【百年映画館】高崎電気館(群馬県高崎市)
☆ソウルフィルムは「ここに泉あり」
土曜お昼前の中央銀座通りアーケード街は、いたって閑散としていた。開いている店はほとんどなく、対面通行の車がたまに行き交うくらいで、歩いている人もまばらだ。いやいや、アーケード街なのに車が通るというのには、ちょっと驚いたけどね。
上越、北陸の新幹線が分岐するJR高崎駅から歩くこと、およそ20分。中央銀座通りのほぼ真ん中を横切る細い路地を左に折れると、突然、古めかしい映画館が目に飛び込んでくる。「毎日上映しているわけじゃないので、潰れたままだと思っている人もいるみたいです。まさかやっているとは思わなかった、と言われたりしますよ」と高崎電気館の支配人、飯塚元伸さんは苦笑しつつ打ち明ける。
この日は午前11時から、高崎市民のソウルフードならぬソウルフィルムとも言うべき「ここに泉あり」(1955年、今井正監督)の無料上映会が予定されていた。この作品は戦後、日本の市民オーケストラの草分けとも言える群響こと群馬交響楽団が困難を乗り越えて成長していく過程を、たっぷりの名曲を絡ませて描いた感動の人間ドラマだ。群響は今も高崎市を拠点に幅広い活動を続けており、2025(令和7)年度は毎月、群響の定期演奏会が行われるのと同じ日に、高崎電気館で「ここに泉あり」を無料で上映することにしているという。
高崎電気館には、これまでも全国コミュニティシネマ会議の取材などで訪れたことはあったが、ここで映画を見たことはない。岸惠子、小林桂樹、岡田英次ら第一級のスターが出演するこの映画は、かなり前にビデオで視聴したことがあるだけだ。映画館のスクリーンで、しかも映画の舞台となっている高崎の百年映画館で鑑賞するというのは何とも贅沢な気分で、まさに至福の時間と言っていい。
右側の入り口から劇場に入る。縦に長い劇場内は5列目辺りから傾斜が付けられてあり、後方の真ん中には別の入り口に通じる階段がある。全体を見渡せる場所がいいかなと、後方通路脇のM9の席に着く。座席の背もたれには地元企業の広告を兼ねたカバーがかけてあり、私が座った前の席には「外車専門販売、買取り」の文字が書かれている。映画最盛期の名残で電話番号まで載っているが、恐らく今は通じないだろう。
入場客はざっと20人といったところか。毎月1度の「ここに泉あり」無料上映会は、4月のこの日からスタートの企画だったが、それにしてはちょっと寂しいような気がした。と言っても、高崎市民にとっては従前おなじみの作品のはずだから、こんなものなのかもしれないね。
昔ながらのブザーが鳴って場内が暗転する。カタカタカタというフィルムの動作音をかすかに感じつつ、横幅が狭いスタンダードサイズのモノクロ画面の映像が大スクリーンに投影される。いっぺんに戦後間もなくの高崎へと引きずり込まれた。
ベートーベンの交響曲第9番の演奏で大団円を迎え、終映。場内からは期せずして拍手が湧き起こる。「懐かしくて涙が出ました」「私も50年ぶりに来ました」と、スタッフ相手に思い思いの感想を口にして劇場を後にする。市民の誇りの映画を市民の誇りの映画館で見ることの醍醐味を肌で感じさせてもらった。

☆キャバレーも入居する箱に建て替え
「この映画は高崎の人にとっては特別な存在ではあるのですが、知っていても見たことがないと言う人は多い。2013(平成25)年に高崎電気館の創業百年を記念した復活祭を行ったときも『ここに泉あり』をメインで上映して、初めて見たと言う年配の方もいっぱいいらっしゃいました。赤ちゃん役として自分が出ていると言う人もいたんですが、どの子が自分か分からなかったって言っていましたね」と自ら映写を務めた飯塚支配人は相好を崩す。
高崎電気館の開業は1913(大正2)年にさかのぼる。柳川町と呼ばれるこの辺りはもともと花街として栄え、芝居小屋なども建ち並ぶ歓楽街だった。高崎電気館も、芝居小屋だった建物をそのまま継承して、高崎で初めての映画常設館として広瀬保治が開業した。
「電気館前の通りの向こう側には遊郭が軒を連ねていたらしく、映画を見た後に遊びに行ったと言う人も多分、いたんじゃないでしょうか。映画館も全盛期には高崎に10館はあったと聞いています」と飯塚さん。
初代電気館は木造モルタル塗り2階建てだったが、1929(昭和4)年8月に火災で焼失する。だが12月には天井にステンドグラスが埋め込まれたモダンな鉄筋コンクリート3階建ての新館が完成。さらに戦後の1950(昭和25)年ごろに建て替えられた後、現在の高崎電気館は1966(昭和41)年にお目見えした4代目だという。この間の詳しいいきさつについてはほとんど資料が残っていないそうだが、ちょうどこのころは大映の直営館として高崎大映電気館と名乗っていた。
「大映の直営館は全国的に少なく、お披露目のときには当時の永田雅一社長も来たそうです。劇場は2階部分で、1階は全部テナントとして貸し出した。それで映画が下火になっても何とか安定収入があったみたいです。映画の斜陽化に早めに気付いて建て替えたのかなと思いますね」と飯塚さんは推し量る。
1階のテナントは居酒屋やバー、キャバレーなどで、さらに地下にはコンパと称される大規模なクラブが入っていて、なかなか繁盛していたらしい。だが肝心の映画に関しては1971(昭和46)年に大映が倒産。その後、松竹系列や洋画専門館など試行錯誤を繰り返しながら営業を続けてきたが、2001(平成13)年に2代目経営者の広瀬正和が病に倒れ、休館を余儀なくされる。元気になったら再開したいとの夢もかなわずに正和は他界。跡を継いだ妻の公子さんはどこにも売却せず、大切に維持管理していたが、映画を上映することはなかった。1階の居酒屋は何軒か残っていたが、地下のコンパも地下水が漏れ出てきて、いつの間にか閉店していた。
そんな中で2013(平成25)年を迎える。そう、高崎電気館が誕生してちょうど百年の節目の年だ。

☆たっぷりおしゃべりも魅力の映画祭
開館百年を記念した復活祭をやりたい。そんな声が上がったのは、高崎映画祭のスタッフの間からだった。
高崎映画祭は1987(昭和62)年に第1回が開催された市民映画祭で、開催期間といい、上映本数といい、来場ゲストの数といい、地方で開かれる映画祭としては桁違いの規模と情熱を誇る。毎年、最優秀作品賞や最優秀監督賞など数々の賞を選出して授賞式を行うのも特徴で、私もまだ産経新聞の映画記者になって間もない1996(平成8)年の第10回授賞式に参加して、中山美穂が最優秀主演女優賞を受賞した「Love Letter」(1995年、岩井俊二監督)を高崎市文化会館の大ホールで鑑賞した記憶がある。開場まで若い映画ファンが長い列を作っていたのが印象的だった。
今年(2025年)も3月20日から30日まで第38回高崎映画祭が開かれ、百年映画館の事前取材も兼ねて、初日に開幕作品の「BAUS 映画から船出した映画館」(2024年、甫木元空監督)の先行上映に駆け付けた。上映会場は高崎電気館。しかもこの作品はここ高崎電気館でもロケが行われている。
本当だったら映画も視聴すべきだろうけど、すでに試写で見ていたということもあって、開幕の挨拶と上映後のトークイベントだけ参加した。トークに登壇したのは甫木元監督と出演者の斉藤陽一郎、それに映画を見に来ていた撮影の米倉伸も途中から加わって、高崎映画祭の志尾睦子プロデューサーと熱いおしゃべりを交わした。
前回訪れた長野県の上田映劇も撮影場所として使用された「BAUS 映画から船出した映画館」は、東京都武蔵野市に実在した吉祥寺バウスシアターという映画館をモチーフに、過去と幻想を織り交ぜて描いている。バウスシアターは、音響をライブハウスと同じくらいのボリュームに上げて映画を上映する「爆音映画祭」など独自の試みで人気のあった劇場で、私も2008(平成20)年に本田拓夫総支配人や爆音上映の火付け役、映画評論家の樋口泰人さんらに取材している。
映画では、本田さんの父親をモデルにした染谷将太演じる主人公を中心に、戦前から戦中、戦後の激動の時代の流れをたどりつつ、映画館に懸ける人々の思いを、ファンタジー色を盛り込んで情感豊かにつづっている。撮影場所が映画館の内外と近くの井の頭公園に限られているという大胆さも特徴で、高崎電気館のスクリーンや舞台もしっかりと映り込んでいる。バウスシアターは2014(平成26)年に惜しまれつつ閉館するが、映画にも登場する前身の井の頭会館は1925(大正14)年の完成で、残っていればまさに百年映画館だった。建物の老朽化が理由とは言え、何とも残念でならない。
そんな映画館の魅力がいっぱい詰まった映画のアフタートークだ。盛り上がらないはずがない。「なぜか変な緊張をしている」という映画祭プロデューサーの志尾さんが「この映画ができたことをとてもうれしく思っている映画ファンの一人として、地方都市でやっている私たちの映画祭の開幕でかけられたことはこれ以上ない喜びだと思っている」と話せば、甫木元監督も「今日が初お披露目ということで、さっき舞台の袖で拍手の音を聞いてやっと完成したのかなとかいう感じがしています」とほっとした表情で語る。
驚いたのは、この手のアフタートークはせいぜい20分か30分ほどで切り上げるのが通常なのに、たっぷり1時間以上も費やして会場からの質問にもじっくり丁寧に受け答えをしていたことだ。
ある観客が、映画がカタカタカタという映写機の音で始まることについて最初からの意図だったのかと質問したのに対し、甫木元監督は「完成する直前で、いったん編集が終わった後、あれを入れようと編集し直した」と回答。ただベテラン音響マンの菊池信之が高崎電気館で撮影していたときから「映画が始まる前、暗闇で何か音を聞かせたい」と気になっていたと言っていたことを打ち明けると、再び観客が「われわれの世代は、あのカタカタカタという映写機の音で、ああ、映画が始まる、とどきどき感が高まる。あの音から始まるので、すーっと映画に入っていけてうれしかった」と感想を述べ、会場から大きな拍手が湧き起こった。
映画を本当に大事にしている映画祭ということが伝わるし、どうせならこの高崎電気館の空間で一緒に映画自体も見ていれば、もっと一体感を覚えたかもしれないなとちょっぴり悔やまれた。

☆町の文化拠点「シネマテーク」の誕生
さて、高崎電気館の百周年に当たる2013(平成25)年9月、高崎映画祭のスタッフ有志が企画した復活祭は、高崎ゆかりの映画「ここに泉あり」の上映がメインのプログラムだった。当初はこのとき限りの復活のつもりで2日間の開催だったが、両日とも満席の観客で埋まった。
「その活気あふれる電気館を見た所有者の広瀬公子さんが、あくまで映画館として使ってくれるなら、ということで、高崎市に寄贈することになったんです」
こう説明する飯塚支配人は、実は20歳のころから高崎映画祭にボランティアスタッフとして携わっていた。自宅は高崎市郊外とは言え前橋市に近く、子どものころはどちらかというと前橋市内に映画を見に行っていた。当時はまだ営業中だった高崎電気館で映画を見たことはなかった。
ところが高崎映画祭のスタッフになったことで、高崎電気館とも関係が生まれる。高崎映画祭は座席数約700の高崎市文化会館の大ホールがメイン会場だったが、市内の映画館でも作品を上映していた。中でも高崎電気館が最も協力的だった。
「大林宣彦監督が高崎映画祭のゲストで来たとき、映画館が映画祭に協力することなんてあり得ない、普通は邪魔をするもんだ、と驚いていたほどです。映画祭では、普段は映画館でやらないような映画を上映するし、6会場くらいで100本近くをやっていた。高校生のころは映画祭の期間になると自転車で高崎まで出てきていっぱい見ていましたね」
高校卒業後は映画制作の専門学校に進むが、高崎映画祭のボランティアスタッフを募集しているのを見つけて20歳のときに仲間に加わる。そのままずっとスタッフとして活動し、フィルム映写の技術も習得。大分市にあるミニシアターのシネマ5で2カ月ほど、映画館での映写の訓練を受けて高崎に戻ってきた飯塚さんを待っていたのが、シネマテークたかさきの開館だった。2004(平成16)年12月のことだ。
高崎電気館から歩くことおよそ10分。旧中山道のバス通りに面したシネマテークたかさきは、元銀行の建物をリニューアルした1階58席、2階64席の2つのスクリーンを有するミニシアターだ。高崎映画祭の事務局代表だった茂木正男さんが「映画祭で上映するような作品を常時かけたい」との思いから、新たにNPO法人たかさきコミュニティシネマを設立して運営母体とし、自らは総支配人を務めていた。茂木さんは2008(平成20)年11月に61歳の若さで他界するが、私はその年の2月に産経新聞の連載記事の取材でシネマテークたかさきを訪れており、恐らく病気が進行中だった茂木総支配人にも詳しく話を聞いている。
「映画祭とシネマテークは親子みたいな関係だけど、同一人格じゃない」と語っていた茂木さんによると、映画館を作りたいという構想はかなり以前から持っていた。1990年代後半にコミュニティシネマという概念が生まれて環境が整い、NPO法人の設立を進めるのと並行して劇場の場所を選定。2004(平成16)年6月にNPO法人の認定が下り、同じ年の12月にシネマテークがオープンと、茂木さんによるとバタバタと事が進んだ。
「地域コミュニティーで豊かな映画環境を作っていこうということで、商店街と組んだり、子どもたちを集めたり、その拠点になるのがこのシネマテークだと思っています。ただ映画館を拠点にしながら映画館を飛び出して街なかでの上映も模索していきたい」と話していた茂木さん。当初は1階1スクリーンで始めたが、取材に訪れた前年の2007(平成19)年12月に2スクリーン体制になったばかりで、「なかなか手が回らない」ともこぼしていた。「いろんな人たちが映画を選べる環境が欲しい」と語っていたことが印象に残っている。

☆カトリーヌ・ドヌーヴと握手
茂木さんの遺志を継いだスタッフのおかげで、映画祭もシネマテークもすっかり高崎市民に浸透してきた中、新たな「映画環境」になったのが、誕生して百年を超える高崎電気館だった。2日限りの復活祭の後、「映画館として利用する」との強い要望で広瀬家から寄贈を受けた高崎市は、耐震補強工事を行ってデジタル映写機も導入し、翌2014(平成26)年10月、高崎市地域活性化センターとしてよみがえらせる。運営を委託されたのはNPO法人たかさきコミュニティシネマで、2階の高崎電気館のほか、かつて居酒屋などのテナントが入っていた1階には高崎映画祭の事務局と高崎での映画撮影のサポートを行う高崎フィルム・コミッションの事務所が入居。新生・高崎電気館の支配人にはシネマテークたかさきで働いていた飯塚さんが就くことになった。
「クラシック音楽とかならともかく、映画は単独で商売が成り立っているから、補助となると、えっ、となるところもあるんでしょうけど」と飯塚さんは市の英断に感謝しつつ、市民に喜ばれる映画館を目指して日夜、努力を続けている。
新作はほとんどなく、高崎映画祭や「ここに泉あり」の無料上映以外では、「DANCE映画特集」や「ミュージカル映画歴史的傑作選」などと銘打って、シネコンで漏れたような作品を組み合わせて10日間ほど連続して上映。8月には終戦特集として映画上映に加えて戦争体験者に話を聞いたり、インド映画特集では配給会社の担当者にインド映画愛を熱く語ってもらったり、トーク的なイベントを企画するなどして工夫を凝らしている。所有者である高崎市から上映作品について注文が出ることは一切なく、「自由度はものすごく高い」と感謝する。
座席数はリニューアル前から100席ほど減らして256席だが、なかなか満席になることはないという。ただ平成が終わる2019(平成31)年の4月に「平成に生まれた映画」を特集して是枝裕和監督の「誰も知らない」(2004年)を上映したときは、是枝監督のトークもあったことから満員の客で埋め尽くされた。「トークだけで2時間やりましたからね。観客と質疑応答を交わすようなじっくりと語るイベントは、うちは向いていると思います」
驚くような人物の来場もあった。2024(令和6)年1月、高崎でも撮影が行われたエリック・クー監督の新作映画「SPIRIT WORLD スピリットワールド」(2024年)のロケで、あのフランスが生んだ大スター、カトリーヌ・ドヌーヴが高崎電気館を訪問。電気館のTシャツを購入してくれたほか、飯塚さんは握手までしてもらった。「事前にサインはもらえないと言われていたから頼まなかったが、言えばしてくれるような感じでした」と残念がる。

☆歌舞伎町にも佐世保にもなり切る
実はこの作品以外にも、高崎は映画のロケ地として非常に人気が高い。高崎電気館で撮影が行われた「BAUS 映画から船出した映画館」もそうだし、ほかにも最近だと「ラストマイル」(2024年、塚原あゆ子監督)や「箱男」(2024年、石井岳龍監督)など頻繁に高崎市内で映画が撮られている。
「なぜでしょうね。東京に近いのと、あと飲み屋街だった古い建物が残っているので、昭和30年代、40年代の設定で使えるんでしょうか」と飯塚さんは推論するが、私もかつて一度、映画のロケ取材で高崎に来たことがある。「セーラー服と機関銃―卒業―」(2016年、前田弘二監督)という作品で、2015(平成27)年8月に市内の料亭や中央銀座通り、さらには高崎電気館前の路地裏での乱闘シーンなどを見学。クランクアップにも立ち会った。
薬師丸ひろ子主演の大ヒット作「セーラー服と機関銃」(1981年、相米慎二監督)の新世代バージョンで、主役は「千年に一人の逸材」として売り出し中だったアイドル、橋本環奈だった。彼女にとって初めての主演映画だったこともあり、クランクアップでは「緊張感、プレッシャーがありましたが、あっという間の1カ月でした。分からないことがたくさんあった中で、監督やスタッフ、出演者とすてきな方々にいっぱい教えていただきました」と涙声で語っていたが、撮影中はなかなか堂々としたもの。当時は16歳の若さだったが、機関銃の構え方について指導する前田監督に「どれだけ背が低いと思ってるの」と冗談で切り返すほどで、これはものすごい大物になるかもと予感させた。撮影の約1カ月の間、ずっと高崎に滞在していたそうで、「高崎人というか、群馬県人になった気がします」なんておちゃめな一面も見せていた。
こういうロケの手配、支援などを引き受けているのが高崎フィルム・コミッションだ。現在は高崎電気館の1階に事務所を構えているほか、同じ1階には高崎フィルム・コミッションが撮影協力した作品の展示室もある。室内には「東京リベンジャーズ2 血のハロウィン編 決戦」(2023年、英勉監督)の衣装や出演者の色紙、「シン・仮面ライダー」(2023年、庵野秀明監督)のパネル、テレビアニメ「菜なれ花なれ」(2024年放送、柿本広大監督)の巨大ポスターなどが所狭しと飾られている。
高崎フィルム・コミッションはもともと高崎市観光課の直轄だったが、2014(平成26)年にNPO法人たかさきコミュニティシネマに業務移管。フィルム・コミッション事務所の山藤堅志さんによると、現在は年間50本ほどの作品をサポートしているという。山藤さんは会社勤めのかたわら、たかさきコミュニティシネマが運営する高崎映画祭にボランティアスタッフとして関わっており、ちょうど早期退職のタイミングでフィルム・コミッションが業務移管したことで専属になった。ちなみに最初に携わった作品は「セーラー服と機関銃―卒業―」だそうだ。
それにしてもどうしてそんなに高崎で撮影が行われるのか。最近は映画だけでなく、配信作品など撮影本数自体かなり増えているという山藤さんは、東京都内では規制が厳しくて地方で行う機会が多いことを指摘。「群馬県内はまだ撮影に慣れていない地域も多く、その点、高崎は実績も多く、受け入れの下地がある。官庁も含めて周りの人たちの協力態勢ができている。どうしても即実的な効果を求めがちだけど、映画を撮ってから公開まで1年くらいはかかるし、その辺りの計算まで含めてロケを誘致することが大切だと思うんです」と山藤さん。「それに高崎のよさは、高崎市だけじゃなく、いろんな町になり得るんです。いろんな色に染まることができる。この辺りの柳川町は、新宿歌舞伎町だったり佐世保だったり、いろいろと代わっていますよ」

☆絶品「絶メシ」焼きまんじゅう
そろそろ日も暮れてきた。いつも高崎は日帰りだったけど、今回は初めて近くのビジネスホテルに宿を取っている。ホテルにカメラバッグを置くと、ペンとメモ帳だけを携えて柳川町に取って返した。高崎電気館の北側に足を踏み入れると、細く入り組んだ路地に、割と新しそうな居酒屋やスナックがちらほらと明かりをともす。レトロとモダンが入り交じった感じで、歌舞伎町というにはしっとりと上品だ。まだまだ宵の口だからなのだろうか。
高崎電気館スタッフが勧めてくれたお国自慢地酒酒場ののれんをくぐる。黒い色調のやはりしっとりした店内にしつらえられたぴかぴかのカウンター席に腰を据える。ほかに客はいないようで、ちょっぴり緊張する。
まずは高崎に酒蔵がある地酒を頼む。大盃は高崎市内で唯一の蔵元の銘柄で、榛名山の伏流水で仕込んでいるらしい。特別純米の冷酒を頼むが、きりっと引き締まった冷たさが胃に染みる。きのこのお通しに続いて、上州黒豚の味噌漬けを頼む。味噌の香ばしさが豚の軟らかみを引き立てる。群馬県は豚肉王国だそうでさまざまな銘柄豚が生産されているようだ。
その後、豆腐と納豆にキュウリやネギなどをまぶした豆づくしや、お店いちおしのいかそうめんを食したが、おいしいけれどザ・タカサキといった感じではなかった。本格高崎グルメは翌日に持ち越しとしよう。
実は事前に高崎グルメについて調べたところ、「絶メシ」なるリストが存在していることを知った。ホームページによると「安くて旨い絶品グルメ」のことで、リストに載っているお店は高崎市民からのローカルグルメ情報を基に、プロのライターたちの調査によって決められているとある。それはいくつか入ってみたいと思っていたが、高崎フィルム・コミッションの山藤さんによると、絶メシとは「絶滅危惧種のメシ屋」、つまり後継者不在で今のままではいずれなくなる運命の飲食店だという。なるほど、すでに閉店となっているところが多いのも納得だ。
でもそうとなればなおのこと、まだ営業しているうちに味わってみたい。次の日は、山藤さんが「高崎名物と言ったらこれ」と太鼓判を押す「焼きまんじゅう」の老舗を訪ねた。
そもそも焼きまんじゅうとは何ぞや。とりあえず百聞は一見、ならぬ一味にしかず。このお店はテレビドラマ「孤独のグルメ」でも松重豊演じる井之頭五郎が訪れたそうで、早めに行かないと売り切れてしまうという。午前11時に訪れると、前日は閉まっていたドアが開いていた。あなうれしや。
お店は高齢の女性が1人で切り盛りしている。店内は狭く、5人も入れるかどうかといった感じだが、運よく先客はゼロだった。「東京など遠くからも80本とか注文が来るのよ。売り切れたら終わり。ここは住まいじゃないから、大体2時半には閉めてるわね」と相当おしゃべり好きな女将さんに「餡なし」1本、「餡あり」1本を注文する。餡なしは1本4個、餡ありは1本2個だからかなりのボリュームだが、店内に「注文は2本から」の張り紙が見える。
目の前で焼いて、ものの5分程度で出してくれた焼きまんじゅうは、餡なし、餡ありのどちらも濃厚な黒い蜜がかかっている。まずは餡なしからいただく。中はふんわりと蒸しパンのような感触で、外はかりっと焼き焦げがついている。蜜は醤油の香ばしさがほどよく甘みと溶け合い、なるほどうまい。それほど大きなまんじゅうではなく、4個はあっという間に平らげた。餡ありは、この白い蒸しパン状の中にこし餡が入っている。
食べている間、埼玉からという親子5人連れがテイクアウトで買いに来たし、やはり埼玉から若者2人連れが来店とかなりの繁盛ぶりだ。お持ち帰りにしようとした2人連れには「できれば店内で食べてってよ」と女将さんが勧める。「家に帰ってから食べると、かりかりが味わえない。ここで食べるのが一番よ」と話す女将さんによると、前に1本だけ注文したカップルがいて、2本から受けていると言っても、押し黙ったまま帰りもしない。「男の方は後ろの方におとなしくいるだけ。何考えてんだか。後に来るお客さんの迷惑になるのにね」。愉快なおしゃべりとともに、いつまでもこの味を守ってもらいたいものだ。

☆日本三大名段の温泉街でもロケ数々
これで東京に帰ってもよかったが、出張前に高崎周辺の地図を眺めていて気が付いたことがある。高崎って、伊香保温泉に近いんだ。
で、もう1泊はお隣の渋川市に属する伊香保温泉の老舗旅館に予約を入れていた。365段の石段が温泉街の真ん中を貫く伊香保温泉は、与謝野晶子が詩を詠み、徳冨蘆花が「不如帰」の舞台にしたことでも知られるが、高崎同様、数々の映画のロケ地にもなっている。最近では渋川市出身の渋川清彦が主役を演じた「榎田貿易堂」(2017年、飯塚健監督)や日本アカデミー賞最優秀作品賞に輝いた「ある男」(2022年、石川慶監督)などが温泉街で撮影されているほか、「Cloud クラウド」(2024年、黒沢清監督)が近くのBoot Camp Ikahoでロケが行われている。実はこの「Cloud クラウド」はほかにもさまざまな場所で撮られていて、私も千葉県市川市で行われたロケに取材がてらエキストラとして参加した。模型店に押しかけるオタク集団の一人として、ちらっと映り込んでいる。
ゴールデンウイーク前の日曜の夕刻ながら、石段街は意外にも大勢の温泉客がそぞろ歩いていた。何でも山形県の山寺立石寺、香川県の金刀比羅宮と並んで日本三大名段の一つだそうで、両側には射的や輪投げ、湯の花まんじゅうと、温泉街らしい風情のお店が並ぶ。365段の最上段には縁結びのご利益があるという伊香保神社があり、さらにその先を行くと、有料の露天風呂があるが、最終入場は午後5時半で閉まっていた。明朝、入りに来てもいいが、小雨もそぼ降る肌寒さで、温泉は同じ硫酸塩泉の「黄金の湯」を源泉とする旅館のお風呂で十分かな。源泉は石段の足元を最下段まで流れていて、その勢いを眺めているだけで十分に温泉気分を味わえる。
旅館は夕食なしのプランだったため、石段街からちょっと脇に入った旅館お勧めの居酒屋に入る。何でも餃子がおいしいそうで、第11代垂仁天皇の御代に発見されたと言い伝えられる歴史ある温泉街で中華の点心というのもなかなか乙なものだ。
店内にはカウンターのほか座敷があり、もう4月も下旬というのにこたつが置かれている。やおら腰を下ろし、まずは地酒の船尾瀧を常温で注文する。渋川と高崎の間に位置する吉岡町の酒蔵だそうで、味わい深い旨みのある辛口の酒で、お通しのウドの炊き込みとよく合う。フキノトウと青シソをそれぞれ練り込んだ山菜シュウマイ、くだんの名物餃子と続いて、ん、「おっ切りこみうどん」って何だろう。どうやら群馬県を代表する郷土料理だそうで、2014(平成26)年には記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定されている。前夜の高崎の居酒屋より郷土色が強い。
うどんができるまで、カキナのお浸しと手作りコンニャクもサービスで出してくれる。やっぱり群馬らしい食べ物だが、うーん、うどんまで入るかな。と心配していたら、おっ切りこみはうどんというよりもほうとうのような太さで、これは相当、食いでがありそうだ。醤油ベースの汁にコンニャク、ナメコ、さつまあげ、カキナ、ダイコン、ニンジン、ネギ、ゴボウなどと一緒に入っている。自家製の麺はかなりの太さで厚さはまちまち。もちもち感も強いが、不思議なことにいくらでも食べられる。具材のせいか、優しい甘口の味付けのせいか、やっぱり郷土料理って豊かな知恵が詰まっているんだね。
旅館に帰ってちょっと茶褐色がかったぬくぬくのお湯に浸かり、芯まであったまってぐっすりと休んだ次の日は、さわやかな春の青空が広がっていた。遠くに見える雪を頂いた山々は妙義山か榛名山か。
爽快な気分で朝食の広間に向かうと、隣の卓の男性客は朝っぱらからお酒をたしなんでいる。仲居さんに冷酒を頼むが、もう冷酒は切らしてしまい、常温でいいでしょうか、とやりとりしている。聞けばすでに冷酒は4杯目で、テーブルの上にはビールの空き瓶も置かれてある。
ほろ酔いどころか大酔い加減のおじさんは、仲居さん相手に大声で自身の身の上を話している。いわく、自分は新潟の上越高田から来ていて、女房は外に出たがらず、旅行が好きではない。自分は若いころから1人で登山などを楽しんできた。群馬や長野の人は優しいよね。海がないせいかね。上越新幹線は終点の新潟までで、後はどこにも延びるところがない。あれは田中角栄が政治力で引っ張ってきたからだ。でもロッキード事件でたたかれたけど、角栄はいい政治家だった。群馬はたくさん首相を出している。福田さん、中曽根さん、小渕さんでしょ。山口に次いで多いんじゃないか。新潟は角栄しかいないんだよな。うんぬんかんぬん。
ついにこちらにも話しかけてきた。こんなに広い部屋なのに、何で隅っこの席なんでしょうね。確かにわれわれ以外、客はいない。
もう今日はこのまま帰るつもりだし、ちょっとくらい相手をしてもいいかなと考えた。「高田にお住まいなんですね。実は来月は高田に行く予定なんですよ」と。でも、すんでのところで踏みとどまった。チェックアウトのとき、玄関先で陽気に歌を口ずさむおじさんの姿があった。

《高崎電気館》1913(大正2)年、創業。現在は高崎市が所有、NPO法人たかさきコミュニティシネマが運営。不定期上映。群馬県高崎市柳川町31
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋

