第336夜「シンプル・アクシデント/偶然」ジャファル・パナヒ監督

 アメリカ、イスラエルによる攻撃を発端とする戦争の勃発で世界中の目がイランに注がれているが、現在の社会情勢や文化的素地についてはあまりよく知らないという人が大半に違いない。当方もまるで詳しくはないけれど、一つだけ言えるのは、イランはもう何年も前から優れた映画監督が次々と輩出している映画大国であり、たくさんの作品が国際的に高い評価を受けてきているということだ。

 名前を挙げればきりがないが、ざっと思いつくだけでもアッバス・キアロスタミ、アミール・ナデリ、モフセン・マフマルバフ、アボルファズル・ジャリリ、マジッド・マジディ、ジャファル・パナヒ、バフマン・ゴバディ、アスガー・ファルハディ、モハマド・ラスロフ、サミラ・マフマルバフ、アリ・アッバシと、まさに枚挙にいとまがない。作品自体もかつては子どもが主人公の素朴な映画が多かったが、今や社会派からアート系、痛快娯楽作と幅広く、それらの作品群からイランの国情を垣間見ることができる。

 ただかの国では以前から何の制約もなく自由に創作活動ができたわけではなく、少なからぬ監督が当局と命を賭してせめぎ合う中で、秀作、傑作を生み出してきた。その結果、イラン国内での上映どころか制作まで制限を受けている映画人もいて、マフマルバフ父娘やゴバディ、ラスロフ、アッバシの各監督らは現在、祖国を離れてヨーロッパを拠点に活動を続けているし、逆にパナヒ監督は長く出国禁止の措置を食らっていた。

 映画制作も禁じられていたが、そんな環境下でもパナヒ監督は映画づくりをやめることはなかった。前作の「熊は、いない」(2023年)では、監督自身がリモートで助監督に指示を出して映画をゲリラ撮影する監督役として出演。リアルなドキュメンタリータッチでイランの映画事情と若い恋人たちの人間ドラマを錯綜させ、2022年のベネチア国際映画祭では審査員特別賞を受賞したものの、授賞式に監督の姿はなかった。

 そのパナヒ監督最新作が「シンプル・アクシデント/偶然」だ。2023年に海外渡航禁止が解かれた後に完成させた作品で、やはりかなり政治的なメッセージが含まれているが、2025年のカンヌ国際映画祭に出品されて最高賞のパルムドールを受賞。無事に授賞式に参加できた監督は、スピーチで「今、最も大切なことは、われわれの国の自由だ」と語り、会場からやんやの喝采を浴びた。

 とは言え、社会派一辺倒の堅苦しい映画というわけではない。ミステリーとサスペンスの要素に適度なユーモアもちりばめられていて、何の予備知識なく見ても大いに楽しめる作品に仕上がっている。とある郊外の工房にある夜、野良犬と衝突事故を起こしたという男が助けを求めてやってくる。車の修理ができないかと言うのだが、妊娠中の妻と幼い娘を連れたその男が歩くときの音を聞いた瞬間、工房で働くワヒド(ワヒド・モバシェリ)に戦慄が走る。義足を引きずって歩くその音は、紛れもなく政治犯として不当に収監されていたときに残忍な拷問を受けた看守、エグバルの歩行音に間違いなかった。

 人生を台無しにされたワヒドは復讐を果たすべく、男の住まいを突き止めると強引に連れ去って砂漠に生き埋めにしようとするが、男は「人違いだ」と懇願。拷問を受けた際、エグバルの顔を見たことがなかったワヒドはかつての投獄仲間の元を訪ねて首実検を試みるが……。というところから、現在の立場、復讐心の強弱などで意見もまちまちな仲間たちと、男やその家族も巻き込んだ大騒動が展開されるというのが大まかな流れだ。

 中でもストーリーに豊かな奥深さをもたらしているのが、その元投獄仲間のキャラクターが一人一人、極めて粒立っているということだ。いきなり男を拉致してしまうワヒドは短気な直情径行タイプかと思いきや、男が否定すると日和ったり、身重の妻に情をかけたりして、何とも優柔不断で人間臭い。一方で、人違いでも構わないから殺してしまえ、と息巻く瞬間湯沸かし器の乱暴者がいれば、リーダー的存在の女闘士は極めて理性的だったのにいきなり豹変するなど、同じように不当で悲惨な扱いを受けていながらもそれぞれの人間性が露呈していて興味深い。結婚を控えて記念写真を撮影している最中に巻き込まれるカップルやら、どたばたの様相を呈しつつ、イランの政情をベースにした怒りの根源が徐々に観客の前に提示されていく作劇の妙にもうならされた。

 こうして良質のサスペンススリラーをたっぷりと堪能してほっと息をつく暇もなく、ラストにまるでホラーかと見紛うほどのどっきりの仕掛けが待ち受ける。これ以上ない娯楽性を伴いながら、同時に国家権力が人々を縛りつける恐怖の代償がいかに重いかを思い知らせる演出で、いきなり冷や水を浴びせかけられたような感覚に陥った。さすがはカンヌでパルムドールに輝くだけのことはある力強さだ。

 思えばパナヒ監督がカンヌで新人監督賞に当たるカメラドールを受賞した長編デビュー作の「白い風船」(1995年)は、師匠のアッバス・キアロスタミ作品よろしく、主人公の少女のいじらしさに周囲の人々の善意を絡めて何とも言えない優しさに包まれていた。本来なら怒りや暴力、恐怖といった類いは描きたくはないのかもしれない。だがイランを巡る情勢だけでなく、ますます混迷の度を深める世界の現状を鑑みると、パナヒ監督の見つめる先は当分、変わることはなさそうだ。(藤井克郎)

 2026年5月8日(金)、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下など全国で公開。

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ジャファル・パナヒ監督のフランス、イラン、ルクセンブルク合作「シンプル・アクシデント/偶然」から。かつての投獄仲間を巻き込んで、スリルとユーモアに満ちた復讐劇が繰り広げられる ©LesFilmsPelleas

ジャファル・パナヒ監督のフランス、イラン、ルクセンブルク合作「シンプル・アクシデント/偶然」から。偶然に復讐相手を見つけたワヒド(ワヒド・モバシェリ)は…… ©LesFilmsPelleas