第341夜「DIE MY LOVE/ダイ・マイ・ラブ」リン・ラムジー監督
今夜もまた昨年2025年の第78回カンヌ国際映画祭でコンペティション部門に出品された作品を取り上げたい。残念ながらリン・ラムジー監督が手がけた「DIE MY LOVE/ダイ・マイ・ラブ」は何らかの賞を獲得するには至らなかったが、「シンプル・アクシデント/偶然」(ジャファル・パナヒ監督)や「センチメンタル・バリュー」(ヨアキム・トリアー監督)、「シラート」(オリベル・ラシェ監督)、「落下音」(マーシャ・シリンスキ監督)、「そして彼女たちは」(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督)といった受賞作と比べて遜色がないどころか、もしも当方が審査員だったら間違いなく最高賞のパルムドールに選出しただろうと思うほど、革新的で刺激的な映画になっていた。
傑作の常として、やはりストーリーはめちゃくちゃ説明しづらい。冒頭は、どこか郊外のまあまあ広めの家に若い夫婦が引っ越してくる場面が映し出される。固定カメラでのワンカット長回しによるショットは、このグレース(ジェニファー・ローレンス)とジャクソン(ロバート・パティンソン)の2人がいかにも幸せそうで、これからの愛に満ちた温かい家庭を予測させる時間が刻印されている。
だがそこからの展開は決してバラ色とはなっていかない。グレースは間もなく妊娠し、出産するのだが、ジャクソンは仕事にかまけて子育てどころか家事もろくに担わない。グレースがいらないと言っているのに犬を飼い出すし、近くに住むジャクソンの両親、パム(シシー・スペイセク)とハリー(ニック・ノルティ)の2人も厄介な存在だ。やがてグレースは身も心も疲弊していくのだが……。
というあらすじが果たして合っているのかどうなのかも実はよく分からない。決して難解な映画ではないし、小難しいせりふがいっぱい出てくるわけでもない。ただ映画の構造自体がグレースの精神状態そのままというか、しっちゃかめっちゃかのぶっ飛んだ描写のオンパレードで、いったいわれわれは何を見せられているのかと目が点になると同時に、なぜだか終始、笑いが込み上げてくる。この笑いというのも、面白おかしくてげらげら笑い転げるというパターンではなく、何かとてつもないものを見せつけられて、唖然として笑うしかないという類いのものなのだ。
例えば不快な音がある。義両親の家を訪ねた場面でグレースは義母のパムと会話を交わすが、ずっと辺りを飛び回るハエのことが気になって、パムがしゃべっている内容が全く頭に入ってこない。というグレースと全く同じ感覚を、映画を見ているわれわれもこうむっていて、この場面ではブンブンうるさいハエの羽音のことしか覚えていない。ジャクソンが勝手に買い始めた犬はのべつ幕なしに吠えまくるし、それになぜかいつも突然、馬が現れる。
あの馬は何なんだ、と思っていたら、今度はヘルメットをかぶった謎の男がたびたび登場する。目の前に出現する情景、周りで流れているさまざまな音、それらの中には意味があったりなかったり、理解の範疇だったり範疇外だったり、いろんな要素がごちゃ混ぜになって次から次へとあふれてくるのだ。そうしてだんだんと、そうか、われわれはグレースと同じような経験を映画館のシートに座ったままで体感しているんだな、ということに気がついていく。
これらはもしかしたらグレースの妄想かもしれないし、実際に起こっている事実なのかもしれない。赤ちゃんが生まれる前と生まれた後の場面が行ったり来たりするのも、グレースの混乱をそのまま表現しているようにも思える。そういう観点に立つと、何度も繰り返される象徴的なせりふ「生き永らえて絶滅する」も納得だし、「何があっても、愛が死んだとしても、しぶとく生きてやる」という哲学にも行き着く。
ただしこれも当方の勝手な思い込みであり、ラムジー監督としては自分なりの解釈で自由に見てもらって構わないと思っているに違いない。それくらいどうとでも受け取れるような大らかさがあって、徹頭徹尾、見る側を信頼していることがうかがえる。それは出演者に対しても同様で、グレースを演じたオスカー俳優、ジェニファー・ローレンスの狂気に見えない狂気の演技はすさまじく、安心し切って演技を委ねていることが伝わってきた。それもこの作品に圧倒された一因のような気がする。
英スコットランド出身のラムジー監督には、前作の「ビューティフル・デイ」(2017年)の日本公開のときに来日インタビューで一度お会いしている。ホアキン・フェニックスの主演で、カンヌでは脚本賞に輝いた作品だったが、バイオレンス映画なのに暴力描写がないというやはりとんでもない傑作だった。
その際、「今の観客はものすごく洗練されていると思うし、ある程度の情報量さえあれば点と点をつないでくれる。パブリシティーで最も楽しいのは、皆さんの解釈を聞くことです」と、当時から見る側に全幅の信頼を置いていることを打ち明けていた。作品の成功を受けて今までにはなかったような大きな予算のオファーも来ていると話していたラムジー監督だったが、「リン・ラムジーと仕事をしたいと言ってくれる素晴らしい役者とタッグを組むことができれば、自分なりのやり方でできる機会は失われないと思う」と言いつつ、その前の「少年は残酷な弓を射る」(2011年)から6年も間が空いたことから「次は6年以内で作りたい」と意欲を見せていた。
結局、それから8年もたってしまったけれど、ジェニファー・ローレンスという素晴らしい役者とタッグを組み、自分なりのやり方を貫き通して「DIE MY LOVE/ダイ・マイ・ラブ」を発表することができたのだから、われわれ映画ファンにとってこれほど幸せなことはないと言っても過言ではない。(藤井克郎)
2026年6月12日(金)、全国公開。
© 2025 DIE MY LOVE, LLC.

リン・ラムジー監督のアメリカ、イギリス合作「DIE MY LOVE/ダイ・マイ・ラブ」から。幸せな家庭を築いたはずのグレース(ジェニファー・ローレンス)だったが…… © 2025 DIE MY LOVE, LLC.

リン・ラムジー監督のアメリカ、イギリス合作「DIE MY LOVE/ダイ・マイ・ラブ」から。グレース(左、ジェニファー・ローレンス)はジャクソン(ロバート・パティンソン)と幸せな家庭を築いたはずだったが…… © 2025 DIE MY LOVE, LLC.

