第226夜「正欲」岸善幸監督

 第36回東京国際映画祭が閉幕した。今年は海外からの来日ゲストが何と昨年比1923%増の約2000人と、コロナの影響を受ける前のにぎわいを取り戻し、上映動員数も昨年比125.7%増の7万4841人という盛況ぶりだった。初日のオープニングセレモニーと2日目の審査員記者会見にも参加し、よし、今年は映画を見まくるぞ、と誓いを立てたものの、終わってみればガラ・セレクション部門の1本しか視聴できず。せっかく貴重なプレスパスを取得したのに、情けなさと虚しさを感じるよ。

 15本が出品されたコンペティション部門も、会期中は1本も見ることができなかったが、「正欲」だけは事前に試写会で見せてもらった。ストーリーの語り口も映像の切り取り方も刺激にあふれていて、さすがは東京国際映画祭に選出されるだけのことはあると思ったら、果たせるかな映画祭では岸善幸監督が監督賞に輝いたほか、観客賞も獲得した。もっとも他の作品を全く見ていないから、残念ながら比較はできないんだけどね。

 原作は朝井リョウのベストセラー小説で、脚本は「あゝ、荒野」(2017年)でも岸監督と組んだ港岳彦が手がけている。さまざまな登場人物が入れ替わり立ち替わり主人公になって物語をつづっていく群像劇のスタイルは原作通りだが、いきなり冒頭にネタばらしをする小説とは異なり、衝撃の結末を最後に持っていく展開は映画ならではのサスペンス性に富んでいて、原作を凌駕していると言ってもいいかもしれない。

 主人公の一人、寺井啓喜(稲垣吾郎)は横浜地方検察庁の検事で、不登校の息子、泰希(潤浩)の教育方針をめぐって妻の由美(山田真歩)との間がぎくしゃくしていた。そんなある日、事務官の越川(宇野祥平)から現在扱っている案件に似通った過去の事件の新聞記事を見せられる。蛇口を盗んで逮捕された新聞配達員の藤原悟容疑者は、警察の取り調べにこんな供述をしていた。「水を出しっぱなしにするのがうれしかった」と。

 ほかの主人公は、両親とともに広島に暮らしながらショッピングモールで働く桐生夏月(新垣結衣)、その中学の同級生で横浜に引っ越していった佐々木佳道(磯村勇斗)、大学で学園祭の実行委員を務める男性恐怖症の神戸八重子(東野絢香)、同じ大学でダンスサークルに所属する諸橋大也(佐藤寛太)と一見ばらばらな人たちだ。それぞれ人に言えない性癖や嗜好があり、社会の中でその欲望をどう満たせばいいかわからずに悩み苦しんでいる。ある者は何とか乗り越えようともがき、ある者はひっそりと身を潜めて生き、ある者はそれでも誰かとつながっていたいと願う。この厳しくも切ない葛藤が、演じる役者陣のリアリティーあふれるたたずまいも相まって、ぐっと胸に迫ってくる。

 さらに映像の創意工夫も見逃せない。中でもキーワードとして作品全体を貫く「水」の表現が素晴らしく、新垣演じる夏月の部屋の孤独感などは、まさに映画だからこそなし得る魔術だろう。社会の中では身を縮めて生きている彼女が唯一、自由に浸れる場所が自室のベッドの上だということが、何の説明も必要なく伝わってくる。ともすれば拒否感を抱かれる可能性もある特殊な性癖について、ここまで美しく見せ切るというのは、美術をはじめとしたスタッフの総合力にほかならない。

 こうして「水」と「藤原悟」を核にして、ばらばらの人間模様が複雑に絡み合い、やがて一本の線に集約されていくのだが、原作で強調されていた「普通」と「多様」双方への懐疑というテーマも決してなおざりにはなっていない。社会は得てして普通や常識という言葉で多数派にくくろうとするが、果たして普通って何なのか。多様性を尊重する社会を目指すべきと言っても、本当に全ての少数派をすくい取ることはできるのか。ラスト、夏月が検事の啓喜に向かってある伝言を残した後の暗転に身を委ねながら、そんな今日的な重い課題に思いを巡らせた。

 この余韻も含めて、改めて岸監督の映像センスにはうならされるが、映画監督のキャリアはそれほど長くはない。大学卒業後、制作者集団のテレビマンユニオンに加わってテレビのバラエティー番組やドキュメンタリーを手がけ、劇映画は2016年の「二重生活」が監督第1作だった。このときインタビュー取材をしているが、「映画はまた作る機会があればぜひやらせてもらいたいが、あまり決めつけてはいない」と謙虚に漏らしていた。

 テレビマンユニオンの同期に、当時すでに世界的に高い評価を受けていた是枝裕和監督がいる。ライバル意識はあるかと尋ねると、「いえいえ、雲の上の人ですから」と恐縮していたものだが、今回の東京国際映画祭での監督賞など、岸監督の国際的な評価も決して引けは取らない。受賞後の記者会見では「スタッフ、キャストみんなで悩みながら撮った作品で、海外の人たちの目に触れると同時に、日本の観客の皆さんに僕たちの視点でものの見方や社会の捉え方を提示できるということが、率直にうれしいですね」と語っていたが、今後の活躍にますます期待が膨らむばかりだ。(藤井克郎)

 2023年11月10日(金)、全国公開。

©2021 朝井リョウ/新潮社  ©2023「正欲」製作委員会

岸善幸監督作品「正欲」から。検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)は家庭に問題を抱えていた ©2021 朝井リョウ/新潮社  ©2023「正欲」製作委員会

岸善幸監督作品「正欲」から。桐生夏月(左、新垣結衣)は、中学のときに引っ越していった同級生、佐々木佳道(磯村勇斗)と数年ぶりに再会する ©2021 朝井リョウ/新潮社  ©2023「正欲」製作委員会