【百年映画館】大黒座(北海道浦河郡浦河町)
☆戦後初の三冠馬、シンザンとの対面
北海道には3年弱、暮らしていたことがある。産経新聞札幌支局長という肩書だったが、1人支局だったから1人で全道をカバーするという状況で、宗谷岬から納沙布岬から襟裳岬から白神岬から、道内のほぼ全域をくまなく回った。離島も礼文島、利尻島、焼尻島、天売島、奥尻島に北方領土の択捉島まで、さまざまなところにさまざまな取材で行かせてもらったのはとても得がたい体験だったと感謝している。
サラブレッドの産地として知られる日高地方の浦河町も、2011(平成23)年8月に訪れている。もっとも浦河町には、その前にも1995(平成7)年の9月に競馬の歴史に関する取材で足を踏み入れたことがあり、まだ健在だった戦後初の三冠馬、シンザンと対面した。すっかり年を取って湾曲した背中をなでたことが思い出深い。1961(昭和36)年生まれのシンザンは私とほぼ同世代で、当時の34歳という年齢は、人間で言うと優に100歳を超えていた。翌年の7月にはこの世を去ったから、今から思うと極めて貴重な取材だったことになる。
2度目の浦河訪問は、今回と同じ大黒座の取材だった。大黒座を取り上げた森田惠子監督のドキュメンタリー映画「小さな町の小さな映画館」(2010年)が公開されたころで、札幌支局長として全方位取材を励行していたとは言え、映画館探訪をライフワークと心得ていた身としては、どうしても訪ねてみたい場所だった。札幌からJRの特急スーパー北斗で苫小牧まで行き、1両だけの日高本線普通列車に乗り換えてとことことことこ3時間弱。太平洋の波打ち際をすり抜けるかと思えば、なだらかな丘の上で草を食むサラブレッドを眺めたりして、何とものんびりとした旅情を味わいつつ浦河に向かったものだ。
その日高本線も、2015(平成27)年の高波被害で鵡川駅よりも先が不通となったまま、復旧されることなく廃線になってしまった。高速バスも新千歳空港からは直行便が出ておらず、今回はやむなくレンタカーを借りての浦河入りだ。時代の必然とは言え、何ともはや世知辛い。
町の寂れ具合が心配だったが、果たして大黒座は14年前とちっとも変わらぬ様相で、いや、心なしかむしろちょっとあか抜けた雰囲気を漂わせてたたずんでいた。裏手では、やっぱり以前と印象はほとんど変わっていない館主の三上雅弘さんが、兼業で営むクリーニングの集配袋を車から店舗へと運び込んでいるところだった。声をかけると、柔和な顔つきの三上さんが、めがねの奥の目をさらに細めて「どうもどうも」と返してくれる。7月中旬の北海道はまだまだ日は高いとは言え、もう時刻は夕方6時になんなんとしていた。翌朝に再訪する旨を告げて、今日のところは町役場近くのビジネスホテルへと引き返す。夜のお供は、それはまた後ほどということで。

☆ほぼ年中ストーブをたいている
翌日の日高の空は、ちょっとすっきりしない薄曇りだった。テレビの天気予報では、浦河の最高気温は20度と予想している。これでも前日よりはまだ少し高いという。東京など関東では、というよりも北海道を含む全国で、すでに30度を超す真夏日が何日も続いていた。帯広や北見などでは35度を超える猛暑日さえ記録していたくらいなのに、この肌寒さは一体どうしたことだろう。
「日高は北海道の中でも冷涼な気候なので、ストーブは年中たいている。それでも必ず寒いと言われますよ」と苦笑する三上さんによると、かつて大黒座ではペチカで暖を取っていた。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡でも知られるペチカだが、煙が筒状の煙突を通る際の熱を利用して室内を温める暖房装置だそうで、その後、鋳鉄製のボイラーになり、三上さんも若いころはボイラーに石炭をくべるのが日課だった。ペチカよりももっと前、桟敷席の時代は貸火鉢を下足番から受け取って、自分の席に持っていって温まっていたというから、映画を見るのも一苦労だったわけだ。
大黒座の創業は1918(大正7)年、三上さんの曽祖父、三上辰蔵の代にさかのぼる。もともと大工の棟梁だった辰蔵は、自宅脇の作業場だった空間に旅回りの芝居一座や浪曲師らを招いて、人を集めては興行のまね事をやっていた。そこに木造の小屋を建てたのが大黒座の始まりで、やがて映画が隆盛するのに従って映画専門館になる。座席は全て桟敷席だった。
その後、館主は辰蔵の長女、ヨネ、その長男、政義へと引き継がれ、2004(平成16)年、政義の死去に伴い政義の長男である三上さんが4代目館主となって現在に至る。つまり代々、三上家で経営してきたというわけだ。百年にわたって家族で映画館を続けているというのは、他に類を見ないのではないか。
だがその間、断絶の危機がなかったわけではない。戦時中には、後に3代目館主となる早稲田大学法学部の学生だった政義が学徒出陣で出征する。政義は目が悪く、めがねをかけていた。陸軍か海軍かどちらがいいかと問われ、海がいいと答えた政義は海軍の陸戦隊に配属されるが、目がよかったら航空兵になっていたかもしれないと三上さんは推察する。
「千葉の館山から最後は八丈島で終戦を迎えたのですが、本人はここで死ぬのかなと覚悟を決めていたみたいです。何年も浦河を離れていたので、帰ってきたときにはあまりにも何もなくてびっくりしたって言っていました。何しろ映画館は映画をやっていなくて、イモが積まれていたそうですから」と三上さん。浦河も米艦隊の機銃掃射を受けたものの、大黒座には被害は及ばなかった。
やがて戦後の映画全盛期を迎えると、1953(昭和28)年には220席の椅子席を有する劇場に改築する。その2年前には、政義と室蘭出身の妻、雪子との間に長男の雅弘、つまり現在の4代目館主である三上さんが誕生し、大黒座は盤石の時代を迎える。「でも父は映画館経営には一切興味がなくて、母親のヨネさんが一生懸命働いているのを見て、やるしかないか、となったみたいです。映画は好きだけど、商売で興行をやるというのは嫌だったんでしょうね」と三上さんは述懐する。
改築翌年の1954(昭和29)年にはヨネが病気で他界し、政義が跡を継ぐが、映画全盛期のはずなのに、幼いころの三上さんには映画館が超満員で大にぎわいだったという記憶はあまりない。ゴジラ映画などときどきヒット作はあるものの、小学生のころ、学校から帰ってきて映画館をのぞくと、観客はまばらだったと振り返る。
「1960年代に入ると下降線をたどっていましたからね。高校を卒業するころには大映が倒産し、日活はロマンポルノに路線変更した。ちょうど変わり目だったんです」
三上さんも高校を卒業すると、東京の大学へと進学する。だが東京の水は三上さんに合わなかった。特に耐えられなかったのは光化学スモッグで、天気はいいのにいつも夕方みたいな赤い空だった。バスに乗っているとガスマスクをしている客が乗り込んできたこともあるし、羽田空港からのモノレールから見える海の水は恐ろしいくらい汚かった。体調も崩して、卒業すると迷うことなく浦河に戻った。大黒座は変わらずに温かく三上さんを迎え入れてくれた。

☆娘婿が営むバインミーのキッチンカー
この日は通常とは異なるプログラムが用意されていた。ガラスドアには妻の佳寿子さんの手書き文字で「チャンバラ映画の金字塔 弁士・飯村宏美がおくる、阪東妻三郎主演・無声映画『雄呂血(おろち)』本日16時~ 一日限りの上映会!!」の張り紙が掲げられている。聞けば、無声映画の上映会はコロナ禍の2020(令和2)年に、やはり飯村さんの活弁で開いて以来、5年ぶりだという。近隣に住む常連客ばかりでなく、遠くからも映画好きがやってくるというし、三上さんも心なしか浮き浮きしているような気がする。まだ午前中だというのに、周辺も何となくざわざわしている。
「今日は浜町通りでお祭りも予定されているんです。にぎやかですよ」と三上さん。なるほどその準備で行き交っている人も多くいるようだ。
浜町通り祭、通称「HAMASAI」は、国道の大通りから1ブロック海側を平行に走る浜町商店街で開かれる地域のイベントで、50を超える屋台やキッチンカーが道路脇に出店するほか、特設のステージでは歌や踊りの出し物も用意されている。大黒座のちょうど向かい側が起点になっていて、荷物を運び込む人がどんどん増えている。
お昼はこのHAMASAIの屋台にしようかな。などと考えていると、三上さんから耳よりな情報がもたらされた。実は長女のみちるさんの夫がキッチンカーでベトナム料理のバインミーを販売していて、普段は道内のあちこちを回っているが、今日はHAMASAIに屋台を出すのだという。
夫のレ・トゥアン・ダットさんはベトナムの出身で、以前は広島県呉市の自動車部品などを製造する会社に勤めていた。ここでみちるさんと知り合って結婚。みちるさんは地元の高校を卒業後、広島県の尾道市立大学に進学し、尾道のミニシアター、シネマ尾道でボランティアとして働いていたこともある。大学卒業後はダットさんと同じ会社に就職したが、1人目の長女を浦河町で里帰り出産したのに続き、次女を妊娠したときに家族で戻ってきた。ダットさんはもともと食に興味があり、夫婦で渡航したベトナムで1年間、料理の修業を積み、現在はフランスパンの中にさまざまな具材を挟んだベトナム風サンドイッチのバインミーをキッチンカーで振る舞っている。2024(令和6)年12月には3人目の子どもとなる三女も誕生し、浦河町内でも襟裳岬寄りの東側に位置する幌別の子育て支援住宅に家族5人で暮らしている。
ちなみに三上さんと佳寿子さんの夫婦には全部で4人の子どもがいて、長女のみちるさんの下に次女のあいこさん、長男の光太郎さん、三女のふきこさんと続く。あいこさんと光太郎さんは札幌市に、ふきこさんは日高地方でも苫小牧寄りのむかわ町に住んでおり、光太郎さんには2歳になる双子の男の子が、そしてふきこさんには私が浦河に着いた日に第1子となる男の子が生まれた。三上さん夫婦には6人の孫がいることになるが、一番上のみちるさんの長女は10歳になり、「大人の映画もよく見ているようですよ」と三上さんはうれしそうだ。
無声映画の「雄呂血」上映まではまだしばらく間がある。お昼がてらHAMASAIをのぞきに行ってみようか。
車を通行止めにした浜町通りの片側に、テント張りの屋台がずらっと軒を連ねる。普段の人出は分からないが、親子連れからお年寄りから、大勢の人がさまざまな食べ物を頬張って実ににぎやかだ。焼きそば、焼き鳥、たこ焼きといった定番に、揚げたい焼きに豚ザンギ丼などの変わり種、それにイチゴ、コンブといった浦河特産品のお店が並ぶ。思わず目移りしそうだが、目標はもちろん、ダットさんのバインミーだ。
エビチリとアボカドのバインミー700円を注文する。「パクチーは大丈夫ですか」とダットさんが流暢な日本語で聞いてくれる。お店で応対しているのは、ダットさんとベトナムの人がもう1人。次から次へとやってくるお客さんの対応で忙しそうだ。地元ではすっかり評判が定着していることがうかがえる。
空き地に設けられた長椅子に腰かけてかじりつく。フランスパンのぱりぱりした食感とアボカドの軟らかさが絶妙なハーモニーを生み出し、これにエビチリのピリ辛が混じり合う。バインミーを食するのは初めてだったが、非常に食べやすくてあっという間に平らげた。もう1種類の角煮バインミーも欲したくなるが、ここは我慢。昨晩も堪能した太平洋の恵みに向けて胃袋は空けておかなくちゃね。

☆映画を見る人生の方が豊かです
1976(昭和51)年、大学を卒業して大黒座に戻ってきた三上さんは、父親の3代目館主、政義さんを手伝うようになる。前回、2011(平成23)年に取材したとき、このときのことを三上さんはこんな言葉で振り返っていた。「ちょうど帰ってきたとき、西日の射す事務室で、父が後ろを向いて座っていた。まだ50代だったが、すごく老け込んで疲れ切っているように見えた。びっくりしました」と。
ポスターの張り替え、ボイラーの石炭くべなど、ありとあらゆる仕事をこなした。すでに映画産業が斜陽と言われるようになって久しく、映写技師も1人、2人と辞めていった。映画館だけでは生活していけず、すでに三上さんが中学か高校のころからクリーニング店を兼業し、家計を支えていた。
「クリーニングのおかげで何とか食べていけた。今もそれは変わりませんが、クリーニングもお客さんはどんどん少なくなっている。今の若い人はクリーニングって出さないですからね」と三上さんは苦笑する。
ある日のこと、大黒座を揺るがすような大ニュースが飛び込んできた。近くの国道235号などの拡幅工事が終了したのに伴い、大黒座の前を走る道道も拡張することが急遽決まったのだ。商店街は軒並み店を畳み、親戚からも「やめた方がいいんでないか。何でやるの」の声が出た。
だが政義は劇場を縮小して営業を続ける道を選ぶ。思いは単純だった。「映画を見ない人生よりも見る人生の方が豊かです」。この座右の銘は額に入れて、今も大黒座のロビーに掲げられている。
「取り壊した後、半年くらい時間が空いているので、近所の中には、もう映画館はできないんじゃないかと言い始めた人もいたみたいです。でも着々と準備はしていました。父から、やめるか、と聞かれて、やろうよ、と言ったら、うん、そうか、といったやりとりはありましたね。父もやめたいというわけではなかったようです」と三上さん。
こうして220席あった大劇場は48席のミニシアターに生まれ変わる。1994(平成6)年12月のことだ。
とは言え、人口1万人ちょっとの浦河町で映画館を維持していくのは大変なことには変わりがない。政義と雪子の夫婦に、4人の子育て真っ最中だった三上さんと佳寿子さん夫婦という家族経営でやりくりしていたが、2004(平成16)年7月2日、政義が帰らぬ人となる。大黒座は三上さんの手に委ねられることになった。
「ちょうどマーロン・ブランドが亡くなったのとほぼ同時刻でした」と語る三上さんによると、政義が他界して間もなく、まだ初七日になったかならないかのとき、上映していた「赤目四十八瀧心中未遂」(2003年、荒戸源次郎監督)のデザイン担当者が訪ねてきて、真っ赤な色をした作品の幟を何十本も劇場の周りに巻いてくれた。仏壇のお線香の香りが漂う中、鮮烈な赤が目に焼き付いて離れなかった。
その後も多難な時代は続く。フィルム映写からデジタルの上映に切り替わり、大黒座も2010(平成22)年にプロジェクターを格安で購入。ドルビーデジタルの音響システムも自費で導入した。前回の取材は、ちょうどそんな時期のことだった。
そのときの記憶で強く印象に残っているのは、母親の雪子さんが入り口の脇にちょこんと座って、猫と一緒に穏やかな笑顔で来場客を出迎えていた姿だ。雪子さんは当時85歳。「今は誰もいないときに、こうして木戸につくくらいしかできないんですが」と言っていた雪子さんは、22歳でここに嫁いできて以来、朝から晩まで映画を上映してただただ働いた。それが普通だと思ってやってきた、と話していた。
「朝は10時に開けて、ナイトショーが深夜の1時から始まり、4時半に終わる。休みはないし、ホント映画館一筋でした。でもそのおかげで体だけは丈夫で、風邪を引くこともありません。やっている間は1日もつらいと思ったことはなかったけど、それもお客さんが入っていたからできるんであってね。いつも漁師の人たちでいっぱいでしたから。今はすいていて、いたわしい限りです。ホント、みんなに見てもらいたいと思いますね。映画館を出ていくとき、みんな、テレビとは全然違うね、と言ってくれます。そうね、1回見るともう1回見てくれるかな、となりますね。この前、テレビで言っていましたが、まずクリーニングが駄目で、次に映画が駄目。駄目な商売を2つもやっていたら、それは駄目でしょう。でもやっている以上、頑張ってやっていかないと。この人(長男の三上さんのこと)の後はどうなるかわかりませんけどね」
意気軒高だった雪子さんも2021(令和3)年7月25日、この世を去る。享年95。取材のとき、雪子さんが「去年の暮れから居着いている野良猫」と言っていたミロも今はおらず、代わりにチビ、トラと続いた3代目の飼い猫となるスクが、ふてぶてしくもおちゃめな振る舞いで入場客を出迎えている。

☆5年ぶり活動弁士がうなる阪東妻三郎
午後4時、お待ちかねの無声映画「雄呂血」(1925年、二川文太郎監督)の弁士付き上映会が始まった。札幌在住の活動弁士、飯村宏美さんは、大黒座には5年ぶり3回目の登場となる。三上さんの挨拶に続いて場内が暗転。舞台の袖に陣取った飯村さんが、モノクロの画面に合わせて小気味よい解説を加える。画面にもせりふの一部が字幕で登場するものの、声色を使い分けた弁士の肉声は臨場感を伴う。阪妻こと阪東妻三郎の27分に及ぶ大立ち回りのクライマックスを経て、74分のチャンバラ映画の名作は幕を閉じた。
「昔の映画を思い、また映画を愛してもらえたらと思います」と語りかけて舞台を後にした飯村さんに、場内を埋め尽くした映画ファンから拍手が送られる。何しろ浦河近郊だけでなく、札幌や旭川などかなりの距離からも多くの人が駆け付けたという。
札幌市の出版社、寿郎社を経営する土肥寿郎さんは、飯村さんが早乙女宏美の名前で著した同社刊行の書籍「ストリップ劇場のある街、あった街」を携えて来場した。今回は本のPRという目的もあったが、単に映画を見るためにわざわざ浦河まで足を運ぶこともある。
「大黒座のことは以前から知っていたが、遠いのでなかなか来る機会がなかった」と言う土肥さんは、3年くらい前から訪れるようになった。「昔の名画座の雰囲気もあれば、芝居小屋の風情もある。東京のかっこいいミニシアターは密閉されて隙間がないけれど、ここは隙間だらけで、昔の映画館の緩さがありますよね。浦河には本屋がなく、文化の発信地として大黒座の果たしている役割はとても大きい。今の時代、インターネットで簡単に情報は得られるが、三上さんの人柄と大黒座の場の力によって手渡しで伝わるというのがいいですよね」と今や大のお気に入りの場所だ。
弁士の飯村さんも、公民館などで演じるのとは空気感が違うと認める。「歴史のある無声映画を大黒座のような古い映画館で上映するというのは、ものすごく価値があるんじゃないでしょうか。今の映画館はきれいで、椅子も座り心地がいいけれど、そればっかりがいいとはならない。こういう老舗の映画館には映画の歴史が詰まっている感じがするんです。映画が好きな人にしか分からないのかもしれませんが」とぞっこんだ。
この日の上映作品の「雄呂血」なども映画館で見る前提で撮っていて、スクリーンにかけることで絵が成立するように計算されているという。「道を歩くだけの場面でも哀愁が漂っていて、せりふがなくても情感がある。昔の映画をもっと見てほしいし、特に子どもさんに見てもらいたいですね」と話す飯村さんは、大黒座に集まる映画ファンのことを力強く思っている。
「終わった後に意見を聞かせてくれる人が多いというのも面白いし、みんながこの映画館のことを愛している。だからこそ大黒座は残っていけるんだなと実感します」

☆道内のどこかで獲れたホタテの刺身
辺りはだんだん薄暗くなってきた。そろそろ2日目の夜へと繰り出す時間だ。
前日は町内のビジネスホテルに宿泊し、お勧めのすし店へと赴いた。ホテルから歩くにはかなり遠く、まさかヒグマは出ないよな、と思いながら夜道をとぼとぼと向かったが、お店は大正解で帯広畜産大学キャンパス内の蔵で醸造する十勝の冷酒でのどを潤しながら、お刺身のおまかせ4品盛り、おすしのおまかせ握り7貫、それにイカゴロルイベをペロッと平らげた。松川ガレイやヒラメのしこしこした歯ごたえ、牡丹エビのねっとりとろけるような食感に、コクがあって出汁のきいたような深い味わいの十勝がよく合う。イカの身とゴロ、つまりワタを凍らせたルイベも苦みと甘みが溶け合って実に美味で、できれば大将にいろいろと蘊蓄を聞きたいところだったが、カウンターで両隣に座った別々の2人組が私を挟んで大声で会話を交わしている。知らない者同士、仲良くなるのはいいことだけど、1人きりのこちらとしては黙って杯を傾けるしかなかった。
さて今日はどうだろう、と期待に胸を膨らませたものの、昨日のホテルは満室で予約が取れず、空いていたのは銭湯の建物を改築したゲストハウスだけ。ドミトリーに2段ベッドという60代にはちょっと無謀な部屋にチェックインを済ませ、フロントで「魚介がおいしいところと言えば」と教えてくれた居酒屋へと向かう。
果たして、うーん、ここはちょっと外れだったかな。地酒はないとのことで、水を飲みながらお造り1人前を待つ。タコ、ホタテ、〆サバ、マグロ、エビ、ハマチ、サーモン、ヒラメの皿は、店員の説明によると全部が地のものだというが、いやいや、浦河はホタテの産地だったっけ。後から店主らしき人が出てきて、サバは函館、ホタテはここではない道内のどこかと訂正してくれた。ホッケや松川、ホッキ貝が入ることもあるというが、この日はたまたま不漁で、浦河ならではの食材がなかったそうな。残念。

☆クラス全員で「セロ弾きのゴーシュ」鑑賞
翌朝は大黒座を再訪する前に、目と鼻の先にある漁港まで足を延ばしてみた。カモメがかまびすしく飛び交い、はるかかなたまで大海原が広がる。岸の近くでは小さなモーターボートがコンブを採っている。世に名高い日高昆布だろうか。
浦河も2011(平成23)年3月11日の東日本大震災では津波の被害を受けた。高さは2.7メートルに及び、港湾施設などが浸水。大黒座は無事だったが、大津波警報が出されている間は上映を止めた。再開後、最初に訪れた客が「映画なんか見ていていいのかな」と口にしていたと、前回の取材のとき、三上さんが話してくれた。
この日の1本目の上映は、高畑勲監督の初期のアニメーション作品「セロ弾きのゴーシュ」(1982年)だ。宮沢賢治の童話を原作に、うだつの上がらないチェロ奏者のゴーシュが練習をしていると、猫やカッコウ、タヌキの子に野ネズミの母子とさまざまな動物がやってくるというおなじみのお話で、高畑監督らしい人間味あふれる63分の中編だ。ゴーシュは無声映画の楽団員でもあるという設定が、何か昨日の「雄呂血」の上映とシンクロして不思議な縁を感じる。
この作品は、浦河町教育委員会の児童生徒映画鑑賞事業で上映する映画として選ばれた。事業名はちょっと堅苦しいが、学校の授業の一環として子どもたちみんなで映画を見ようというもので、2025(令和7)年で4年目となる。小学校1年生から4年生で1作品、5年生から中学生で別の1作品を選び出し、平日は子どもたちのために上映し、週末は一般に開放される。
「やはり大黒座さんの存在が大きい」と言うのは、この事業を担当する浦河町教育委員会社会教育課の石黒千穂さんだ。石黒さんによると、この事業はもともと北海道の地域づくり総合交付金ソフト系事業に採択されて始めたもので、3年で制度が終了した後の4年目は浦河町の単独事業として実施しているという。町内には4つの小学校と3つの中学校があり、クラス全員で大黒座を訪れ、映画を鑑賞する。上映作品は、大黒座と、町民を中心とした大黒座を応援するグループ「大黒座サポーターズクラブ」などの助言を受けて決めており、これまで「ウルフウォーカー」(2020年、トム・ムーア、ロス・スチュアート監督)や「カレーライスを一から作る」(2016年、前田亜紀監督)などが選ばれている。地方の町のご多分に漏れず、浦河町も少子化が進んでおり、中学校は残念ながら2026(令和8)年度から1校に統合されるそうだ。
最近は子どもたちだけでなく、親の世代も映画館で映画を見るという習慣に乏しく、ましてや子ども同士で集まって何かをするという機会は、学校以外ではほとんどなくなっていると指摘する石黒さんは「みんなで一つの映画を映画館の暗闇の世界にどっぷり浸かって見る、そして見た後に感動したことなどを語り合うって、ほかでは得られないものだと思う。これをきっかけに、授業以外でも大黒座に足を運んで映画を体験してほしいなというのが願いです」と語る。
浦河町の出身者には、「セロ弾きのゴーシュ」にも携わっているアニメーション作家の飯田馬之介や、映画化もされた「少年と犬」などの小説家、馳星周ら文化人も多い。馳は子どものころ、大黒座でブルース・リーの映画を見て育ったことを明言しており、彼らを育んだ浦河の文化的な土壌は百年続く大黒座のおかげでもあるのではないか、と石黒さんは推考する。
「別に有名人ではなくても、ここに来ると文化的な雰囲気に触れられるので、心の豊かな人が多いような気がする。シネコンだったら映画を見て感動してもはけ口がないけれど、大黒座では見た後に館主さんや奥さんと話したり、時には見た人同士の輪ができて映画のことを語り合ったりもする。それって都会の映画館にはないことなんじゃないでしょうか。全国を見渡してもこんなすてきな映画館ってないんだよ、ということに、1人でも多くの人が気付いてくれたらいいなって思っています」
大黒座の影響を受けた人は、何も浦河町で生まれ育った人だけではない。およそ10年前に浦河町に移り住んできたベース奏者の立花泰彦さんは、この空間に魅せられて月に一度、大黒座でソロライブを開いている。すでにステージは100回を超えているし、2020(令和2)年にハロルド・ロイド主演の無声映画「巨人征服」(1924年、フレッド・ニューメイヤー、サム・テイラー監督)が上映されたときは、活動弁士の飯村さんの語りをベースの伴奏で盛り立てた。
「ここに大黒座があるということが、すごく大事なんだと思う」と言う立花さんに、大黒座の魅力について尋ねた。うんと考えてひねり出してくれた言葉は一言「居場所、ですかね」だった。

☆「石にかじり付いても守る」はない
午前10時スタートの「セロ弾きのゴーシュ」を見に、劇場の中に入る。昨日の無声映画は大勢で満席だったが、今朝はまだ誰もいない。木の椅子に一つ一つ白い座布団が敷かれている座席は、手作り感満載でそれだけでほっこりする。
48席の最後列よりも後ろ、壁際に並んだ長椅子に座る。まるで劇場を独り占めしているみたいだなと思っていると、幕が開いて上映が始まった。わざわざ私だけのために映画をかけてくれているみたいで恐縮してしまう。
「スクリーンが1つしかないので、作品数は限られます。大体1つの作品を1カ月やるんですが、100人入ったらよかったね、200人入ったらすごくいいね、といった感じですね」と話す三上さんによると、最近では「35年目のラブレター」(2025年、塚本連平監督)が相当ヒットしたが、それでも200人には届かなかったという。
入場料金は、通常の上映は大人1500円、シニア1000円、高校生1300円などとなっていて、100人に満たないというのはかなり厳しいのではないかと思うが、「基本、生活ができれば問題ない。映画は大してお金がかからないから」と三上さんはそれほど意に介してはいない。
「うちは支払いはほとんどが歩合でやっているから、入ってもそんなに儲からないし、逆に入らなくても何とかやっていける。映画館を運営するだけだったら、何とでもなるんです。だからと言って、どうしても映画館をやらなきゃならないという気持ちはありません。それを考えたら、何でお客さんが来ないんだろうと追い詰められてしまいますからね」と語る三上さんだが、コロナ禍のときはさすがにこたえたと打ち明ける。特に2カ月も休館を余儀なくされ、映画館は不要不急だなどと言われたことはショックだった。
「でも映画を見る人にとっては、映画館は絶対に必要だということが再認識されたような気がします。僕もその一人で、それまではあって当たり前と思っていたのが、映画館はなくては困るということに気が付いた。それはよかったことだと思いますね」
中には帯広からいつも通ってくる人など、大黒座がなくてはならない存在だという人は多いが、さて今後のことはどうなるのか。4人の子どもたちのうち、次女のあいこさんは北海道教育大学の学生時代、制作したアニメーション作品が新千歳空港国際アニメーション映画祭で受賞したほか、札幌のミニシアター、シアターキノでボランティアとして働いていた。大黒座を手伝っていた時期もあったし、長女のみちるさんも家族で近くに住んでいる。
だが三上さんも妻の佳寿子さんも、誰かに継いでもらいたいと願ったりはしない。三上さんも父親の政義から映画館をやってくれと言われたことはなく、それどころか政義自身、どうにでもなると飄々としていた。とある雑誌の取材を受けたとき、三上さんが「石にかじり付いても守る」と話しているかのように書かれたことがあるが、「そんなことはない」と全否定する。
2008(平成20)年に発足した大黒座サポーターズクラブのメンバーなど、大黒座がなくなっては困るという人は少なくないし、松山ケンイチや勝地涼、鈴木一真ら、事前連絡もなくふらっとやってくる映画人もいる。辺鄙な町の小さな映画館だが、多くの人にとって大切で貴重な存在だというのは確かだ。
「映画館で映画を見るというのは独特の体験で、見ないよりは見る方がいい。ごく普通に、ごく身近に、映画館があってほしいな、というだけです」
どこまでも自然体の三上さんの言葉を胸に、浦河を後にした。このまま東京の喧騒には戻りたくない。今夜は新千歳空港への道中に位置する新冠温泉に宿を取ってある。太平洋に沈む夕日を眺めながら、久しぶりに北海道限定ビールのサッポロクラシックでもあおろうかな。そんなことを考えながらレンタカーを走らせた。

《大黒座》1918(大正7)年、創業。水曜休館。北海道浦河郡浦河町大通2‐18
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋

