第345夜「よき谷の物語」ホセ・ルイス・ゲリン監督

 スペインはバルセロナの出身、ホセ・ルイス・ゲリン監督の映画と出合ったときの衝撃は忘れられない。2016年に公開された「ミューズ・アカデミー」(2015年)が最初のゲリン作品体験だったが、優に100年を超える映画なる表現領域にまだまだ未知のアプローチがあったと知って、脳天をぶち抜かれたような気分になったことを覚えている。

 何しろ試写会で何の予備知識もなく見始めて、教室での講義が延々と続く映像に、あ、これはドキュメンタリーなんだと思っていたら、あに図らんや、途中からどんどん俗っぽい男女関係のドラマが繰り広げられる。思わず、何て映画なんだ、と絶句したものだ。来日するゲリン監督にインタビューする機会が得られると聞いて、代表作の「シルビアのいる街で」(2007年)もDVDで視聴したが、やっぱりいわゆる映画のイメージを相当に逸脱した超刺激作だった。

 喜び勇んでインタビュー取材に向かったが、果たせるかな監督の口から「一つの方にははめたくない」との言葉が飛び出した。「憧れるのは、小津安二郎監督みたいに撮影所があっていつも同じスタッフと一緒に撮影するという環境なんだけど」と前置きをしつつ、「でも今の時代にそういう環境は難しい。だから毎回毎回、自分が刺激を受けた新たな地平に突き進んでいきたいと思っています」ときっぱりと話してくれたものだ。

 それから10年。あのときの「ミューズ・アカデミー」以来となる待望の新作長編は、やっぱりまたまた誰も踏み込んだことのないような極めて斬新で、でも思いっ切り深みのある映画になっていた。

「よき谷の物語」の舞台はバルセロナ郊外のバルボナという地区だ。「よき谷」と名付けられたこの辺りは川や鉄道に挟まれ、市街地開発から取り残されたような寂れた地域だった。その代わり、手つかずの自然も残っていて、子どもたちは水遊びに興じ、果樹園で働く人々など古くからの住民に、東欧やアフリカから新たに移ってきた移民らが入り交じり、つましくも穏やかな生活を送っている。

 だが鉄道の拡張計画が持ち上がり、こんな時代遅れの地区にも再開発の兆しが見え始めてきた。幅を利かせていた果樹園は取り壊され、昔から暮らしてきた労働者階級の人々や、肌の色も宗教も多種多様な移民たちの居場所は今後、なくなってしまうかもしれない。そんな漠然とした不安を抱えた人々の声を、映画は無造作にどんどんつないでいく。冒頭から序盤、何の説明もなく、会う人会う人、さまざまな声をカメラは収める。話し相手はゲリン監督なのか、あるいは誰か別の住民なのか、とにかく言葉の洪水がスクリーンからあふれ返ってきて、いったい何を描こうとしているのか真意が測れない。

 だがやがて、はっと気づく。そうか、これは世界の縮図なのだ、と。現代は地球規模で自然破壊が進行し、どんどん都市化が進んでいるものの、人々の暮らしは一向によくならない。民族や宗教の違いによる紛争は絶えないし、居場所を追われた多くの人たちが行き場を失っている。でも子どもたちはそんなことはお構いなしに楽しそうに水辺で戯れ、その笑顔につられるように大人たちも和気藹々とつかの間の余暇に浸る。と、その楽しみを奪うかのように、公権力の影が忍び寄って……。

 そのような深読みは、もしかしたらこちらの勝手な思い込みかもしれない。でも3年にわたってこの地区を見つめ続けたゲリン監督が膨大な量の映像記録から一つの作品として築き上げるに至るには、何らかの意思が込められているはずだ。徹頭徹尾、聞き手に回り、自分の言葉は何も発しないゲリン監督の思いの丈が、この住民の会話中心の映像記録に詰まっていることは間違いない。

 住民たちが語り尽くす一つ一つのエピソードも、意味があるのかないのか、実のところよく分からない。でも認知症の夫に老いた妻が歌を促したり、亡き妻を思い出して必死に涙をこらえる老人がいたり、ところどころでぐさっと胸をえぐってくる。その表情をそのまま写し撮ったゲリン監督の感性はやはり唯一無二だし、次はぜひとも10年と時を空けずに、さらなる驚きをもたらしてほしいものだ。

 それにしても、と思う。この何ともいとおしいバルボナ地区の人々の行く末が今、とても気がかりだ。(藤井克郎)

 2026年7月3日(金)からヒューマントラストシネマ渋谷など全国で順次公開。

Orfeo Iluso – Perspective Films – 3CAT – Los Ilusos Films – Los Films de Orfeo © 2025

ホセ・ルイス・ゲリン監督のスペイン、フランス合作「よき谷の物語」から Orfeo Iluso – Perspective Films – 3CAT – Los Ilusos Films – Los Films de Orfeo © 2025

ホセ・ルイス・ゲリン監督のスペイン、フランス合作「よき谷の物語」から Orfeo Iluso – Perspective Films – 3CAT – Los Ilusos Films – Los Films de Orfeo © 2025