第66夜「追い風」安楽涼監督

 前に「花と雨」(土屋貴史監督)を取り上げたときにも同じようなことを書いたが、ラップという音楽は嫌いではないけれど、よく聴くわけではないし、決して詳しくはない。ただ本場アメリカの実話に基づく「ストレイト・アウタ・コンプトン」(2015年、F・ゲイリー・グレイ監督)や「オール・アイズ・オン・ミー」(2017年、ベニー・ブーム監督)といった映画を見ると、音楽の才能や人間性とは関係なく、なぜかラップの人たちって無用な争いに巻き込まれて悲惨な人生をたどっている。だからこそ映画になるのかなと思ったりもした。

 この「追い風」の主人公、DEGは日本のラッパーなんだけど、スクリーンからは「いい人」感がにじみ出てきて、抗争とはまるで無縁という感じがする。

 何しろ冒頭で、彼が思いを寄せているサトウちゃんの誕生日を祝ってあげたその日に、サトウちゃんに振られるという情けなさ。知人のミュージシャンのプロモーションビデオに出演して、しかも背中しか映らなかったりとか、友人とその彼女のたった2人しか聴きにきていないライブの後に、彼女に理由なしに激賞されたりとか、そのたびにDEGは意味もなく愛想笑いを浮かべる。ラップって自己主張なんじゃないかと思うんだけど、彼は自分よりも他人、根っから優しさが身についているみたい。

 そんなふうに一歩引いた態度を取るたびに、DEGの前に幻のように現れる少年が、映画にふくよかな味わいを加えている。いつも「ごめんね」としか言わない少年。それはDEGの過去の姿なのか、あるいは心の中の葛藤なのか。執拗にまとわりつく「ごめんね」少年に、DEGは行き場のない苛立ちを感じるんだけど、でも現実には何も変えられない。

 たった一度だけ、ギタリストと2人で貸しスタジオに入ったとき、DEGは感情を抑えきれなくなって、涙を流しながら即興でラップを口ずさむ。この高揚感には、聴いているこちらも思わず打ち震えずにはいられない。DEGを演じるのは、実際にラッパーとして活躍しているDEG本人で、あの即興は映画の役のDEGと同時に生身のDEGの叫びでもあるのだろう。役柄と演者がシンクロした一瞬を逃さず、最高のアングルで表情をとらえた安楽涼監督、深谷祐次カメラマンには度肝を抜かれた。

 実は安楽監督とDEGは20年来の友人で、同じ東京の西葛西で生まれ育った仲だという。お互いを知り尽くしているからこその映画であり、音楽であり、それが見事にクロスオーバーすることで、こんなにも心地よい作品になるんだということに、改めて感じ入った。

 その心地よさの極致がラストの結婚披露宴の場面で、ここでのDEGがまたいい味を出しているし、結婚するカップルはじめ学習塾時代の仲間たちとの絡みも最高なんだよね。今の若者の自然な空気感をぎゅっと閉じ込めた20代の映画監督とラップミュージシャン2人の感性に、胸が締めつけられるような気がした。

 2020年8月7日からアップリンク吉祥寺など全国で順次公開。

安楽涼監督作品「追い風」から。自分よりも他人を優先させるラッパーのDEGは、練習スタジオで思わず涙を流す

安楽涼監督作品「追い風」から。一歩引いた態度を取るたびに「ごめんね」少年が現れて……