【百年映画館】高田世界館(新潟県上越市)
☆令和最初の日の夫婦旅行
5月も中旬に入り、ぼちぼち真夏日も出ようかという陽気ながら、えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインの車窓からは雪をかぶった山々が見える。さすがは日本有数の豪雪地帯として知られる越後高田だ。古い洋風建築を模した高田駅を出ると、雁木と呼ばれる雪よけのひさしが軒を連ねる昔ながらの通りが独特の町並みを形作っていた。
「でも近年は昔ほどの雪害は減っている印象です。融雪設備も充実しているし、場合によっては共同で一斉に雪かきをしますから、雪が消えるのも早いと思いますよ」と、今回お世話になる民泊を営む原理佐さんは説明する。奈良県出身の原さんは佐渡を拠点に活動する芸能集団、鼓童に惹かれて新潟に通ううち、思い切って上越市に転居。その後、高田の中心部にある町家の空き家に縁ができ、住宅宿泊事業法、いわゆる民泊法が施行された2018(平成30)年から自宅兼宿泊施設として運用している。上越市は1971(昭和46)年に高田市とお隣の港町、直江津市が合併してできた。
「高田世界館の隣に『世界ノトナリ』というカフェがあり、うちはその真裏に当たることから『世界の隣の裏』と言っています」と原さんは笑う。
民泊に荷物を置かせてもらって、早速、裏手を流れる儀明(ぎみょう)川を挟んでたたずむ高田世界館に向かう。表通りから屋根の付いた渡り廊下のような外回廊が延びる奥まったところに、1911(明治44)年に建てられた姿を今に残す築114年の映画館があった。おお、感動の初対面、ではなく、実は前に一度、この場所を訪れている。
平成が終わる2019年4月30日、この日を最後に産経新聞を早期退職することになった私は、記念すべき日を記念すべき場所で迎えたいと旅行を計画。かねてから映画館ファンとしてはぜひとも見てみたいと思っていた高田世界館まで、妻と2人でドライブをすることにした。
関越自動車道から上信越自動車道を経て、まずはお隣の妙高市にある関温泉で1泊。地酒で新聞記者生活最後の日の祝杯を上げた翌日、お目当ての高田世界館に向かった。有料の館内見学で擬洋風の文化遺産をじっくりと愛でた後、2階最前列の中央で見たのは「万引き家族」(2018年、是枝裕和監督)だった。カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝いた「万引き家族」はすでに鑑賞していたが、令和の初日に明治の劇場で世界的な名作を会社員生活から解放されたフリーな立場で見るということに何だかものすごい感動を覚え、映画の素晴らしさも相まってちょっと感極まった記憶がある。
このとき以来、丸6年ぶりの訪問だったが、高田世界館は以前と同じように古めかしくも堂々とした姿を保っていた。外回廊の奥手にある木製の枠にガラスがはめ込まれた小さめのドアを開けると、上映中の映画の音声が漏れ聞こえる。ということは、ロビーでの話し声も劇場内に筒抜けということだ。事前に連絡を取っていた支配人の上野迪音(みちなり)さんが、小声で「近くに落ち着いて話ができる場所がありますから」とささやく。
案内してくれたのは、表通りを挟んで斜め向かいにある「町家交流館 高田小町」という公共の交流施設だった。やはり明治期に建てられた町家を活用。吹き抜けと天窓のあるロビーのほか、土蔵やら茶室やら昔のままの風情を残した部屋を再生して、誰もが無料で利用できるスペースになっている。この辺りには、ほかにも江戸末期のものなど古い町家が何棟か残っていて、ぶらりと近所を街歩きするだけで百年前にタイムスリップしたかのような感覚が味わえる。

☆ひっそりとピンク映画を上映
「僕も町家で育ちましたが、狭くて暗くてぼろくて、多感な思春期のころはそういう家に住んでいるというだけで、それなりにひねくれさせるものでした。家に人を呼びたくない、パーソナルな部分は隠したい、という感じでしたね」と話す上野さんによると、高田駅よりも南側に位置し、にぎやかな商店街として発展した「上(かみ)」に対して、駅の北側に広がるこの辺りは「下(しも)」と呼ばれ、長く放っておかれた地区だったという。
現在は上越市の一部になっている高田の町は1614(慶長19)年、徳川家康の六男、松平忠輝によって築かれた高田城の城下町として整備された。わずか4カ月で完成させた城は石垣を用いず、天守閣も存在しなかった。
1741(寛保元)年からは姫路城から入封してきた榊原氏の居城だったが、明治維新の廃藩置県で殿様が去った後に入ってきたのは陸軍だった。1908(明治41)年に高田城跡地に陸軍第13師団が入城。城下町にはさまざまな商店、問屋のほか劇場などの遊興施設が立ち並び、その一つとして1911(明治44)年、高田世界館の前身となる高田座が開館した。芝居小屋としてのスタートだった。
「劇場は『上』の方に多くあって、高田座は芝居小屋としては最後にできたと言われています。この辺りは商業地域としては端っこの方でした。ただ映画の上映は高田で一番早かったようですよ」と上野さんは説明する。
その後、1916(大正5)年には世界館に名称を変更。映画の常設館となる。軍都としての高田はその後、1925(大正14)年に軍縮で第13師団が廃止され、歩兵第15旅団司令部が置かれたが、戦時中に空襲を受けることなく、ほとんどの建物はそのまま戦後を迎えた。2階席を有する擬洋風建築の立派な木造劇場だった世界館も姿を変えずに存続する。当時は椅子席ではなく土間に畳が敷かれ、1階の後方に映写室があったという。「最盛期はベンチ席に観客を座れるだけ座らせて、後は立ち見でぎゅうぎゅう詰めの状態だったそうです」と上野さん。
昭和に入って以降、もともと世界館で弁士をしていた家系の熊谷家の所有になり、1933(昭和8)年には高田東宝映画劇場と名称を変更。さらに高田セントラルシネマ、松竹館、高田大映、テアトル高田と次々と改称するが、庶民の最大の娯楽として大盛況を誇った映画産業も1950年代後半をピークに急速に斜陽化し、1975(昭和50)年には高田日活となって成人映画の専門館となる。ちょうどそのころ、支配人の熊谷典之が急逝し、まだ30代だった妻の栄美子が跡を継ぐことになった。
「栄美子さんがおっしゃるには、もし男だったら事業を大きくしようという可能性もあったかもしれない、と。ボウリング場にしないかという打診もあったようですが、劇場として残したいという思いが強かったみたいです」と証言する上野さんによると、子どもだった1990年代は映画を上映しているのかどうかも分からないくらいひっそりとしていたという。この辺り一帯が時代に取り残されているような地区で、上野少年としては「近くに寄ろうとも思わなかった」と打ち明ける。
まるで長い眠りについているかのように特定の男性客相手に細々とピンク映画をかけていた高田日活に変化の兆しが見え始めたのは、もう21世紀も数年が経過したころのことだった。それにはテレビタレントとしてもおなじみの落語家、笑福亭鶴瓶の一言が影響している。

☆あの落語家が「残さなあきまへんで」
武蔵野美術大学大学院の油絵コースを修了後、東京で画家のかたわらデザイン系の仕事に就いていた岸田國昭さんは、生まれ故郷の高田に住む両親から、体調が悪くなったこともあって「こっちに戻ってこないか」と声をかけられる。地元のデザイン会社で働きながら親の介護をすることになったが、岸田さんの高校の同級生に落語家の三遊亭白鳥がいて、岸田さんは仕事とは別に白鳥の後援会として年に1回、落語会を手がけるようになる。
白鳥はSWA(すわっ)の愛称で知られる新作落語の落語家集団「創作話芸アソシエーション(Sousaku Wagei Association)」の一員で、ほかには林家彦いち、春風亭昇太、柳家喬太郎がいる。2006(平成18)年、NHKのバラエティー番組「鶴瓶の家族に乾杯」のゲストとして出演することになった昇太は、鶴瓶とともに訪ねる旅の目的地に高田を指定する。もともと昇太の出身地、静岡県清水市(現静岡市清水区)は、戦後間もなくから高田との間で中学生がお互いにホームステイをする交歓制度があり、中学時代は選に漏れていた昇太にとって高田はぜひとも行ってみたい場所だった。
しかもお仲間の白鳥の出身地でもある。念願の高田を番組ロケで訪れた昇太が鶴瓶と番組を進めていく中で、白鳥が地元の高田で落語会を開催している古い映画館の話になり、今度、鶴瓶、昇太、白鳥の落語3人会を開こうということになった。その準備を整えたのが、以前から白鳥の落語会の手配を引き受けていた岸田さんだった。
高田日活で開かれた3人会の後の打ち上げの席で、岸田さんは鶴瓶に言われる。「ここは残さなあきまへんで」
「2007(平成19)年7月に起きた中越沖地震で雨漏りをするようになり、オーナー側からはもう上映はやめようかという話も出ていたんです。でも映画館は残さなければ、と任意団体を作って保存活動を始めることになりました」と岸田さんは当時を振り返る。
自主上映会の主宰者や建築士、弁護士らがメンバーとなり、2009(平成21)年には岸田さんを代表にNPO法人街なか映画館再生委員会を設立。建物と営業権を熊谷栄美子さんから譲り受け、改修をしつつ映画上映に加えて落語会やコンサート、地域のイベントなどに活用していくことになった。館名も映画常設館になったころの世界館を復活させて、高田世界館とした。
「ただ正直に言うと、映画館として残せるか、自信はありませんでした。私自身、もう20 年近く映画は見ていなかったし、ほかのメンバーも歴史的価値は理解できても現実の資金面では維持できるか自信はなかったと思います。映画館ではなくても、街なかの熱源として集客の場にできればと思っていた。初めから映画を中心にしていたら、ちょっと違う方向に向かっていたかもしれません。映画好きは映画のこととなると俯瞰的なものの見方ができなくなりますからね」と岸田さんは苦笑する。
整備のための資金集めからのスタートで、定期的に映画を上映するなんてまだまだ遠い夢だった。だが2011(平成23)年にここで映画を撮りたいという企画が舞い込む。「シグナル 月曜日のルカ」(2012年、谷口正晃監督)という作品で、特に何にも利用していなかったことから高田世界館をまるまる使ってロケが行われた。「ご当地映画になるわけですから、当然ここでも上映したい。その辺りから、本格的に映画館という形に持っていけたらいいかなとなっていきました」と岸田さん。
さらに東日本大震災発生の翌日、2011(平成23)年3月12日に起きた長野県北部地震で、上越市でも土砂が崩れるなどして被災地に指定され、さまざまな事業に補助金が出ることになった。これで人を雇うことができる。
「自分がやるほど映画にそんなに興味はないし、誰かいい人がいないかなと思っていたら、上越市役所で文化振興課の課長をしている女性の息子さんが、横浜国立大学の大学院を出て就職せずにふらふらしていた。映画やらない? と聞いたら、本人も、やるやる、と乗り気で、それで来てもらうことになりました」
そのふらふらしていた人物こそ上野さんだった。2014(平成26)年のことだ。

☆大林宣彦の来館時に起きた奇跡
横浜国立大学から大学院へと進む中で建築系の勉強に触れた上野さんは、子どものころ、隠したい、恥ずかしい、と思っていた町家の町並みが研究対象になっていることを知る。少年時代に感じていたどろどろとした思いが一気にひっくり返った。町づくりをテーマに活動する地元のいくつかのNPOとも接点を持ち、興味を深めていたところに、映画館の専属スタッフとして働かないかという話が舞い込んだ。もともと向こうで暮らしながら町づくりに関わりたいと思っていたが、映画館という拠点があれば帰ってくるのもいいかもしれない。大学院で学んだこととも地続きだ。
「町づくりってすごく抽象的で、町づくりをやろうと思っても、空回りする危険性もある。でも映画というコンテンツを挟むことで、逆に自由度が上がる気がしたんです。映画の題材に合わせて商店街とコラボするなど地域とのふれあいもできる。映画ならではの器の大きさ、自由さがあると思いました」と上野さんは指摘する。
だが実際に世界館に入ってからは、映画と町づくりを結び付けるという意識は消えていた。当初は定期上映ではなく、月に1本、2本を上映する程度で、手探りの状態からのスタートだった。
実はそのころの高田世界館が映っているドキュメンタリー映画で忘れられない作品がある。「まわる映写機 めぐる人生」(2018年、森田惠子監督)は、「小さな町の小さな映画館」(2011年)、「旅する映写機」(2013年)に続く森田惠子監督の映画にまつわる3部作の第3弾で、全国各地に映写機のある施設を訪ね、映写に関わる人々の思いをすくい取っている。この中で、2015(平成27)年3月に北陸新幹線の開業記念として高田世界館に大林宣彦監督を招いて「転校生」(1982年)をフィルムで上映したときの場面があるのだが、何とも信じられないような奇跡の瞬間が映っていて、映画ファン、なかんずく映画館ファンなら感涙にむせぶこと請け合いだ。
まず上映開始直後、映写機のベルトが切れるというハプニングが発生する。普通なら映写を止めるところだが、ベテラン映写技師の久保田定さんは上映したまま修理。玉掛け映写と言って2台の映写機でフィルムのリールを交互に交代して上映する昔ながらの手法だったため、この超絶技巧が可能だった。
だが災厄はこれだけではなかった。最後のリールが逆に巻かれていたことが分かり、さすがにいったん上映をストップして、巻き直さないわけにはいかなかった。
上映後、登壇した大林監督の言葉がまた映画愛、映画館愛に満ちあふれていた。曰く「最後にちょっと時間がかかったのはね、フィルムが逆に巻いてあったんですね。逆に巻いてあったんで裏側が映っちゃって音がおかしなことになって。多分、慌てて直してくださったんでしょうね。そういうことが、また素晴らしいですね。映画への愛と畏怖が伝わってきました。人が作ったものですからね、いろんなアクシデント、つまり事故があるんですよね。むしろ、そのことを学ぶのも映画のいいことでね。人が作ったものは必ず壊れることがある。そういうときに私たちがどう対処するかということがね、映画の学校のすてきなところでしてね……」。
大林監督はベルト切断の件は知らなかったものの、実に感動的な挨拶で上映会を締めくくった。このドキュメンタリーが公開された2019(平成31)年に、今は亡き森田監督にインタビュー取材をしているが、「この模様をカメラに収めることができたのは映画の神様のおかげです」と謙虚に話していたことが脳裏によみがえってくる。

☆日本スキー発祥の地が育む地酒
高田世界館は、現在は火曜日だけ休映して、週に6日間、毎月10本ほどの映画を上映している。翌日午前中の上映作品を見に来ると告げて、いったん離れる。古い町家が軒を連ねる「下」の通りにも、夜のとばりが下りつつあった。そろそろお腹もすいてきた。高田は上越市の中でも内陸部とは言え、やはり日本海の海の幸を堪能したい。民泊の原さんお勧めのおすし屋さんへ歩を速める。
カウンター席に腰を下ろしてメニューを眺めると、地酒として「スキー正宗 入魂」の文字が見える。醸造元は武蔵野酒造で、聞けばこのすぐ近くに酒蔵を構えているらしい。冷酒を1合注文する。フルーティーで爽やかで、ものすごく口当たりがいい。こいつは何杯でもいけそうなやばいお酒だ。
それにしてもスキー正宗とは、またハイカラなのかダサいのか何とも言いようのない銘柄だなと思ったら、実は高田は日本でのスキー発祥の地と言われているらしい。上越市内には日本スキー発祥記念館もあるが、歩いていくにはちょっと遠い。「町家交流館 高田小町」に置いてあったリーフレットを繰ってみる。
どうやら日本で初めての本格的なスキー指導が行われたのは1911(明治44)年1月12日、現在は上越市立城西中学校になっている陸軍第13師団歩兵第58連隊でのことだった。1911年と言えば、世界館の前身、高田座が開館した年だ。つまり世界館は日本のスキーの歴史をまるまる見てきたことになる。
教官はオーストリア・ハンガリー帝国のブラチスラバ、現在のスロバキア共和国の首都に生まれたテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐で、58連隊の将校14人が指導を受けた。軍隊の視察を目的に来日したレルヒ少佐は、この年の1月5日から翌1912(明治45)年1月24日まで高田に滞在した。第13師団の長岡外史師団長が、軍隊への組織的なスキーの導入と体育向上のために民間へのスキー普及を志向したこともあり、レルヒ少佐が伝えたスキーは高田から全国へと拡散。スキー倶楽部の結成、スキー競技会の開催、スキー板の製作に加え、スキー菓子、スキー民謡など全て高田から始まったという。そんなスキーを冠した高田名物の一つが日本酒のスキー正宗だったようだ。
ちなみにレルヒ少佐は高田滞在中に中佐へと昇進。その後、北海道の旭川に転任し、帰国後は第一次世界大戦に従軍するなどした。退役後は極東情勢に関する著述活動のほか、日本・オーストリア友好協会の会長を長く務めるなど、日本とオーストリアの懸け橋として尽力したとある。そう言えば、冬季オリンピックでメダルを取ったこともある地元出身のスキージャンプ選手、清水礼留飛の名前は、レルヒ少佐に由来していた。日本スキー発祥記念館まで足を延ばすのは無理でも、街のど真ん中にあるスキー正宗の酒蔵はできれば見学したいものだ。
その冷酒に絶対に合うに違いないお刺し身盛り合わせが運ばれてきた。マグロ、アジ、キンメダイ、コチなどに並んで、ちょっと大ぶりな白身魚はカヤカリだという。スマートフォンの辞書機能で調べてみると、正式名はヒゲソリダイと言って、地元では萱(かや)が収穫される秋に獲れることからカヤカリと呼ばれるそうだが、どうやら春も漁獲のシーズンらしい。ぷりぷりとものすごく噛み応えがあって、噛めば噛むほど味わいが深くなる。海の幸大好き人間としては、これはもうたまらない。
知らない魚ついでに、ゲンギョの干物とセイカイの塩焼きも注文する。ゲンギョはぎょろっとした目を持つグロテスクな顔立ちにひょろっと細長い魚体と、いかにも深海魚らしい風貌だ。七味マヨネーズを付けて頭ごと丸かじりする。骨はぱりぱり、身はほっこりとしているが、何しろ細身ゆえ食べるところは少ない。後々まで残る苦みがまた癖になるうまさで、ついつい冷酒が進んでしまう。
一方のセイカイはウスメバルが正式名称で、こちらでは春を告げる魚として知られているそうだ。丸のままをレモンを搾ってダイコンおろしと食す。身が非常に引き締まっていて、淡白な味わいでさっぱりしている。しつこくないからいくらでも食べられるが、さすがに1匹丸ごとだと食いでがある。ああ、またまたスキー正宗が止まらない。

☆入場料500円で世界を見学
翌日は朝から晴れ。ちぎれちぎれの淡い雲の向こうに、雪を頂いた峰々がちらっと顔をのぞかせる。あれは妙高山か火打山か。爽やかな5月の風を受けながら、民泊の裏手に位置する高田世界館を再訪する。
世界館は、現在は通常のミニシアターとして営業しており、上映作品は東京で封切ったばかりの新作が多い。せっかく百年映画館に来て新作映画を見るのも風情がないし、古いフィルム映写機も備えている劇場なんだから、どうせだったら旧作を見たい。そう思って午前中に上映の「新幹線大爆破」(1975年、佐藤純彌監督)を鑑賞することにした。
すると、あに図らんや、フィルムではなくデジタルでの上映だという。映画レビューサイトのFilmarks(フィルマークス)が主催するリバイバル上映プロジェクトの一環で、全国の劇場で上映されているらしい。支配人の上野さんによると、フィルムでの上映は年に5、6本程度で、国立映画アーカイブの推進事業としての作品をかけるくらいだそうだ。「フィルムしかない作品もあるので、機材はちゃんと整備しています。たまに古いフィルム上映をやってほしいというリクエストはあるんですけどね」と上野さん。
令和の初日以来となる劇場内に足を踏み入れる。2階席がぐるりと取り囲む吹き抜けは創業当時のままで、高い天井の中央にはかつてはシャンデリアが取り付けられていた。木目も鮮やかな木組みの天井が往時の雰囲気をそのまま伝えていて、時代を超えてタイムスリップしたような感覚に陥る。
6年前は2階席に陣取ったが、今日は1階のF6の席に座る。前から6列目の左ブロックの通路脇で、ステージ奥のスクリーンをちょっと見上げる形だ。前列との間はかなり空いていて、古い映画館にしては狭苦しくない。以前は約300席あったが、今は181席になっているそうだ。日曜日のお昼前の時間帯で、入場客は20人といったところか。多いのか、少ないのか、何とも微妙な数字だ。
「旧作のリバイバルの方が手堅く入るということもありますね」と話す上野さんによると、最近ではアカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」(2021年、濱口竜介監督)が平日で1回およそ90人を動員。ほかにはアニメーションの「この世界の片隅に」(2016年、片渕須直監督)やドキュメンタリー映画「人生フルーツ」(2016年、伏原健之監督)などがロングランのヒットになった。
「『ドライブ・マイ・カー』は公開のかなり後、賞レースに合わせて上映することで動員に結び付いた。シネコンは公開から半年もたった作品を上映することはないですからね。むしろそういう売り方をすることで認知度が高まる。シネコンともうまい形で距離感が保てるんじゃないかと思っています」と上野さん。
ただ映画の上映だけで利益を上げるのは難しく、今は上映の合間に入館料500円で館内見学を受け付けている。確かに明治の木造建築でこれだけ立派に保存されていて、しかも現役というのは極めて稀有な存在だ。取材に訪れている間にも、若者グループなり夫婦連れなり、観光客と思しき人たちが次から次へとやってきては、その威容をカメラに収めていた。

☆SNSでバズったカルト映画の雪像
さらに最近は物販にも力を入れている。1年前に印刷機を購入し、Tシャツやトートバッグなど高田世界館オリジナルのグッズを作製し、館内のほかインターネットでも販売。こういった新規事業の心強い推進力となっているのが、2024(令和6)年4月にアルバイト契約から正社員になった山田結花里さんだ。
「私はSNSを更新したり、みんなでアイデアを出し合ったグッズのデザインを整えたり、実際に印刷作業をやったり、という感じでしょうか」という山田さんは東京の出身。学生時代は都内のミニシアターでよくアート系の作品を見てはいたものの、映画と深く関わっていたわけではなかった。
だが上越市内にキャンパスのある国立大学法人上越教育大学の大学院に進学したことで転機が訪れる。地方でもミニシアターがある、しかも日本最古級の建物だ、と感激して通っているうちに、SNSでアルバイトを募集していることを知る。応募すると採用された。
「もともとエンターテインメント系の仕事に就きたかったのですが、英語の教員免許を取って、普通に先生になるんだろうなと思っていました。大学院の2年しか働けないけど、と思っていたら、その後も声をかけていただいて……」
特に観客やご近所さんなど世界館につどう人たちの魅力に居心地のよさを感じている。映画の感想を気軽に話しかけてきたりするなど、気さくな人も多い。インド映画を声援可で上映するいわゆるマサラ上映のときなど、山田さんも観客と一緒になって楽しんでいる。「東京や名古屋、北海道からもいらっしゃる人がいて、それも世界館だから来たいと言ってくださるんです」と喜びを隠し切れない。
こんな山田さんに、上野支配人も大いに期待を寄せる。
「正職員を入れようと思ったのは、僕1人だと新しいアイデアが出ないということがある。ブレイクスルーが必要だと思ったんです。山田さんはデザインもできるので、その方面が開けたというのは大きい。『未来惑星ザルドス』(1974年、ジョン・ブアマン監督)というカルトムービーを上映したときは、劇場前に雪像を作ってくれて、割とバズりましたからね。雪像まで作ると、メディアも取り上げてくれるんです」
さらにそもそもは芝居小屋だったこともあり、高田世界館は広いステージを持っている。この舞台を生かした音楽や落語、講演といった映画以外のイベントも、世界館の魅力となっている要素の一つだ。
実はこの日の夕方には、ドラムソロのライブが予定されていた。中村達也はロックバンド、BLANKEY JET CITYの元メンバーのドラマーで、バンド解散後はソロとして活動するかたわら、画家の黒田征太郎やダンサーの田中泯、トランぺッターの近藤等則らさまざまなジャンルのクリエイターとコラボレーションを展開している。
高田世界館でのライブは2度目だそうで、開場時間前には劇場の入り口から長い外回廊を抜けて表通りまで、50人ほどのファンが列を作っている。客の整理からチケットのもぎり、さらに開演後はスポットライトの操作まで、上野さんが一手に引き受ける。たった1人っきりのステージだが、世界館の百年を彩ってきたさまざまな映画を作った人々、届けた人々、見に来た人々、みんなの思いがドラマーの全身に乗り移っている気がして、演奏の迫力も相まって圧倒された。
「映画館としてだけじゃないこの建物の可能性を引き出したいと常々思っていて、そういうものもありきの世界館にしたい。映画の常連のお客さんの中にも演劇やライブに来てくれる人も多いですし、垣根を超えてこの建物を生かしたいと思っています」と上野さんは決意を口にする。

☆雪国のぬくもりにじむ「虹の彼方に」
そろそろ高田を去る時間が近づいてきた。3日目の朝、町家を生かした民泊を経営している原さんが、私1人のために篠笛を吹いてくれた。2020(令和2)年から篠笛を習っているという原さんは毎朝、宿泊客それぞれの部屋で、リクエストに応じて古今の名曲を披露している。
「特に冬は宿泊客の80%以上が外国の方ですね。スキーに来たもののスキー場の辺りは宿が取れなくて、高田に泊まってスキー場に通うという人が結構いらっしゃいます」と話す原さんだが、奈良というよそから移り住んできた原さんにとってこの町の魅力とは何だろうか。
「とにかくいい人たちばっかり。雪国の皆さんって誠実で温かくて協力的なんです。古いものを大切にする丁寧な暮らしもとても魅力的です」と言う原さんによると、特に町家の雪下ろしはみんなして一斉にやらなくてはならない。雁木という雪よけのひさしが連なっていて、1軒だけ勝手に雪下ろしをすることはできないのだ。
「雁木の通りは1人しか歩けず、すれ違うときなど雪がなくても止まって待ってくれたりよけてくれたりする。譲り合い、助け合いの精神が染み付いているんじゃないでしょうか。昭和風、町家風じゃなくて、無添加の天然素材の町並みなんですね。町家を町家として使う、映画館を映画館として使う、といった本来の目的で大事に継承されているのって、とても魅力的だなと思う。世界館は洋風の建築だけど、日本の大切な心があちこちに残っていて、それを今も体験できるというのは大きいですよね」
篠笛の演奏は「浜辺の歌」「涙そうそう」そしてミュージカル映画「オズの魔法使」(1939年、ヴィクター・フレミング監督)の劇中歌「虹の彼方に(Over the Rainbow)」をリクエストした。優しい風がそよそよと揺らぐような自然の音が耳に心地よい。心が洗われるようで、わずか2泊3日とは言え、旅の疲れを癒やしてくれる。
中でも「虹の彼方に」は私の大好きな曲で、聞いているうちに懐かしさといとおしさが込み上げてくる。本当にすてきな音色でした、と謝辞を述べて、宿を後にした。
2両編成のえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン普通列車、妙高高原行きに乗り込む。北陸新幹線に乗り換える上越妙高まではわずか2駅だが、カタコト揺れるローカル線は旅情にあふれている。遠くに連なる雪山を眺めているうちに、重大なことに気付いた。
あ、スキー正宗の蔵元に寄るのを忘れた。

《高田世界館》1911(明治44)年、高田座として創業。現在はNPO法人街なか映画館再生委員会が運営。火曜休館。新潟県上越市本町6‐4‐21
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋

