール兄弟らが撮影した短編フィルム14本が上映され、翌々日の地元紙、信濃毎日新聞には、満場の観客から割れんばかりの拍手喝采が湧き起こったと報じられている。
その後、現在の経営母体である長野映画興業の前身、1917(大正6)年創業の長野演芸館に買収され、1919(大正8)年、相生座に名称を変更。まだ映画の専門館ではなかったものの、初日に「チャップリンの移民」(1917年、チャールズ・チャップリン監督)が上映されたほか、その後「東への道」(1920年、D・W・グリフィス監督)といった大作がかけられたという記録が残っている。
やがて戦後の1947(昭和22)年ごろから映画に特化するようになり、時代は映画の全盛期を迎える。残念ながらそのころの記録は残っていないが、権堂界隈だけでも5~6館の映画館がひしめき合っていたというから、相生座もさぞや繁盛したことだろう。
だが1960年代に入ると、テレビの普及もあって急速に映画は斜陽産業と化す。1967(昭和42)年から大映の直営館として大映相生座と称していた相生座は、1971(昭和46)年の大映の倒産を受けて、翌1972(昭和47)年に松竹との間で賃貸借契約を結び、長野松竹相生座と長野ロキシーの2スクリーン体制となる。そう、大劇場の真ん中に壁を設ける大工事を行ったのだ。
結果的にこれが功を奏した。長野松竹相生座で邦画、長野ロキシーで洋画の大作をかけ、さらに1984(昭和59)年に開館したシネサロン長野ロキシー、現在の長野ロキシー2ではミニシアター系のアート作品を上映するという多様化で苦境を乗り切った。こうして街なかの老舗映画館が全国でどんどん姿を消していく中、相生座・ロキシーは生き残った。
現在の長野市は、商業の中心地は長野駅前に移り、権堂はかつてほどのにぎわいはない。アーケード街にもところどころ空き地や空き店舗が見受けられるが、前述の「長野のまちと映画館 120年とその未来」で、かつてのように権堂が長野市随一の繁華街のままだったら、もっと開発が進んで古い建物の多くは建て替えられていた可能性が高い、と書き記した小林さんは、それでも権堂のブランド力が変わることはないだろうと推量する。
「商業的には厳しいかもしれないが、今も大学や高校が善光寺の近くにはたくさんあって、権堂は世代を問わずに多くの人々の思いが根付いている。善光寺との距離からも、権堂が完全に衰退してしまうことは考えられません。そんな人々の気持ちのよりどころとして、相生座・ロキシーは映画という文化を通してその役割を果たすことができる。人が集まる場所として映画館が続いていくことは、権堂にとっても大事なことだと思います」と話す。

☆今も創建時のまま、明治の木造梁構造
相生座・ロキシーの建物は、権堂アーケードからちょっと奥まったところに鎮座している。正面中央にチケット売り場、いわゆるテケツがあり、左側の入り口が相生座、右側がロキシー1、2となっているが、ロビーに仕切りはなく、どちらの入り口から入っても構わない。相生座の入り口には、というよりも建物の壁面にも「長野松竹相生座」と、およそ20年前までの館名が掲げられている。このこだわりのなさも、この映画館が百年以上も続いてきた秘訣なのかもしれない。
支配人の田上さんに館内を案内してもらう。ゆったりとしたスペースのロビーの正面には、パンフレットやグッズ、スナック菓子などを販売するショーケースが、飲み物の自動販売機などと並んで置かれている。ショーケースの奥に、どうやら事務室が設けられているらしい。
まずは右手のロキシー1、2へと向かう。中央にロキシー1の2階席に続く階段があり、左手はロキシー1の1階入り口、さらに右手奥に1階席だけのこぢんまりとしたロキシー2がある。ほとんど違和感はないが、ロキシー2の入り口前の通路は天井がちょっと低くなっていて、雀荘だった建物とここで合体させたことが分かる。
2階部分にしつらえられた映写室をのぞかせてもらった。手前にはDCP(デジタルシネマパッケージ)と呼ばれるプロジェクター、奥には35ミリフィルムの映写機が並んでいる。今や3スクリーンともほとんどデジタルでの上映だが、年に1カ月程度は「寅さん」こと「男はつらいよ」シリーズを、このロキシー2でフィルムを用いて上映している。
「『寅さん』もデジタルで上映できますが、あえてフィルム上映にこだわっています。フィルムが好きという方もいますし、20代など若い人だとフィルムの体験がないんですよね。親子3世代で見に来る人もいて、フィルム上映は結構、お客さんが入るんです。もっと増やせたらいいなとは思うんですが……」と田上さん。フィルムとなると過去の名作など作品が限られるし、映写の手間もかかる。現在はアルバイトを含めて、田上さん以下6人の体制で運営しており、フィルム上映にそんなに力は注げない。
3館の中で最も大きなロキシー1は、1列に16席のシックなグレーの椅子が整然と並び、ちょっと見上げるような形でステージの奥にスクリーンが掲げられている。なるほど、この下手側の壁が以前は存在せず、隣の相生座と一体になっていたわけだ。相当な大劇場だったことがうかがえるが、確かに2つに分けることでより多くの作品をかけることができるし、観客数が減っている中で空間を無駄にしないための見事なアイデアと言える。防音も含めて音響設備もばっちりで、かなりの大工事だったに違いない。
2階席を見学した後、田上さんが映写室の上にある小さな扉を開けて中を見せてくれた。真っ暗な中に木の柱やら梁やらが張り巡らされていて、屋根裏の天井板も確認できる。普段はなかなか人が入ることはないそうだが、建築の研究者がヘルメットをかぶって中に入って精細に調べたところ、木造の梁構造が明治期に建てられたままのものだということが確認されたのだという。「分けたり増やしたり柱を入れたりと、いろいろ手を加えてきたんだと思いますが、構造自体は建設当時のものが残っているようです」と田上さんは太鼓判を押す。
地震にも強く、震度4や5といった揺れにはびくともしていない。東日本大震災の翌日、2011(平成23)年3月12日に起きた長野県北部地震のときも、物がばたばたと落ちてきて映写機が多少ずれることはあったが、建物はどこにも損傷はなかった。「確かにみしみし言うけれど、何ともなかったですね。ずれた映写機をみんなで、よいしょ、と直したくらいです」と田上さん。明治の木造建築の技術力は大したものだ。
このロキシー1から壁1枚を隔てた相生座は、落ち着いた赤の座席が印象的な劇場で、ロキシー1よりも座席数が少ない分、縦に長細い印象がある。この下手側、改築したのとは逆側の壁に、途中ぐにゃりと丸く突き出た鉄パイプが備え付けられている。思えばロキシー1の上手側の壁にも同じような鉄パイプが這わせてあった。これは暖房用のスチーム管で、A重油のボイラーでたいた蒸気をこのパイプを通して全館に行きわたらせることで館内を温めるのだという。
「寒い日はロックハンマーと言って、熱風が配管を通るとカンカンカンと音が鳴るんです。味があっていいと言う人もいるけど、工事が始まったんですけど、と訴えてくる人もいる。でもこの設備を変えようとすると、映画館全体を建て替えないと無理なんだそうです。お客さんがいっぱい入っていようがいまいが、ボイラーをたくのは同じなので効率は悪いのですが、でも人体には一番いいらしいですよ」

☆133年の歴史の一部分にいるだけ
常に笑顔を絶やさない元気いっぱいの田上さんが長野映画興業に入社したのは、2007(平成19)年のことだ。その2年後の2009(平成21)年には支配人に就任しているが、「何で私がこの歴史ある映画館の支配人なのかな、という思いはありますね」と、伝統の重みはひしひしと感じている。
もともと子どものころから映画を特段たくさん見てきたというわけではなかった。長野市内の出身で、相生座・ロキシーも「E.T.」(1982年、スティーヴン・スピルバーグ監督)などを見に来た思い出はあるし、中学のころになると映画雑誌の「ロードショー」に載っていた試写会に応募するなど人並みの映画体験はあるが、どちらかと言うとバスケットボールに熱中するスポーツ少女だった。
だが茨城県にある常磐大学に進学すると、最初は演劇にのめり込むようになる。東京の劇場に芝居を見に行くうちに、フランソワ・トリュフォー監督作品などミニシアター系の映画にも興味を持つようになり、情報誌の「ぴあ」で映画のエキストラの情報を得ては「眠らない街・新宿鮫」(1993年、滝田洋二郎監督)や「教祖誕生」(1993年、天間敏広監督)といった作品に出演していた。
「そのときは映画館で働きたいという思いは特になく、福祉系の仕事をするのかなとずっと思っていました。でも実家に帰ってきて、長野東映で映写のアルバイトを募集しているのを見た。短い間だけやろうかなと思ったら、それが面白くなってしまって、結局、10年近く働いていましたね」。長野東映劇場は相生座・ロキシーに程近い同じ権堂エリアにあった映画館だが、2006(平成18)年に閉館している。
従業員はみんな優しく、働きやすい職場だったが、客が入らなかった。それでも上映作品は本社が決めた通りにかけていて、入っていない回のときに何か別の特集上映でもやればいいのに、とずっと思っていた。
そんなとき、やはり権堂にあった別の映画館、長野東宝グランドでミニシアター系作品のレイトショーをやっているのを見て、そうか、私もそっちの方をやりたいのかも、と気付いた。やがて長野東映を辞めて、別の仕事をしながら自主上映のイベントを企画するようになる。長野東映時代の同僚らとともに、「スコルピオンの恋まじない」(2001年、ウディ・アレン監督)や「24アワー・パーティ・ピープル」(2002年、マイケル・ウィンターボトム監督)といった作品を、長野東映など映画館を借りて上映。1回だけにもかかわらず400人もの観客が集まる状況を目の当たりにして、「長野でももっといろんな映画をやるべきだ」ということを実感した。「自分が見たい」から使命感に変わった。
「ほかにも長野映画祭のボランティアなども一生懸命やっていたんですが、映画祭の事務局がこの相生座・ロキシーだったんです。ここで企画とか広報の仕事をやらないか、と声をかけていただいて、やります、と」と即決だった。
ところが田上さんが働き始めて半年くらいしたら、当時の支配人が退職してしまった。あれよあれよという間に、支配人をやることになった。
「確かに歴史の重みはありますが、ずっと昔からいたわけではないですしね。経営は1年ごとに慎重にやっていますし、建物の問題もある。働いている従業員にも幸せになってもらいたい。言ってみれば、私は歴史の一部分として今、ちょっとここにいるというだけで、次の世代につなげていけたらいいのかなと思うんです。次の世代も大変でしょうけど、今までつないで来た人がすごいんであってね。だから頑張らなきゃな、という思いはいつもありますね」
とは言え、映画館を取り巻く状況は今の時代が最も厳しいのではないか。そう投げかけると、「ありがとうございます。そう言っていただけるとうれしいです」と言いつつも、「でも大変なことばかりではないですからね」と田上さんは笑みを浮かべる。
「やっぱりこの仕事は楽しいですよね。お客さんと会ってコミュニケーションを取るのも楽しいし、いろんな作品を見る機会ももちろんあるし、監督やプロデューサー、キャストの方など製作側の人たちともお会いできる。うちみたいなところじゃないと、なかなかそうは行かないかもしれませんよね。お客さんとはちゃんと会話をするし、だからちゃんと返してくれる。居心地のいい場所だと思ってくれる人がいるから、続いているんじゃないでしょうか。見に行かなきゃ、とみんなが思ってくれているんだなというのは感じますね」

☆狭い路地の奥にたたずむ扇情の宿
明日は映画を見に戻ってきます、と告げて、事前に予約している宿へと向かう。長野市内のホテルは長野駅前に集中していて、この辺りはそれほど多くはない。できれば善光寺の宿坊に泊まりたかったが、2人以上ではないと受け付けてもらえない。相生座・ロキシーのすぐ裏手に安価なホテルがあったので押さえたのだが、これがちょっと驚きの物件だった。こうやって百年映画館を訪ねて全国を回っていると、いろいろと不思議な体験に遭遇するが、これこそ旅の醍醐味かもしれない。
地面に「これより秋葉横丁」と記された狭い、スナックがぽつりぽつりと点在する本当に狭い路地を通り抜けた先にあるそのホテルは、どうやらかつてはラブホテルだったに違いないと思われる独特の外観をしている。フロントには誰もおらず、呼び鈴を押して廊下の奥からやってきたスタッフにキーをもらう。この後、2泊してチェックアウトするまで、ホテルの従業員とは一切誰とも顔を合せなかった。ゲストハウスなどではよくあることなのかもしれないが、何となく味気ない。
部屋を開けてさらに驚いた。靴を脱ぎ、申し訳程度にしつらえた三角形のエントランスを上がると、畳敷きの四畳半程度の狭い部屋にぴっちり、ソファ2脚と大きなダブルベッドが置かれている。ベッド脇の障子を開けると、10センチくらいの幅の砂利敷きの空間に竹が数本、突っ立っており、小さなガラス窓をカバーするのは、ブラインドではなく観音開きの木の扉。しかも裏側はどぎつい緑色と来ている。この扇情ぶりは、ラブホテルというよりはもはや連れ込み宿か。権堂がかつて花街だったことを考えると、この部屋でもさまざまな逢瀬が繰り広げられたのではないかと想像され、ちょっとどきどきした。
ただ廊下でときどき鉢合わせをしたほかの宿泊客は外国人観光客が多く、今はこのホテルがゲストハウスのように利用されていることがうかがえる。確かに、外国人にとってはこの部屋の構造も内装も色使いも、ある意味で日本情緒をたっぷりと感じられるものかもしれない。相生座・ロキシーの田上さんも、こんな近くにこんな不思議な宿があることを知らなかったから、今のような形態になったのは最近のことなのだろう。
荷物を置いて、田上さんお勧めの田舎料理の店に行く。手打ちそばが名物のようだが、そばはお昼にいただいたので、ここでは信州ならではの酒の肴を頼もうかな。木曽の地酒、七笑(ななわらい)を常温で一杯やりながら、まずはワラビのお浸しと岩魚の塩焼きとを食す。ワラビは濃いめの味付けだが、しゃきしゃきした歯触りがさっぱりとおいしい。馥郁たる甘めの七笑とのバランスは抜群だ。岩魚は焼き加減が絶妙で、ほくほくとした身と苦み走ったわたとが口の中で溶け合う。
ちびりちびりと飲んでいると、店主からのサービスと言って野沢菜漬けを出してくれた。大振りでぱりぱりとした歯ごたえに、酒がどんどん進む。お代わりは佐久にある日本酒の蔵元、佐久の花のそば焼酎そば湯割りだ。「締めの酒には最適です」との言葉をもらう。
食事もそろそろメインにかかろうか。馬刺しのロースはとろけるように軟らかく、ほとんど噛まずに呑み込める。ショウガとおろしニンニクの薬味を交互に試せば、どこまででも飽きが来ない。
もうおつまみはいいかなとも思ったが、気になるメニューを見つけてしまった。「しょうゆ豆」って何だ。聞けば長野では自宅で味噌ならぬ醤油を造る家庭も多いそうで、まだ固形の大豆の形が残る醤油といったところか。木綿豆腐の上に自家製のしょうゆ豆を載せてネギを散らす。醤油の香ばしさが感じられる豆で、ほろ酔い加減の舌にはちょうどいい。白米にかけて食べることもあるらしいが、まさに醤油かけごはんだ。
お腹もいっぱいになったところで、例の扇情ホテルへと戻る。夜の権堂をそぞろ歩きながら、日本中そこいらにあったかつての歓楽街の風情をちょっぴり感じ取った。

☆QRコード付きのチケットで入場
長野相生座・ロキシーは、3スクリーンで1日およそ10本の作品を上映している。洋画、邦画取り混ぜて、娯楽作からアート系、ドキュメンタリー、アニメーションとさまざまだが、ときどきテーマを決めて特集上映もしている。7~8月は恒例の戦争映画を、戦後80年と銘打って特集していた。
用意したのは12本。その中には、「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」(2023年、エレン・クラス監督)や「木の上の軍隊」(2025年、平一紘監督)といった新作もあれば、4時間半を超す大作「東京裁判」(1983年、小林正樹監督)や、長野を舞台にした満蒙開拓移民が題材の「大日向村の46年 満州移民・その後の人々」(1986年、山本常夫監督)といった社会派ドキュメンタリーもあるなど、実にバラエティーに富んでいる。
新作の「惑星ラブソング」(2025年、時川英之監督)と「黒川の女たち」(2025年、松原文枝監督)などでは監督ら関係者が登壇して舞台挨拶やトークイベントも行われたが、私が取材に赴いた日は、残念ながらイベントは開かれていなかった。でもせっかくだから特集上映の作品を、と相生座で午後2時10分スタートの「蟻の兵隊」(2005年、池谷薫監督)を鑑賞することにした。
劇場正面に出っ張ったテケツで、60歳以上のシニア割引料金1200円を払って切符を購入する。QRコードが印刷されたレシート型チケットで、百年映画館にしては極めて現代的だ。全体を見渡したくて2階席1列目の真ん中、N6の席に座るが、2階は他に誰もいない。1階にはシニア層を中心に10人ちょっとの頭が見える。やがてチャイムが鳴って暗転。終戦後も中国にとどまって内戦を戦うよう命じられた元兵士らの声をすくった厳しいドキュメンタリーの上映が始まった。
「この『蟻の兵隊』は戦後75年のときも上映したんです」と話す田上さんによると、池谷監督とは縁ができて、私が長野入りした前日には上映後の舞台挨拶に駆け付けている。ほかにも、ゼロ戦パイロットだった長野県浅川村(現長野市)出身の故原田要さんを描いたドキュメンタリー「原田要 平和への祈り~元ゼロ戦パイロットの100年~」(2017年、宮尾哲雄監督)は毎年、原田さんの誕生日の8月11日に上映しており、2025(令和7)年も宮尾監督らが参加したトークイベント付きの上映会が開催された。
「劇場に興味を持ってくださって、お客さんとの対話も求めている監督は圧倒的に多いです。ゲストとお客さんの間に入って交流の機会を作ることって、とても豊かな時間だなと思っていて、それはなるべくやっていきたいですね」と話す田上さんによると、例えば長野市出身の若手の山中瑶子監督などは、実家への帰省がてら、ちょくちょく映画を見に相生座・ロキシーに足を運んでくれるという。
2024(令和6)年に公開された山中監督作品の「ナミビアの砂漠」(2024年)では、最初の公開のときに来場し、信毎選賞を受賞した記念でアンコール上映をしたときも来てくれて、そのたびに大勢の映画ファンが詰めかけた。信毎選賞とは、地元紙の信濃毎日新聞の公益財団法人信毎文化事業財団が、将来の活躍が一層期待できる個人、団体を顕彰する賞で、このとき「来年は山中さんの特集をやるので、ぜひ見に来てください」と宣言。約束通り、2025(令和7)年9月に過去の作品をまとめて上映する山中瑶子監督特集を2週間にわたって開催した。
「山中監督には劇場を応援してくださっていて、本当にありがたいなと思っています。こういうイベントは絶対に1人ではできないので、ほかのスタッフも司会をやってくれたりしますし、徐々に積み上がっていったという感じですね」と田上さん。

☆話しかければ返してくれる心地よさ
こんな支配人の方針に、従業員も全幅の信頼を寄せている。現在は、社員が田上さんを入れて3人、それにアルバイト3人に週に1日だけ清掃の仕事で来てくれる80代の男性1人という体制だが、2009(平成21)年から勤めているという劇場フロアマネージャーの高橋恵里子さんは「大変ですよ。大変だけど、苦ではないですね」と笑顔で語る。
「もちろん楽しいときもあれば、楽しくないときもあります。でもお客さんに言葉をもらったときなどは、やっててよかったなと思いますね。いい映画を上映してくれてありがとう、とか言ってくれるんです。シネコンにも映画を見に行くことがありますが、誰ともしゃべらないし、従業員さんにありがとうとも言わないですしね。ここはお客さんとの関係が近い感じがします」
この雰囲気のよさは、客側も同じように感じている。自転車で15分くらいのところに住んでいるという荒井英一さんは、ここ5~6年は相生座・ロキシーを中心に毎年500本以上の映画を見ているという映画ファンだ。
荒井さんによれば、確かにシネコンの方が設備も充実していて座席の配置も見やすいが、だからと言って相生座・ロキシーが見にくいわけではなく、音響も悪くないという。中でもロキシー2は狭い劇場だが、その狭さが臨場感あふれる映画体験をもたらしてくれるとお気に入りだ。
ちょうど空き物件があったこともあり、2024(令和6)年10月から権堂アーケードを挟んだ斜め向かいで飲食店を始めた荒井さんは「せっかく近くに店を出したんだから、協力できることがあればお手伝いしたい」と意欲的だ。
「ここは居心地もいいですし、スタッフの人に話しかけたらちゃんと返してくれますしね。よく閉館するとなったら、その前に見に行くという人がいるけれど、いつも見に来ていたらなくならなかったかもしれない。百年以上もよく続いたなと思うと同時に、これからもずっと続いてほしいと願っています」

☆ご本尊と結縁しても「明かりはつけない」
そろそろ長野を後にする時間が近づいてきたようだ。でも最後にどうしても行かなくてはいけない場所がある。そう、権堂の町の成り立ち、否、相生座・ロキシーの誕生と継続にも深く関わっている善光寺だ。
善光寺にはこれまで高校の修学旅行と坂東三十三観音巡礼の結願御礼とで2回、訪れているが、「遠くとも一度は詣れ善光寺」というくらいだから、何度でも構わないだろう。それに上田映劇を取材したときに別所温泉の北向観音に参拝しているから、善光寺に行かないと「片詣り」になってしまう。というわけで、あの扇情的な宿にもう1泊して、朝から善光寺を目指した。
土産物屋や立ち食いの店が並ぶ仲見世を抜けて、まずは山門をくぐる。ここは門の上まで上ることができるが、参拝券は600円だという。本堂、経蔵、忠霊殿と4カ所を巡るセット券が1200円となっており、迷わずセット券を購入。恐らく前回の結願御礼のときは本堂にしか行っていない気がする。
山門の上からは権堂界隈をはじめ、長野の市街地が一望できる。目を凝らしてよく見てみたが、相生座・ロキシーは目視できなかった。残念。
続いて本堂に入る。像をなでると病気が治るという信仰のびんずる尊者が鎮座する外陣を通り、靴を脱いで内陣に上がる。畳敷きの大広間の中央に蓮の花らしきつり下げ物があり、明治14年10月とある。百年映画館ばかり取材していると、どうしても明治、大正に敏感になってしまうが、この本堂は宝永4年、つまり1707年に再建された建物で、国宝に指定されている。相生座・ロキシーも後200年くらいすると国宝になるのだろうか。
いよいよ「お戒壇巡り」に入る。これは修学旅行のときも結願御礼のときも体験したことをよく覚えている。真っ暗闇の中をそろそろと歩き、奥の方の「極楽の錠前」に触れると、秘仏のご本尊と結縁するらしい。入り口に手順が書かれてあり、1、左手に手荷物。2、右手、大人の腰の高さ位置の板壁を離さずさわっていきましょう。3、明かりはつけない。とある。合点、心得た、と右手を壁に触れたまま、すりすりと歩を進める。
右も左も真っ暗闇の中、がちゃ、と錠前に触れる。やった、ご本尊と結縁した。と思ったら、通路の前方がうっすらと光っている。恐らく前を歩いている誰かさんが、携帯を操作したらしい。「3、明かりはつけない」とあったのに……。

《長野相生座・ロキシー》1892(明治25)年、千歳座として創業。長野映画興業が所有、運営。長野県長野市権堂町2255
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋

