【百年映画館】森文旭館(愛媛県喜多郡内子町)
☆天井からこぼれ落ちる一つ星
真っ暗闇の空間を、まるで一つ星のように明るい点が降り注いでいた。丸い光が右側の座席から、ちょっとずつこちらに向かって近づいてくる。どこから漏れてくるのだろう。いぶかしんで頭上を見上げると、ちょうど劇場の真ん中に当たる部分だけ天井板がない。木組みの屋根裏がのぞく中に、ほんの小さな穴が開いている。上映中の「暁の脱走」(1950年、谷口千吉監督)では、まさに池部良と山口淑子が2人寝転んで流れ星を眺めているシーンだった。スクリーンの内と外が、奇妙にシンクロする。
「昔は暖を取るのにストーブをたいていて、あそこはその煙突があったところなんです。煙突を抜いて外したままにしてあるんですが、なぜか雨漏りはしないんですよ。面白い小屋、不思議な小屋ですよね」と森文旭館を所有する森文醸造の社長、森秀夫さんはこともなげに言い放つ。
森文旭館の建物が完成したのは1926(大正15)年のことだ。地域の商店主ら11人が出資して活動写真、つまり映画の専門館として開業した。当時の館名は旭館。その11人の中に、衣料品店や酒屋の店主らと並んで、味噌や醤油を製造する森文醸造の2代目社長、森傳三郎がいた。傳三郎は森さんの祖父に当たる。
「この場所は、それ以前には魁(さきがけ)座という芝居小屋が建っていました。でも内子にはもう一つ、内子座という芝居小屋があった。2館が同時に成り立つのは難しいだろうと、魁座は取り壊されて、ここは更地になっていたようです」
森さんの昔語りによると、旭館のある辺りは「上(かみ)」、内子座の辺りは「下(しも)」と呼ばれ、内子の町内でお互いに張り合っていた。「下」にだけ娯楽の殿堂があってにぎやかなのに対し、魁座のなくなった「上」はだんだん寂れていく。何とかこの地域を復興しなくては、と地元の有志が思い付いたのが、活動写真館の建設だった。
現在は内子町が所有、運営する内子座は、日本最古級の芝居小屋として今でもさまざまな公演が行われているが、旭館ができたころは観客の奪い合いで激しい対抗意識を燃やしていた。旭館も内子座も屋根の上には同じような塔屋が設けられており、かつては出し物が始まる前に櫓の上で太鼓をたたき合っていたという。競うようにして太鼓の音が鳴り響いていたのが内子の日常だった、と森さんは記憶を手繰り寄せる。
館の正面入り口脇に掲げられた説明書きによると、旭館の新築には約7000円が投じられたようだ。「以来、芝居、映画鑑賞の拠点となり、町内外より多くの人々が連日訪れた。昭和に入り、電気館と改名され、同四十年初期まで上映し、人々に親しまれた」と書かれてあり、階上座席が14坪165人、階上追込席が5坪76人、階下追込席が30坪540人の合計781人、建物面積126坪という館内データが示されている。
1947(昭和22)年生まれの森さんは、旭館が全盛の時代に幼少期を過ごした。阪東妻三郎主演の忠臣蔵が1週間だけかかっていたのを覚えているというから、恐らく戦前の1938(昭和13)年製作の「忠臣蔵 天の巻・地の巻」(マキノ正博、池田富保監督)の再映だったのではないか。ほかにも「二十四の瞳」(1954年、木下惠介監督)や「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年、木下惠介監督)などを学校から引率されて見に来た思い出がある。団塊の世代でもあり、200人もの小学生が立ち見で鑑賞していたというから、なかなか壮観な光景だったに違いない。
だがそんな地域の人々に愛された旭館も、映画産業の斜陽とともに客足は急速に減っていく。1968(昭和43)年には早くも閉館の憂き目を見るが、島根大学農学部に進学して内子を離れていた森さんには、そのころのことはあまり記憶にない。株主の中には、死去したり商売をやめたりした人も多く、閉館後に全株式を引き受けたのは、森さんの父親の森忠三が社長を務めていた森文醸造だった。
「父からは僕も金を出すように言われて、100万円ほど出資しました。金を出せば愛着も出て、下手に潰すことはないだろうということだったと思います。現在も土地の一部は別の持ち主がいて、いまだに地代を払っていますよ」と森さん。
こうして旭館は創業時の姿のまま、森文醸造の倉庫として長い眠りについた。

☆木蠟で栄えた面影を残す町並み保存地区
森文旭館のある愛媛県内子町を訪ねたのは9月下旬の飛び石連休の時期、お彼岸とは言えまだまだ残暑の厳しいどんよりとした曇り空の日だった。普段は映画の興行は行っていない旭館だが、もう12年前から映画祭と称して1日だけの上映会を開いている。2025(令和7)年は、池部良、石原裕次郎、高倉健、鶴田浩二と昭和を代表する4人の映画スターが主役を張る4作品を日曜の午前10時から上映するというので、せっかくだからとこのタイミングに合わせて百年映画館の取材に訪れた。
映画祭の前日に、飛行機と列車を乗り継いで内子町に入る。北東から南西にかけて細長く伸びる愛媛県は、旧国名の伊予から取って、東予、中予、南予の3つの地域に区分けされており、内子町は南予地方の入り口、愛媛県のほぼ中央に位置する。江戸時代から大正にかけて木蠟(もくろう)の生産地として栄えた町で、その栄華の面影を残した町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて、観光スポットになっているそうだ。
木蠟とはハゼノキの実を粉にし、蒸して搾ったり漂白したりして作るもので、和ロウソクをはじめ、びんつけ油、石鹸、光沢剤、化粧品、医薬品、文房具など、さまざまな原料として使用されている。最盛期には町内に23軒もの製蠟業者があり、日本の総生産量の約3割を占めていたとされるが、電気の普及によって和ロウソクの需要が激減。1924(大正13)年を最後に全ての製蠟業者が廃業した。
松山空港からリムジンバスでJR松山駅に向かい、3両編成の特急宇和海に揺られることおよそ30分。内子駅前から北東に延びる本町通りを、キャリーバッグを転がしててくてく歩く。どこの地方の町にもありそうなありふれた道路だが、15分ほどで重要伝統的建造物群保存地区の八日市・護国の町並みに行き当たるかと思うと、自然と胸が高鳴ってくる。令和の現代からこの何の変哲もない通りを抜けて百年前にタイムスリップするような感じだ。
伊予銀行の交差点を左に折れると、その町並み保存の指定区域だ。確かに漆喰の海鼠壁(なまこかべ)に懸魚(げぎょ)、鏝絵(こてえ)など精緻な装飾が施された立派なお屋敷が軒を連ね、往時の繁栄ぶりを今に伝えるが、飛び石連休初日の土曜の午後にしては観光客の数はそれほどでもない。小江戸・川越や合掌造りの白川郷などと比べると、まだまだ観光地としては浸透していないという印象だ。

☆トタン板の修理で止まった雨漏り
森文旭館はこの保存地区の入り口付近、通りからちょっとだけ奥まったところにたたずんでいた。内子町から製蠟業者が姿を消したころに建てられた劇場は、3層構造の屋根のてっぺんに塔屋が鎮座する立派な擬洋風建築で、百年前の地域の人々の誇らしげな気持ちが時代を超えて伝わってくる。
正面中央の2本の柱に支えられたひさしの上に、「旭館」と右横書きで記された日の出をイメージしたマークが燦然と輝き、その上方、最も目立つ正面中央の2階部分の壁には、恐らく森社長のセレクトなのだろう、手書きで大きく記された「昭和残侠伝 死んで貰います」(1970年、マキノ雅弘監督)の額と主演の高倉健の写真が並ぶ。さらに上部左手には「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年、降旗康男監督)、右手には「男はつらいよ 寅次郎と殿様」(1977年、山田洋次監督)の巨大なポスターが掲げられているほか、ひさしの下にもさまざまな日本映画のポスターがずらり。営業停止後も建物を壊すことなく管理し続けてきた森さんの映画愛がひしひしと感じられる。
近くの森文醸造の本社から駆け付けてくれた森さんの案内で中に入る。土間のままのロビーを抜けて左側の黒幕から劇場内部に足を踏み入れると、左手に2階席、そして右手にスクリーンが広がる。つまり入り口の真上にスクリーンが張られている形で、これは何とも意表を突く構造だ。
スクリーンの前にはかなり広めのステージがあって、映画上映だけでなく演芸、講演なども行われていたことがうかがえる。その周辺には古いカーボン式映写機や移動映写機、旭館を取り上げた数々の新聞や雑誌の記事などが陳列され、さながら旭館資料館の趣だ。
1968(昭和43)年に映画館としての役目を終え、醤油や味噌を保管する倉庫になってから45年が経過した2013(平成25)年のこと。すでに森文醸造の社長を継いでいた森さんは、ふと思った。待てよ、このまま倉庫として放ったままにしていてもいかんだろ、と。たまに醤油の一升瓶を取りに出入りしていたが、手入れをしていない建物は雨漏りが激しく、味噌桶を20個くらい置いて雨だれを受け止めていた。どうにかしなくては、と各方面に相談すると、壊すしかない、との意見が大勢を占める。
「天井の桟木の上に瓦が載っているだけで、危ないから屋根の上に職人さんが上ることができない。足場を組んで周りを囲んで屋根の修復工事を行うと、何億円もかかる。直しようがない、ということになったのですが、幸いにして桟木の枠がしっかりしていたので、天井に乗ってそこからトタン板を差し込んだらいいかもしれない、となったんです。一か八かでした」と森さんは振り返る。
十数人の職人が劇場内部の屋根裏からトタン板を張っていった。修理代も300万円程度で済んだ。不思議と雨漏りが止まった。「それから12年、一度も雨漏りはありません」と森さんは笑顔をのぞかせる。
その年の6月、復活を記念してほぼ半世紀ぶりに映画の上映会を開いた。作品は片岡千恵蔵、市川右太衛門以下、時代劇スター総出演の「赤穂浪士」(1961年、松田定次監督)だった。森さんが子どものころに旭館で見た阪妻版「忠臣蔵」の記憶がよみがえった。梅雨の季節、その日も大雨に見舞われたが、雨漏りはしなかった。

☆山あり川ありで空港からも近い
秋の日はつるべ落とし。森さんのお話をもっと聞いていたいが、外はそろそろ薄暗くなってきた。翌日の映画祭は朝の7時半に映写技師がやってきて準備に取り掛かるという。またそのころに戻ってきます、と告げて今夜の宿へと向かう。
予約をしているのは旭館とは目と鼻の先にあるゲストハウスで、聞けば2024(令和6)年12月にオープンしたばかりとのことだった。スマートフォンからチェックインができ、誰とも会わずにチェックアウトもできるという今風の宿で、60歳過ぎのおっさんにはいささか戸惑いを隠せない。ただこの日はちゃんとフロントにはスタッフがいて、それどころかスタッフの飼い犬のおとなしい柴犬くんもわが方を出迎えてくれた。やれ、うれしや。
オーナーの寺園浩昭さんによると、十数年も手付かずだった築60年以上の古い鉄筋コンクリートの建物をリニューアル。1階はカフェにもなっており、宿泊しなくても天井の高いおしゃれな空間でお酒を飲んだり軽食を取ったりすることができる。特に自転車でのツーリングに適した造りになっていて、1階のカフェだけでなく、各部屋にも自転車を格納できる器具が取り付けられている。町並み保存地区からちょっと足を延ばして、内子町界隈の自然や歴史をサイクリングでたどる旅も楽しそう。
「今は外国の方が6割といったところですね。まだまだ存在を知られていないので、経営は苦しいのですが」と苦笑いを浮かべる寺園さんは、実は地元の出身ではない。自宅は千葉県にあり、今は単身で愛媛県、それも内子町ではなく松山市に住んでいる。
かつて航空会社に勤務していた寺園さんは、およそ15年前に3年半、支店長として松山で暮らしていたことがある。在任中、以前から縁のあった阿木燿子のプロデュース、宇崎竜童の音楽監督によるフラメンコエンターテインメント「Ay曽根崎心中」の内子座での公演を企画するなど、内子町ともつながりがあった。
やがて関東に戻ったものの、早期退職して愛媛のテレビ局に転身。6年間、勤務した後、内子町の観光協会が事務局長を募集していたのを知って応募したところ採用される。観光協会には3年間、在籍していたが、その間に観光庁の助成事業の一つとして採択されたのがここをサイクリストの宿にリニューアルするというプロジェクトで、ほかにやる人がいなかったことから、自らが買い取って運営することになった。
「せっかく採択されたのに、誰もやらないのはもったいないですからね」と話す寺園さんは、内子の観光資源は何も町並み保存地区だけではないと強調する。
「町の7割が森林で山あり川ありと自然に恵まれている。サイクリングになると高知県の四万十川などもっと遠くまで行けますし、それに何より人がいい。外国人などよそからの人に優しいし、子どもたちはきちんと挨拶をするし、気持ちがいい。それでいて松山から近いですからね。空港からレンタカーだと40分で来ることができる。これだけ近いのにド田舎という魅力がここにはあります」
ただまだまだ宿泊施設は少ないし、食事どころも足りていない。もうちょっと旅行しやすい環境整備が必要だとも指摘する。
確かに寺園さんお勧めの飲食店を何店か紹介してもらったが、いずれも予約でいっぱいで空いていなかった。ようやく、大丈夫ですよ、と言ってくれたお店に入ったものの、居酒屋と言いながら、ラーメンに中華そば、焼きそば、焼き餃子とごくごくありきたりの食堂メニューが並ぶ。うーん、ラーメンと中華そばの違いって何なんだろう。
「うちは観光客相手の店じゃないからね」とのたまう女将さんに、地酒は何があるのかと尋ねると、京ひな深山(みやま)との答えが返ってきた。大正年間に誕生した酒蔵を前身とする内子町の酒造会社の銘柄で、冷酒を1合いただく。うまみとともに甘みも深く、これは酔いが回るのが早そうだ。
つまみに〆サバとクジラ刺し、焼きナス、冷ややっこを注文するが、それぞれ違う種類の醤油を小皿に入れて出してくる。コンブ出汁などを加えているみたいだけど、いずれも何となく甘めだ。酒といい、醤油といい、こちらの辺りは甘いのが売りなのだろうか。醤油はやっぱり地元の森文醸造のですか、と聞くと、キッコーマンかヒガシマル醤油とのこと。うーむ、関東か関西ってわけね。
でもクジラは珍しいし、愛媛のお隣の高知は昔から捕鯨で有名だし、一体どこで獲れたものだろう。と、またまた女将さんに聞いてみると、「さあ」とまたまたつれない返事。「お客さんに、クジラはないの、って聞かれたから置いてあるだけよ」
こういう何てことのないやり取りができるのも旅の醍醐味だし、クジラは私も久しぶりに口にした。ニンニクにタマネギ、カイワレ、長ネギにレモンを搾って食すと、甘めの冷酒がどんどん進む。焼きナスもものすごく香ばしかったし、木綿豆腐の冷ややっこといい、地のものにあずかることはできなかったけれど、大満足の内子の夜でありました。

☆映写機を切り替えるチェンジマークの緊張
翌日は前日の湿っぽい空模様とは打って変わって、朝からお日さまがまぶしいいい天気だ。7時50分ごろに森文旭館に着くと、すでに映写機材の搬入中だった。映写スタッフは、高知市を根城に四国全土で移動映写を手がけているシネマ四国の2人。劇場の両脇にある木製の階段からえっちらおっちら2階に運び上げて、桟敷席の真ん中に2台の35ミリフィルム映写機を設置している。
今では大半の映画館がデジタル映写に切り替わっていて、フィルム映写機自体、ほとんど置いていないし、フィルムで上映するにしても事前に1巻の大きなリールにつないで全自動で作動させることが多い。だがもともと映画のフィルムは、巻(かん)掛け、あるいは玉掛けと言って、2台の映写機で1巻ずつ交互に動かすものだった。
フィルムの1巻は、大体20分くらいの上映時間になる。1巻の終わり近くになると、画面の右上にフィルム交換を知らせる小さなチェンジマークが2回出ることになっており、1回目のマークでもう1台の映写機をスタートさせ、2回目のマークで切り替えるという寸法だ。私は高校生のころ、NHKで放送されていたテレビ映画「刑事コロンボ」の第43話「秒読みの殺人」(1977年、ジェームズ・フローリー監督)でこの仕組みのことを知り、いたく感動した覚えがある。以来、映画館で映画を見るたびに、チェンジマークを見つけることにひそかな喜びを見いだしていた。
だが映写技師にとっては、このマークこそが映画を滞りなく上映できるかどうかの命綱なのだ。2時間の作品となるとフィルムリールは6巻になり、上映中に5回も映写機を切り替えなくてはならない。うっかり見落とすと変な空白が出るはめにもなり、下手すると観客から文句が出ないとも限らない。特に最近のデジタル映写しか知らない人にとっては、ちょっとのずれでも違和感を覚えるかもしれない。
この日の4作品は、「暁の脱走」に加えて「嵐を呼ぶ男」(1957年、井上梅次監督)、「網走番外地」(1965年、石井輝男監督)、「人生劇場 飛車角と吉良常」(1968年、内田吐夢監督)で、国立映画アーカイブが主催する優秀映画鑑賞推進事業の一環として同アーカイブが所蔵する35ミリフィルムを借りての上映だ。だからフィルム状態に問題はないが、フィルム缶はアーカイブから直接、森文旭館に届けられていて、映写担当のシネマ四国が現物を目にするのは、この日の朝が初めてとなる。
「余裕があれば本当は映写前にチェンジマークがどういうものかチェックするのですが、今日は映し始めて初めてフィルムを見るという状況です。中には黒いバックに黒いマークの場合もあって、見落とすことが絶対にないとは言えない。2人がかりで見るんですが、やはり緊張しますね」とシネマ四国の代表取締役、田邊高英さんは打ち明ける。
無事に2台のセットも組み終わり、午前9時半、入場開始。私が一番客として1000円なりを払ってチケットを購入する。1作品500円だが、入り口の案内に「お一人様2作品以上からの販売となっております」とある。今のところ、午前中の「暁の脱走」の後は、森さんに話の続きをお聞きしようと思っていた。ボランティアのスタッフに「もう1本はどうしますか」と聞かれて、とりあえず「嵐を呼ぶ男」にしてもらったが、本当は4本とも見たいところだ。何せいずれも映画館の大きなスクリーンで鑑賞したことはない。
森さんによると、120人ほどが事前予約をしているというが、どうやら午後に集中しそうだという。森さんが電話で「朝が少ないんよ」と知り合いに誘いをかけている。やがて三々五々、地元の住民らしき人がぽつりぽつりと姿を現す。「主人は午後のを見るって言っていました」と話す女性に、森さんが「昨日、雨が降ったけんね。だいぶ涼しくなってよかったわ」と笑顔で応じる。

☆映画祭の開幕を告げる水戸黄門
午前10時、まだ10人ちょっとしか入場していないが、映画祭が始まった。上映前、ステージ上に森さんが歩み出る。何と水戸黄門のスタイルだ。「旭館は内子町民が造った映画館で、99年間、地震にも台風にも耐えてきました。何とか残していけるように、ぜひ皆さんとともに、今後の活用法を考えていけたらと思います」と挨拶するも、かっかっかっ、との高笑いは出なかった。
いよいよ「暁の脱走」の上映が始まる。2階桟敷席に置かれた映写機からカタカタカタという動作音が聞こえる。壁で仕切られているわけではないから、映写機の音は丸聞こえだ。ストーリーそっちのけで、スクリーンの右上に注意を払う。カタカタカタの音がちょっと大きくなり、あ、チェンジマークが出た。そしてもう1回。ガッシャン、と映写機が切り替わる。全くずれがない。シネマ四国の仕事は完璧だ。
上映中も続々と人が入ってきて、結局は25人ほどの入りで1時間50分の上映は終了した。天井の穴からの小さな星も、百年映画館ならではの余興として花を添える。軍隊の理不尽さと愛する2人の悲恋を描いた名作の余韻が、この味のある空間のおかげでさらに増幅されたように感じた。
「やっぱり古いので、公民館や公共ホールなどと比べると音はそんなによくないかもしれません。でも雰囲気としてはとてもいいんじゃないかなと思いますね」。1本目の上映を無事に終えて、シネマ四国の田邊さんはほっとした表情で語る。
恐らく35ミリフィルム映写機で四国を回っているのはうちだけだと思う、と証言する田邊さんによると、映画館のよさは、映画を見ることだけではなく、地域の人たちの交流の場になっているところにもあるのではないかという。映画が始まる前もわいわい、映画が終わった後もがやがやと映画の話で盛り上がる。特に地域の映画館は顔見知りが多く、映画の前後の時間を楽しんでいる姿を目にすると、映写をしている田邊さんたちも楽しくなってくると認める。
「以前は子ども映画を映画館がない町でやると、800席がいっぱいになるくらい子どもたちが来てくれた。その後、DVDが出始めるようになって下火になったが、それでも親子のふれあい上映会などをやると、みんな楽しみにしてくれます。やっぱりみんなで一緒に笑って泣いて、というのがいい。子どもたちがものすごく喜んでくれるのがうれしいし、お年寄りの方も20年ぶりに映画を見たわ、と言ってくるおばあちゃんがいたりして、やったかいがあったなと思いますね。でもフィルムチェンジに失敗したらごめんなさい、です」と田邊さんは、まだ後3回残っている今日の映写に思いを寄せていた。

☆来館はかなわなかった高倉健からの手紙
「水戸黄門は、森文醸造で『おいしい酢卵(すたまご)』を発売したときにテレビCMを作ろうとなって、日本人が一番よく知っている人は誰だろうと考えたら、たまたま思い付いたものです。ちっちゃい子どもからお年寄りまで知っていて、日本全国を行脚したという設定ですからね。食の文化を含めてやりたいことはいっぱいあるが、一つずつやっていかないといけないなと考えています」
舞台挨拶のときに扮した水戸黄門について改めて森さんに聞いてみたところ、こんな答えが返ってきた。ちなみに「おいしい酢卵」とは、森さんが開発した商品で、生卵を酢に漬け込んだ中国の伝統的健康飲料を飲みやすく改良したものだ。1998(平成10)年に販売を開始し、2023(令和5)年には森文醸造の創業130年を記念して森文酢卵ミュージアムを開館している。
この酢卵ミュージアムには、ちょっとしたお宝がある。あの世界の高倉健から森さん宛てに届いた手紙で、額装してミュージアム2階に展示してある。文面はこうだ。
森文醸造株式会社
代表取締役 森秀夫様
拝復
12月9日付けの丁寧なお手紙拝読致しました。
文化勲章受章に際しては温かいお励ましを戴き、有難うございました。
ご依頼の件ですが、
実は、数年前から全国より同様のお手紙を頂戴しております。
様々な問題が書かれております。
少子化に加え、映画配信スタイルの大きな変化、映画館経営の世代交代について等、様々に訴えて来られます。
世の変化にどのように対応していかなくてはならないか。
それは、公としてだけでなく、個の単位でも同じだと思います。
一過性の盛り上がりでは解決できると思いません。
自分に今何ができるか。
持ち時間は限られています。
映画俳優として、映画を作り続けることと信じます。
ご依頼に添えない旨、悪しからずご了承下さい。
先ずは、書中にてお返事申し上げます。
拝白
2013年12月14日
高 倉 健
「高倉健さんは好きでしたからね。健さんのやくざ映画は、全共闘世代はみんながみんな喜んで拍手をしながら見ていた。あの黙って何か事をなすという雰囲気、これが好きですね」と話す森さんは、旭館を残したまま活用しようとなったとき、真っ先に健さんに来てもらいたいと思った。知己の新聞記者に相談したところ、何回か手紙を出したら来てくれるんじゃないかという。実際、高倉は地方の映画館だろうがどこだろうが、映画を愛する人たちが待ち望んでいるところには何のてらいもなく訪れることがあり、熊本県の天草にある本渡第一映劇など全国各地の映画館に足跡を残している。
だが旭館が復活した2013(平成25)年ごろは体調も思わしくなかったようで、高倉は翌2014(平成26)年11月に帰らぬ人となっている。高倉の主演映画は旭館の象徴のような存在で、その年に「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(1977年、山田洋次監督)をかけたのをはじめとして、ほぼ毎年のように映画祭の上映作品に組み込んでいる。この日のプログラムにもしっかりと「網走番外地」が入っていた。

☆下駄履きで来ることができる気安さ
「小さいころ、2代目社長の祖父、傳三郎にかわいがられて、いとこがいっぱいいる中、なぜか僕だけここに連れてこられた。将来ここを残せ、っていう暗示だったかもしれませんね」と話す森さんにとって、劇場の保存に尽力するのは、実は今回が初めてではない。今は内子町が所有、管理するライバルの芝居小屋、内子座にもかつて情熱を注いでいた。
愛媛大学の大学院を出て、実家の家業に戻ってきたころのことだ。1916(大正5)年創建と旭館よりも古い内子座だが、壊して駐車場にしたらどうかという話が浮上していた。せっかくの歴史ある建物を壊すなんておかしいんじゃないか。有志とともに民間の組織を結成し、名優、宇野重吉を呼んで芝居の公演を打ったり、落語家の桂米朝や桂春団治の一門会を開催したりした。
運動はだんだんと盛り上がりを見せて、行政の内子町も主体的に乗り出すようになっていったが、ある時期を境に森さんは一線を退いた。人形浄瑠璃の文楽公演を行うことになったからだ。
「そんなんじゃない、下駄履きで来ることができる劇場にせんと、というのが僕の思いでした。でも旭館ならそれができる。田舎の文化を大事にすることで、観光の一つの目玉になるんじゃないかと思うんです。だから映画でいい。下駄履き、草履履きで来られますからね」
内子座は2025(令和7)年1月から、足場を組んで全ての建材を点検する本格的な保存修理工事を始めた。工期は2028(令和10)年9月までで、その間、興行はできない。ますます森文旭館に寄せられる期待は膨らむが、行政をはじめ周囲の協力体制は芳しくない。今回の映画祭も、森さんが町役場の全ての課を回ってPRしたが、職員は誰一人として姿を見せなかったという。
「12年間、毎年毎年、よう頑張ってきたなと思います。ただ建物を残す文化は大事だが、それだけではやっていけない。商売として考えれば、赤字続きではどうしようもないですからね。残せ残せと言いますが、一体誰がやるのか」と森さんは将来への不安も口にする。
そんな中、一つの光明がある。旭館のほんの目の前にゲストハウスとカフェを兼ねた「内子晴れ」を経営する山内大輔さんは、2024(令和6)年から森さんから賃借する形で旭館の管理、企画運営を請け負っている。
「このままだったらなくなってしまうという心配がありましたからね。若い者が動いていかないと」と話す山内さんは神奈川県の出身。四国八十八箇所巡礼のお遍路をきっかけに四国に移住したいと思うようになり、地域おこし協力隊からそのまま内子町に住み着いている。古民家を改造した「内子晴れ」は2017(平成29)年から開いているが、旭館はライブと映像を組み合わせたイベントで使わせてもらうなど、以前から関わりがあった。
「壊す、壊さないよりも、あまりにもここのことを知らない人が多い。町並み保存地区に来た観光客も、みんな旭館に気づかないで帰っていくんです。でもここの町並みだって昔は土壁がぼろぼろで保存するなんて誰も理解できなかったのに、これだけの広い範囲で守ろうとしてきた。その住民の力は相当なものだと思います。旭館の保存も1人でやるつもりは全くない。こういう場所が好きな人は多いだろうし、みんなに知ってもらえば、残したいという人も増えるはずです」と山内さんは力を込める。
2025(令和7)年は6月に無声映画の上映イベントを開いたほか、10月には内子旭館映画祭と称して5日間にわたって4作品を上映。内子町を拠点に映像制作を手がけるKo-ki Karasudani監督の「紙の人びと Ikazaki Washi Craftman」(2023年)、「暮夏」(2025年)の自主映画も含むなど、意欲的なラインアップになっていた。
「内装を見るだけでもお客さんは感動してくれる。映画ファンは世の中にいっぱいいると思うので、こういう場所で映画を見たいという人に届いてほしいですね」
昭和の映画スターをそろえた映画祭も、最後の鶴田浩二が始まっていた。昨日の轍は踏むまいと、今夜はすでに夕食のお店を予約している。ゲストハウスの寺園さんお勧めのドイツ家庭料理レストランで、古民家を改造した店構えもしゃれている。内子チーズを使ったカプレーゼに内子豚のソーセージと、地元の食材を生かした素朴なドイツ料理が、日本ではここでしか飲めないというドイツビールによく合う。満足、満足。
ゲストハウスへの帰り道、夜風に吹かれながら暗闇に包まれた町並み保存地区をのんびり歩む。観光客はおろか、人っ子一人歩いていない。ふと見上げると、夜空に満天の星がきらめいていた。

《森文旭館》1926(大正15)年、旭館として創業。1968(昭和43)年、閉館。現在は森文醸造が所有。愛媛県喜多郡内子町内子2307
※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋

