【百年映画館】本宮映画劇場(福島県本宮市)
☆「ほんとの空」の下のピンクの映画館
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
本宮市を含む福島県の安達地方に差しかかると、どうしても高村光太郎の詩集「智恵子抄」に収められた「あどけない話」の一節が思い浮かぶ。高校生のころにこの詩集に接し、光太郎と智恵子夫婦の純粋な愛の言葉に涙した身としては、智恵子が言うところの「空が無い」東京を後にして「ほんとの空」が近づいてくると思っただけで、じーんと来るものがある。JR東北本線の本宮駅から安達太良山の何とも優しげな峰を背に阿武隈川のほとりに向かって歩いていくと、1914(大正3)年の創建のままの威容を今に伝える本宮映画劇場がたたずんでいた。ちょっぴりくすんだピンク色の壁が郷愁をそそる3階建ての木造建築は、いかにも「ほんとの映画館」の風情だ。
ここに来るのは3回目のことになる。最初は2009(平成21)年11月、映画館の人間模様を描く産経新聞の連載記事の取材のためだった。すでに定期上映は半世紀近くも前に休止しており、たまたま無声映画の鑑賞会が特別に開かれるのに合わせての出張だったが、活動弁士の澤登翠さんが登壇し、モノクロの画面にかぶせておなじみの名調子を披露していた。すでに築95年となる劇場での出番を終えた澤登さんは「昔の映画の魂が漂っているみたいで、ここの舞台に立つことができてとても幸せでした」と語っていたものだ。
2度目は2014(平成26)年7月のことだ。東京でファッションやアートのイベントを展開するアサクサ・コレクションが主催して、ちょうど百周年を迎える本宮映画劇場を訪ねるというバスツアーの企画に便乗して来館。館主の田村修司さんのことを著書「独居老人スタイル」(筑摩書房)で取り上げた写真家で編集者の都築響一さんの解説に続き、田村さん編集の貴重な35ミリフィルムの上映に浪曲師の玉川奈々福さんの舞台と、百年の重みが染み込んだ空間での粋なひとときをたっぷりと堪能した。
それ以来11年ぶりです、と挨拶すると、「そんなになる?」と目を細めて歓待してくれた田村さんは、初めて会ったときと変わらぬバイタリティーあふれる勢いで、息つく暇もなくしゃべりまくる。
「最近のことかと思ったら、もう何年もたってるんだから。一番びっくりしたのがこの映写機。会津若松で映画館をやっていた人が、70歳になって川崎の息子のところに行くというんで私にくれたんだ。それでこの機械をここまで運んでいるときに福島原発の事故が起きたの。私は去年かそれくらいの感覚なのに、14年もたつんだもの」とロビーに置かれている16ミリフィルムの映写機を指差す。1936(昭和11)年の生まれだからもう90歳に近い田村さんだが、記憶力も話すスピードもまるで衰え知らず。耳に心地よい福島なまりも相変わらずだ。

☆ローマの次はハワイへの旅?
今回、本宮を訪れたのは6月の初旬のこと。翌日から2日間にわたって開館111周年を記念する特別上映会が予定されていた。作品はオードリー・ヘップバーンの出世作「ローマの休日」(1953年、ウィリアム・ワイラー監督)で、本宮映画劇場にとっては実に71年ぶりの上映になる。選定したのは館主の田村さんだった。
「今はここ、全然人通りがないの。でも上映会をやれば昔みたいに人が通るかと思って。それで今回、久しぶりに上映会をやることにしたのよ。少し活気があった方がいいと思ったの」と話す田村さんによると、とにかく人を集めるには何がいいかと考えに考え抜いた末、「ローマの休日」に決めたという。
「人を集めるには『太陽がいっぱい』(1960年、ルネ・クレマン監督)じゃ駄目なの。『第三の男』(1949年、キャロル・リード監督)だの『自転車泥棒』(1948年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)だのヨーロッパの名作もいいのがあるけど弱い。後『風と共に去りぬ』(1939年、ヴィクター・フレミング監督)も上映時間が3時間超えでは駄目だ。マリリン・モンローの『帰らざる河』(1954年、オットー・プレミンジャー監督)や『ナイアガラ』(1953年、ヘンリー・ハサウェイ監督)もいいけど、やっぱり『ローマの休日』が客を呼べる。今まで見たうちで客が呼べるのは『ローマの休日』が一番だ」
こう断言する田村さんだが、「ローマの休日」には苦い思い出がある。映画全盛期の1954(昭和29)年のこと、本宮映画劇場は「ローマの休日」を封切りで上映することにした。フィルム代は1日2万円だった。売り上げは5万円くらい行くかと期待したら、これが予想外に客が入らず、1万5000円と5000円もの赤字になる。1カ月後には10万円の契約金で一般公開をする予定だったが、残念ながら取りやめることにした。だから本宮映画劇場では、「ローマの休日」は1日しか上映していない。
「本宮にはそれだけの客はいなかったのね。だって人口1万しかいないんだもの」と田村さん。今回はそのときのリベンジという思いもあるんですか、と聞くと「そういうことじゃないの。あれはあれで終わったんだから。前のことを考えたら上映できないから。悔しくて」と豪快に笑う。それにしても映画のタイトルが次々と出てきたり、昔の上映のことを事細かく覚えていたり、田村さんの若々しさには本当に驚かされるばかりだ。
ちなみに来年は、鶴田浩二、岸惠子主演の「ハワイの夜」(1953年、マキノ雅弘、松林宗恵監督)をやりたいと意気込む。「今年はローマだから、この次はハワイがいいかなと思ったの。ハワイというのは客を引くんだもの。当時は大入りだった。日本人にはハワイに行くなんて夢の夢だったの。そのハワイでロケをした映画なんだから……」
田村さんの饒舌は止まらない。

☆「警察日記」のロケにぎゅうぎゅう
この辺りで本宮映画劇場の歴史について触れてみたい。田村さんの話と、田村さんの三女で3代目館主を標榜する田村優子さんの著書「場末のシネマパラダイス」(筑摩書房)によると、1914(大正3)年にこの木造トラス小屋組木ずり漆喰塗りの建物が建てられた当初は本宮座という劇場名だった。町民有志がお金を出し合い、株式会社を組織して完成。町の人たちからは定舞台(じょうぶでい)と呼ばれ、集会、演説会、旅芝居、浪花節などさまざまな目的に利用されていた。
やがて昭和に入ると映画の興行も行うようになる。株式会社の社長は小松茂藤治という人で、この小松社長から劇場経営の権利を取得していた菅野さんと小川さんという2人が、1週間を3日と4日ずつ代わりばんこに運営していた。
1943(昭和18)年、この2人のうちの小川さんから、田村さんの父、田村寅吉が権利を買い取る。寅吉は本宮座の近くで、妻のコウとアイスキャンディー店、精肉店を営んでおり、その売り上げから劇場の家賃を支払っていた。だがもう1人の菅野さんは週に半分の劇場収入だけだったことから家賃が払えなくなり、寅吉が2人分の権利を手に入れることになる。1947(昭和22)年ごろのことで、1人で経営するようになった寅吉は劇場を映画の常設館にして、館名も本宮映画劇場に変えた。1階だけで240席あり、全盛期には2階席、3階席まで満杯になったこともある。時は戦後の復興期。映画は娯楽の王様として、庶民にとってなくてはならない存在になっていた。
まだ10代だった2代目の田村さんも、父親を手伝って映画の仕事を覚えるようになる。番組編成から宣伝、映写と何でもこなした。特に高校生になってからは、作品の選定は一手に引き受け、映画会社との金銭交渉だけを父親がやるようになっていた。
「評論家の褒める映画って客が来ないんだ。黒澤明の『生きる』(1952年)は、うちの従業員もすごく褒めるの。いや、これはいい作品だって。『キネマ旬報』でも1位になったんだ。でもお客は毎回5~6人しか来ないの。島倉千代子が主題歌を歌った『この世の花』(1955年、穂積利昌監督)は、評論家の評価点は30点くらい。くだらないって。でも大ヒットした。それで10部まで作ったの。評論家が褒める写真って、客が来たためしがない。結局、一般大衆に受けるのはつまんない映画。評価点は30点、40点というのが商売になるの」と田村さんは持論を展開する。
そんな中で異例の大ヒットを記録した映画がある。森繁久彌や三國連太郎らが東北地方の警察官を演じた人情喜劇「警察日記」(1955年、久松静児監督)だ。本宮でもロケが行われたご当地作品とあって、朝の10時から夜の10時まで一日中、立ち見もひしめく超満員の入場客であふれた。3日間だけの公開だったが、30万円もの売り上げだったと田村さんは懐かしがる。
「ロケのときは本宮駅から大通りまで人がぎっしりで、本宮のお祭り以上の人出だった。もうぎゅうぎゅうだったの。私も駅前に行ってみたけど、旅館の玄関で撮影していたのを遠くからちょこっとのぞいただけ。だけど黒山の人だかりだったから、あんまり宣伝しなくてもお客が来たんだよね」
ちなみにこのとき撮影が行われた旅館は千鶴荘(ちかくそう)と言って、映画の中では沢村貞子が女将を演じた料亭として登場する。森繁演じる巡査が幼い姉弟の捨て子を見つけ、この料亭で預かってもらうのだが、名乗り出た母親に別れたわが子を一目見せようとジープを往復させる人情味あふれるクライマックスシーンは、確認してみると確かに大勢の人々でごった返している。恐らく映り込んでいるのは野次馬として押しかけた本宮の人たちなのだろう。モノクロの映像の隅々から町の歓迎ぶりが伝わってくる。

☆眼科がきっかけで45年ぶり活気
だが威勢のいい時代は長続きしなかった。1951(昭和26)年には町にもう一つの映画館、本宮中央館が誕生し、大映と東映の映画をかけるようになる。本宮映画劇場は松竹と東宝、新東宝の作品を上映していたが、東宝のセールスマンがいきなりフィルム代を倍にすると言ってきた。
「うちのおやじが契約しなかったら、向こうの映画館に行っちゃったの。裏で向こうの映画館の社長が東宝と話し合って、こっちは本宮映画劇場の倍を出すから売ってくれと言ってたのよ。終戦後、ずっとうちで東宝をやっていたけど、諦めたんだ」と田村さん。
ちょうどそのころ、日活が映画製作を再開する。東宝を手放す代わりに日活をやろうということになって、寅吉が東京の日活本社に行って契約を交わした。日活映画の「警察日記」が公開されたのもそんな時期だったが、日活も客が入らない上にフィルム代の値上げを要求してきて、結局、1年間だけの契約で終わった。
「『国定忠治』(1954年、滝沢英輔監督)とか『沓掛時次郎』(1954年、佐伯清監督)とか時代劇をやってたんだけど、全然お客が来ないの。だって辰巳柳太郎と島田正吾だもの。そのころの時代劇は市川右太衛門とか片岡千恵蔵じゃないと駄目なの」
新国劇の渋い舞台役者だった辰巳と島田に対し、右太衛門と千恵蔵は華麗なチャンバラで東映を時代劇映画の頂点に導いた二枚看板だ。本宮映画劇場が手放した日活はその後、石原裕次郎や小林旭、吉永小百合といった大スターが育って人気を集めるが、すでにライバルの中央館に移った後だった。
さらに悲劇が重なる。館主の寅吉が1956(昭和31)年に急逝し、田村さんは20歳でトップの座を引き継ぐことになる。若き2代目館主は現在も稼働しているカーボン式映写機を新調したほか、小型映写機を携えて学校や温泉旅館などを巡回する出張上映を企画するなど奮闘努力するものの、借金は徐々に膨らんでいった。ついに家賃が払えなくなり、葬儀会社を経営している知人に肩代わりしてもらう代わりに劇場を閉鎖。田村さんは自動車販売会社の福島トヨペットに勤めることになる。1963(昭和38)年8月のことだった。
「8月に映画館をやめて、翌年の3月15日に勤め始めたんだけど、その半年の間に自宅の電話まで売ったの。1月ごろには貯えが1万円もなかったんだから。4月15日には給料が出るかと思ったら、25日までもらえないんだもの。大した生活してたんだ」とあっけらかんと苦労の跡を振り返る。
だが営業は停止しても、映画館を諦めたわけではなかった。いつ再開しても上映できる作品があるようにと、B級ピンク映画を製作していた六邦映画などからせっせとフィルムを買っていた。電気はつないだままで、日曜のたびに映写機に油を差すなどメンテナンスに努めた。トヨペットに勤め出した後に結婚した妻の富久子さんには「私と劇場、どっちが大事なの」と聞かれたほどだ。
「結婚して1年たったらこう言われたの。ボーナスはどうしたの、って。でも映画館をやってる間はボーナスなんてなかったから、ボーナスは当てにしないで生活してくれ、と言ったんだ。そしたらもう何にも言われなかった」
ボーナスの積み立てで、3人の娘を大学までやった。トヨペットは定年まで勤め上げた。退職したら映画館を再開する。それが心の支えだった。だが63歳で会社を辞めたとき、時代はすっかり様変わりしていた。
21世紀が間近に迫っていた。映画界もシネコンの勃興で、既存の劇場はどんどん閉鎖に追い込まれていたころだ。ライバルの中央館はすでに1990(平成2)年には姿を消していた。
どうしようかと考えているうちに、よわい70を超えてしまっていた。再開の見込みもなく、もう電気も遮断しようかと思っていた矢先だった。まつ毛が引っかかって痛くなり、近くの眼科に診てもらいに行った。
「そしたら先生が劇場を見たいって言うの。ここのすぐ近くの郵便局に来たときに劇場が見えたのね。あの建物は誰のだ、田村さんのだ、となって私に聞いてきたの。劇場を見に来るなら、ついでに映画を映して見せっかな、と言ったら、眼科に出入りしている地元紙の人が聞き付けて、新聞に載っちゃったのよ」
入場無料とあって私も見たいという人が続出。当初は5人の予定が130人ほどの人で埋まった。手入れを欠かさなかったご自慢のカーボン式映写機で、田村さんがこつこつ集めていたフィルムを自分で編集したものを上映した。2008(平成20)年6月、本宮映画劇場におよそ45年ぶりに活気が戻った瞬間だった。

☆「もぎりさん」との遭遇
復活を遂げたとは言っても、定期的に上映できるようにはなっていない。トイレは取り外したままだし、むき出しの床はでこぼこと波打ち、座席も大半は昔のままの木の椅子で座り心地は決してよくない。それでもさまざまなメディアで取り上げられ、何度も上映会が企画された。それどころか、ふらっと劇場を見に来た人がいると、通りを挟んだ向かい側の自宅に田村さんがいれば声をかけに現れ、中を見せてあげることもある。
「結局、百年が効いてるのよ。百年もたってる劇場がどういうものかと思って来るんだ。90年のころは大したことなかった。人間も百歳生きたら注目されるの。80歳くらいじゃ駄目だから。人間と同じなのよ」
今回の「ローマの休日」の上映会も、すでに2日間とも50枚ずつの前売り券が完売しているという。翌日午後1時の開場までには再訪することを伝えて、いったん本宮映画劇場を後にする。今夜のお宿は、田村さんが出張上映で回っていたこともある岳温泉だ。
安達太良山の麓に位置する二本松市の岳温泉は、坂上田村麻呂が東征の際に発見したとされる歴史を誇り、泉質は全国でも珍しい酸性泉だ。温泉街の目抜き通りはヒマラヤ大通りと呼ばれ、居酒屋や料理店が軒を連ねるが、予約を取ったホテルは安達太良山方面にもう少し上ったところにあり、歩いて夜の街に繰り出すのは無理っぽい。部屋から安達太良山を眺めることはできないが、逆方向の大滝根山、日山、花塚山といった阿武隈山地が目の前に広がっており、晴れていれば美しい日の出が拝めるという。ウェルカムドリンクとして用意された二本松の地酒、千功成(せんこうなり)の酒粕を使った甘酒をいただいて、いざ温泉へ。
無色透明の酸性泉はしっとりと滑らかで、2種類の内湯は広々としてゆったりしている。山の方にちょっと石段を上ったところにある素朴な外湯は白い湯の花が青空の下、ふわふわと光を反射して美しい。肌にまとわり付く湯の花のせいか、体の芯からぽかぽかしてくる。
お楽しみの温泉御膳は、食前酒の自家製柚子酒から始まって、先付の菜の花とアサリのからし和えに、前菜は枝豆、稚鮎、鴨、豆乳ゼリーなど、さらに春野菜のお鍋に黒毛和牛の焼きしゃぶ、若鶏の玉素焼きに福島県産自家精米の麦とろご飯とたっぷりの食べ応えだ。地酒も豊富で、二本松の酒蔵飲み比べを頼むと、千功成の甑峯(こしきみね)に黒人気、奥の松、大七と4種類の冷酒が出てきた。いずれも二本松市内に蔵を構え、安達太良山の伏流水で仕込んでいながら、微妙に味わいが異なる。いいお湯、いい酒、いいお米、そして明日はいい映画と来れば、こんな幸せなことはない。
上映会初日、土曜日の本宮映画劇場周辺は、前日の静けさとは打って変わって、大勢の人でにぎわっていた。劇場入り口前の空間には幟や看板が掲げられ、Tシャツやトートバッグなど本宮映画劇場グッズが売られている。3代目館主の田村優子さんによると、手伝っているのは、福島県いわき市で閉館した映画館をリニューアルし、新たに小名浜座というイベントスペースとして活動しているメンバーたちだという。同じ県内で古い映画館を活用する者同士、連携して手助けするという支え合いの精神が麗しい。
大道芸人のチャタさん扮するカラフルなパラソルを差した脚長ピエロに導かれて劇場内に足を踏み入れると、あら、おなじみの顔が水色の上っ張りに頭巾姿でチケットをもぎっている。「かもめ食堂」(2005年、荻上直子監督)、「私をくいとめて」(2020年、大九明子監督)など数多くの映画、テレビドラマに出演している俳優の片桐はいりさんで、この日は雑誌の取材で来訪したという。
「もぎりよ今夜も有難う」(キネマ旬報社)の著書のある片桐さんは、かつて映画館のもぎりのアルバイトをしていたことがあり、今も地元の東京・大森にある映画館、キネカ大森で、時間があれば劇場入り口に立って客を出迎えているほどの映画館好きだ。地方に行くと必ず地元の映画館に寄るそうで、本宮映画劇場も一度、訪ねたことがあるが、そのときは田村さんが不在だったのか、中に入ることはできなかった。
今回は取材ということもあって堂々と劇場内に足を踏み入れ、嬉々としてもぎりの仕事を買って出ている。実は片桐さんとは何度かお会いしていて、特に彼女が主役を務めるキネカ大森独自の先付ショートムービーが製作されたときは、6話からなる第1弾の「もぎりさん」(2018年、大九明子監督、菊地健雄監督)も、同じく第2弾の「もぎりさん session2」(2019年、鈴木太一監督、瀬田なつき監督)も撮影時にお邪魔して、第2弾ではエキストラとして共演までしている仲だ。後ほど今日の感想をお聞きしたいのですが、と声をかけると「いいですよ」と快く即答。ありがたや。

☆ぎしぎしざわざわカタカタカタ
そうこうしているうちに上映会の幕が開いた。まずは本編の前に、福島県出身の映画監督で活動弁士でもある山田広野さんによる約3分間の短編を上映。本宮映画劇場のことをよく知ってもらうための作品とのことだが、座席の一つ一つに笑顔のアニメーションを描き込むなど凝った作りが楽しい。
和やかな雰囲気の中、いよいよ「ローマの休日」の71年ぶりの上映が始まった。スクリーンは染みが目立つし、音声も決してよくはないが、現在はおよそ100席となっている館内がほぼ埋まっている光景は壮観そのもの。フィルムではなくデジタルでの上映だからカタカタカタという映写機の音は聞こえないが、ぎしぎしときしむ座席にざわざわとした人いきれの雰囲気が重なって、百年を超える劇場が何だか喜んでいるように思える。ラストの記者会見の場面、オードリー・ヘップバーンの顔が大写しになって、「Rome! By all means, Rome.」の名ぜりふを発した瞬間、たまらず涙腺が崩壊した。
エンドマークが出て上映会は無事終了。と思いきや、ここでガッシャンと機械音が響き、カタカタカタという動作音とともに不鮮明な映像がスクリーンに映し出される。今や日本ではここにしかないとされるカーボン式映写機を作動させて、田村さんがさまざまな映画や予告編の名(迷?)場面をつなぎ合わせた秘蔵フィルムの上映が始まった。後ろを振り向くと、映写室の小窓からは田村さんの真剣な顔がのぞく。
わずか8分ほどの短いフィルムだが、ラストはスクリーンを目いっぱいに使ったシネマスコープサイズに切り替わり、女性歌手が演歌を熱唱する映像が流れる。何の映画のどういう場面かは不明だが、予期せぬ画面のワイド化に、場内から思わず「おーっ」との声が漏れる。
「急にワイドスクリーンになるからね。あれがいいのよ」。映写を終えた田村さんが満足そうな表情でほほ笑む。
そもそもカーボン式とは何ぞや。本宮映画劇場も登場するドキュメンタリー映画「旅する映写機」(2013年、森田惠子監督)のパンフレットに映写技師の神田麻美さんが寄せている文章によると、2本の炭素棒(カーボン)を陽極と陰極として大きな電流を通し、電極間のアーク放電によって放たれた高輝度の光を光源とする映写機のことだ。上映中に何度もカーボンを交換する必要があるなど扱いが非常に難しく、コストや安全性の面からも1960年代ごろから徐々にキセノンランプを使用する映写機に切り替わっていったが、田村さんは1963(昭和38)年に営業を停止したこともあり、カーボン式映写機をずっと保管し、手入れを続けてきた。
さらに本宮映画劇場には、タコ整流器と呼ばれる大型水銀整流器も稼働可能な現役として保存してある。整流器とは交流の電源から直流の電気を作り出す装置で、田村さんに見せてもらったが、まるでタコ足のように何本もガラス管が突き出ている巨大な装置が別室で大事に保管されていた。
この整流器で電源を確保し、映写機のカーボンを放電して発光させる。「タコ整流器はあらかじめあっためないと、点火が遅いんだ。冬は6時間もあっためておくの。昼の1時から上映するのに朝からあっためとく。映写機のカーボンは、燃え方によって明るくなったり暗くなったりするんだよ。キセノンは電源を入れたら後は問題ないの。でもカーボンは画面が暗くなったら駄目だから、上映中もずっと画面ばっかり見てる。それが困るんだ。以前は1時間、2時間の映画も苦にしなかったけど、50年もやめてるとめんどくさい。たった1巻上映するのがすごくめんどくさいんだもの」と田村さんは笑う。

☆木戸銭を払うだけで異世界体験
この後、近くの食堂で夕食を兼ねた打ち上げをやるから、と誘われる。片桐はいりさんも参加されますよ、と言うので、ぶしつけながらご相伴にあずかったが、主役であるはずの田村さんは来ないという。どうやら大勢で集まる場が苦手らしい。
鶏がおいしいお店だというので、名物の鶏肉のソースかつ丼を注文する。料理が運ばれてくる間、片桐さんに感想を伺う。
「『ローマの休日』も久しぶりに見たので感動しましたが、お父さんの編集したフィルムがよかった。最後、シネスコサイズになった瞬間は声が出るかと思うくらい泣いてしまいました。『ローマの休日』の2倍くらい泣きましたよ」と興奮冷めやらぬ片桐さんは、今回、本宮映画劇場が百年もそのままの姿で残っていた秘密を解き明かしたくて田村さんに話を聞きに来たが、答えは一つも分からなかったと苦笑する。
片桐さん自身、映画館に出かけてはもぎりを手伝ったり掃除をしたりしていることについて、よくその理由を聞かれるという。そういうときは「ものすごいカーマニアの人が、自分の車が汚れてもいないのにいつも磨いている。それと同じと考えてもらえませんか」と答えているそうだ。トヨペットに勤めながら、貴重な週休1日の休みを利用して映画館の維持に努めてきた田村さんにも「車を磨くようなものですか」と水を向けてみたら、返ってきたのは「俺は磨かねえ」だった。
「トヨペットにいた方たちはみんな自分の車を売りたいから磨くんだけど、俺はやらなかったって。その分、劇場をきれいにされていたんだなと思って、何となく自分を納得させました」
そう言ってほほ笑む片桐さんは、古い映画館が残っているのは奇跡みたいなもので、ノスタルジーとかレトロ趣味といった言葉では片付けられない気がすると言う。「町の中のちょっと怖い暗闇、ドアを開けて木戸銭を払うだけで行ける異世界、そういう意味の映画館なりかつてのムードなりが、やっぱり私は好きなのかなと思います。今の時代の黒か白かはっきりしろ、みたいな空気の中で生きていると、ああいう場所にいるとほっとするんですよね」と言葉を紡いでくれた。
本宮映画劇場を紹介する3分間の短編を披露した山田広野さんにも、映画館を残すことの意義について尋ねた。
「ああやって維持してくださって、映画好きの一人としては心からありがたいと思う。うらやましいくらいの話です」と話す山田さんが生まれ育った会津若松には、今や映画館は1館もなくなってしまったと嘆く。
映画館のよさは、知り合いでもない者同士が同じ空間で共通の体験をすることではないかと山田さんは言う。びっくりするシーンでは声にならないどよめきが起きたり、終映後に知らないおじさんから「驚いたね」と話しかけられたり、そういうことが起こり得るのが映画館で映画を見る楽しみではないかと考える。
「個人個人で本を読んで感想を言い合うこともできるが、一度に同じ場所でいろんな人がいろんな反応をする、しかも丸っきりリラックスした状況でそれを体験する、というのは、ほかに例えることができない得がたい体験です。僕が映画館で見る映画、やる映画にこだわっているのはそこですよね。111年たっても、集まった人に感動なり笑いなり、心を揺さぶることを提供しているって素晴らしいことだし、ここを残していくことに少しでも協力していきたいと思っています。いや、関わらせてもらって、むしろありがたいくらいです」と感謝の言葉をつなぐ。

☆日の目を見た桃色秘宝フィルム
111年の間には戦争もあったし、さまざまな自然災害も起きている。1945(昭和20)年4月12日の郡山空襲の際は近くの郡是製絲本宮工場が爆撃を受けたが、劇場は延焼を免れた。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災では大きく揺れたものの、建物は被害に遭っていない。
「だってこれ建てたの町の大金持ちだもの。いい大工さんが来たと思うんだ」と話す田村さんによると、劇場内は大黒柱がない造りにもかかわらず、びくともしなかった。「向かいの自宅から見たらまっすぐ建ってるから大丈夫だなと思って。天井が落っこちたかとも思ったんだけど、落ちてなかった」と飄々と語る。
だが大変だったのは2019(令和元)年10月の台風による水害だった。阿武隈川が氾濫し、辺り一面が冠水。劇場はそれほどでもなかったが、田村さんの自宅が水に浸かった。劇場を再開したら上映しようと田村さんがせっせと集めていた貴重なフィルムも水をかぶった。「ちょうどフィルムの修理をやっていたから1階に置いていたの。タイミングが悪かった。川の水が家まで入ってくるなんて思わなかったんだ」と田村さん。
だが3代目館主の優子さんの呼びかけで多くの人がボランティアで駆け付け、フィルムの洗浄、修復を手伝ってくれた。これらのフィルムは、優子さんがアルバイトとして働く東京の名画座、ラピュタ阿佐ヶ谷で、2022(令和4)年に続いて2025(令和7)年5月にも「本宮映画劇場presents六邦映画6つの桃色秘宝」と称した特集が企画され、上映の日の目を見た。
今回の本宮での111周年記念上映会も作品選定こそ2代目だが、ゲストの交渉なり告知なり、お膳立ては3代目が整えた。
「丸々1本の映画を上映することって、こういうふうに本宮映画劇場をみんなに知ってもらえるようになってからほとんどなかったですからね。一般向けには初めてだったから、それが実現できたのはうれしかったです」と話す優子さんだが、本宮映画劇場は小さいときから目の前にあって、好きでも嫌いでもなく当たり前の存在だった。せっかく自分の家が映画館なんだから生かせたらいいな、という程度で、どうしても残さなくては、といった悲壮感はない。
「映画館って、行くと暗い気持ちにならないですよね。常にわくわくするというか、何か元気が出るというか、そんな気がするんです。娯楽の場所ですから。昔の楽しかった思い、盛り上がった空気が、今も生き残っているような気がして、だから映画館が好きなんですよね」
夜のとばりがとっぷりと下りて、駅前通りもひっそりと静まり返る中、市街地で唯一というビジネスホテルに向かう。今夜の宿泊場所のこのホテルは、以前は千鶴荘という旅館だったらしい。そう、「警察日記」で森繁久彌が右往左往していたあの料亭だ。かつてのにぎわいの跡をたどりながら、上映会2日目の明日は、田村さんがカーボン式映写機を回している瞬間のもうちょっとましな写真を撮りたいな、などと考えていた。

《本宮映画劇場》1914(大正3)年、本宮座として創業。1963(昭和38)年、通常営業を停止。福島県本宮市本宮中條9
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋

