【百年映画館】萬代舘(岩手県二戸郡一戸町)

☆全車満席の新幹線に奥の手で乗り込む

 ちょっと甘く見過ぎていた。これまでも百年映画館の取材に北陸新幹線や東海道新幹線を利用しているが、直前の予約でも指定席が取れなかったことはないし、大概、車内は余裕があった。車窓からの山並みを眺めつつ駅弁をゆっくり味わうという旅の醍醐味を満喫しながら、百年映画館との出合いに思いをはせるというのがお決まりの道程だった。

 3連休の初日とは言え、10月半ばでまさか一日中、全ての東北新幹線の指定席が満席だとは思わなかった。自由席で行こうにも、盛岡よりも先に向かう「はやぶさ」は全席指定となっている。最悪の場合、金曜の夜に出発して、どこかホテルで1泊するしかないかも、と覚悟を決めた。

 思えば、今回の萬代舘を訪ねる取材は、事前からハプニング続きだった。建物は現在、所在地の自治体である岩手県一戸町が維持、管理をしている。通常の営業は行っておらず、ウェブサイトを見ると、定期的なイベントとしてジャズライブと寄席、それにカシオペア映画祭を開催しているとある。映画を上映していないときに取材に行っても広がりがない。せっかくならカシオペア映画祭に合わせて伺いたいと町役場に企画書とともに連絡を入れたのが3月のこと。すぐに返事が届き、今年2025(令和7)年の映画祭は10月に行われる予定だという。そっか、半年以上も先か、とのんびりと構えていた。

 ようやくカシオペア映画祭の情報がインターネットで散見されるようになり、8月に改めて取材の依頼を送る。どこかお勧めの宿があったら紹介してほしい、と書き添えると、何と近くには宿泊施設がなく、近隣の二戸市でご利用くださいとの返事。えっ、と慌てて旅行サイトでチェックするが、二戸市内もホテルはどこもすでに満室だ。片っ端から旅館に電話をかけ、何とかごく平凡な安宿を予約できたが、新幹線が停車する二戸駅からは歩いて45分もかかる。しかも萬代舘は二戸から第三セクターのIGRいわて銀河鉄道で5分の隣駅、一戸から徒歩約15分と来ている。前途多難を予感させて余りある。

 新幹線は何とかトリッキーな奥の手を思い付いた。仙台までは「やまびこ」の自由席で向かい、仙台で「はやぶさ」に乗り換える。仙台で降りる客の席が空くという寸法だが、2台の新幹線を乗り継ぐことで、通常よりも特急券が2000円以上も高くなる。前泊するよりは安いし、仕方ないか。

 ところがいよいよ出発まで1週間を切り、取材の最終確認をしようと役場に連絡すると、萬代舘が開いているのはカシオペア映画祭の当日だけで、前日も翌日も誰もいないから鍵がかかっているという。ありゃりゃりゃ。ってことは映画祭が開かれている最中、ゲストもお客さんもいっぱい人がいる中で、舞台裏や映写室を含めて写真を撮影し、映画を見て、さらに関係者から劇場に関する話を聞くということか。そんな器用なことが、果たしてできるのかしらん。

 不安にさいなまれていると、フェイスブックで思いもかけない投稿を見つけた。カシオペア映画祭の1週間前に当たる週末、萬代舘で「幕末太陽傳」(1957年、川島雄三監督)を映写したというものだ。投稿主の櫛桁一則さんは岩手県宮古市にあった生活協同組合が運営する映画館、みやこシネマリーンの支配人を務めていた人物で、2016(平成28)年にシネマリーンが閉館した後も、三陸地方を中心に岩手県内外で巡回上映を行っている。私はシネマリーン時代から都合2回、宮古に赴いて櫛桁さんに取材しているが、その櫛桁さんが宮古からかなりの距離のある一戸の萬代舘に来て、映写を手がけていた。しかも大勢のお客さんでにぎわっている写真もたくさんフェイスブックに上げている。

 何てこった。カシオペア映画祭以外でも萬代舘で映画が上映されることがあるんだ。という衝撃とともに、櫛桁さんの投稿にあったある写真のキャプションが目に留まった。「上映終わって宮澤さんの映画&一戸遊郭トーク」とある。宮澤さんって、誰。

 いきなりで失礼とは思ったが、タグ付けされている宮澤明彦さんのフェイスブックのメッセンジャーに、百年映画館の取材で萬代舘に行く旨を伝え、もし時間が合えば話をお聞きできないかと伝えたところ、すぐに色よい返事が届く。しかも萬代舘が閉まっているカシオペア映画祭の前日に、鍵を借りて劇場を開けることも可能だという。ああ、何ていい人だ。

☆全面改修でも残ったテケツ跡

 旅立ちの日は小雨模様で、東京もいささか肌寒い。大宮から東北新幹線の「やまびこ」に乗り込むが、駅のホーム上からもう押し合いへし合いの大混雑で、3両しかない自由席は立錐の余地もないどころか、大半の人がホームにあふれている。4号車、5号車も通路を開放します、とのアナウンスを受け、5号車の入り口からようやく乗り込んだが、それでも大量にあぶれた人が6号車へと向かう。こんな超満員列車はいつ以来だろう。

 7分遅れで大宮を出発した列車は、宇都宮、郡山、福島と停車するたびに徐々にすいてくるものの、当然ながら5号車は指定席だから座ることはできない。仙台で降りると立ち疲れもものかは、ホームの売店に走る。駅弁はラッキーにも最後の1個が残っていた。奪い取るように手にすると、レジでの会計ももどかしく、すぐに入線してきた「はやぶさ」新青森行きに飛び乗る。ようやくほっと一息つくことができた。

 二戸駅からIGRいわて銀河鉄道で一駅の一戸駅周辺は、確かに宿泊施設はおろか、飲食店もほとんど見当たらない。ところどころ古い建物がたたずむ奥州街道を馬淵(まべち)川に架かる万代橋方向に向かって歩くと、1909(明治42)年開館の萬代舘が前方正面にそびえているのが目に入る。現在の建物は1956(昭和31)年に改修されたもののようだが、遠目からも目立つ威容は町のシンボル的な存在であることがうかがえる。

 入り口近くで待っていてくれた宮澤さんが「ちょっと鍵を取ってきますから」と言ってすぐに戻ってきた。聞けば近くで書店を営む友人が鍵を預かっていて、何かあるといつでも開けることができるという。

 宮澤さんの案内で、館内を見せてもらう。正面のガラス戸を開けると、広めのロビーの右側にも左側にも2階席に続く階段がある。右の階段脇には古いカーボン式映写機が2台、でーんと陳列されていて、左の階段脇は明日の映画祭で振る舞われる飲食物のカウンターになっている。「この映写機が展示されているところには昔は飲食店が入っていて、その脇で映画のチケットを売っていました」と宮澤さん。チケット売り場、つまりテケツの跡は、劇場外側の正面右側に半円形の窓が2つ残っていて、最盛期はお客さんが入場券を求めて列を作っていたことが想像される。「全面、壁にするという意見もあったそうですが、よく残してくれたなと思います」と、子どものころの思い出がこの建物に染み付いているという宮澤さんは笑顔をのぞかせる。

 萬代舘は2008(平成20)年、館主だった山火(やまび)家から寄付を受ける形で一戸町が取得。冷暖房設備の新設やトイレの改修など大規模な工事を行い、映画上映だけでなく演劇や講演会など、さまざまな利用が可能な小屋によみがえらせた。1階はステージを広げた上、前方の座席を可動式にして、壇上でも平場でもイベントができる仕組みになっている。固定席は1階84席、2階48席で、2階後方の映写室にはプロジェクターと35ミリフィルム映写機が据え付けられているほか、スクリーンの裏には、来場ゲストのための楽屋もしつらえられている。

 そのうちに、ほかにも館内を出入りする人が現れた。こちらが宮澤さんの説明にうんうんとうなずいていると、ちょいちょい合いの手を入れてくる。聞けば、映画館「萬代舘」利活用事業実行委員会の会長を務める浪岡洋一さんと、カシオペア映画祭実行委員長の冨田圭さんのお二人で、明日の映画祭の準備のためにやってきたという。確かに年に一度、一日がかりの大イベントの前日に、誰も来ないなんてあり得ない。だだっ広い劇場がちょっとにぎやかになって、何だかうれしい。

「ところで」と東京を発つ前から疑問に思っていたことを宮澤さんにぶつけてみた。「宮澤さんは、どういうご関係の方なんですか」

☆ピンク映画の音声に小学生が聞き耳

 1969(昭和44)年生まれの宮澤さんは、祖父が萬代舘の目の前で中華料理店を営んでいたことから、物心ついたころから萬代舘は格好の遊び場だった。まだ4歳か5歳ごろのこと、祖父に「お前は家にいるとうるさいからここにいろ」と言われて、萬代舘に放り込まれていたという。当時の萬代舘はばりばりの現役映画館で、祖父は館主だった山火徳次郎と昵懇の間柄だった。

「だから映画も当然、好きになりますよね」と話す宮澤さんの最も古いスクリーン体験は、ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」(1973年、ロバート・クローズ監督)だ。理由もなく、ただただ打ちのめされた宮澤さんは、以来、ブルース・リーは永遠の憧れの存在であり続けている。小学校低学年のころは萬代舘でブルース・リー映画がちょくちょくかかっていて、見終わった後、全ての電柱を蹴りながら帰宅した記憶がある。自分で切った木材に鎖をつないだお手製のヌンチャクで電灯を割ったことなど、思い出は尽きない。「ブルース・リーの映画で自分は作られた、という思いはありますね」とまで言い切る。

 だが1981(昭和56)年には祖父が店を畳み、歩いて5~6分のところに引っ越すことになる。映画も斜陽産業と言われて久しく、萬代舘は平日はピンク映画をかけて、一般映画は週末だけの上映というシフトになっていた。そのころは上映作品の音声をスピーカーで外に流していたそうで、ピンク映画の上映中、小学生の悪ガキだった宮澤さんは学校からの帰り道、よく悪友とともに聞き耳を立てていたという。

 だが高校生になると吹奏楽部の活動で忙しかったこともあり、萬代舘からは足が遠のいていった。就職してからも相変わらず映画は好きで、車で1時間半かけて盛岡まで見に行っていたが、いつの間にか萬代舘は定期上映をやめ、町に寄付されていた。現在は2025(令和7)年に転職したばかりの高速道路の仕事をこなしながら、地元の小中学生にサッカーの指導を行っている。映画は年間80本から100本はスクリーンで見ているというが、完全に趣味の世界だ。

 そんな宮澤さんが萬代舘と再び強い縁ができたのは、宮古の櫛桁一則さんとの出会いが大きい。それまでも櫛桁さんが各地を巡回して行う上映会にたびたび顔を出していた宮澤さんは、お隣の二戸市で櫛桁さん主催のワークショップが開かれることを知る。萬代舘を地元の高校の演劇部や吹奏楽部が使用していたのを見て、自分も上映会ができるかもしれないと考えた宮澤さんはこのワークショップに参加。櫛桁さんが講師を務め、上映会を開くまでの手順、実際の映写の際の役割分担などを実践形式で教わった。締めくくりに受講者みんなで実際に上映会を開くことになり、のんがヒロイン役を演じ、一戸町でもロケが行われた「星屑の町」(2020年、杉山泰一監督)を櫛桁さんが提案。萬代舘を借りて上映が実現した。2022(令和4)年2月のことだった。

「盛岡には小さな上映団体がたくさんあって、よく足を運んでいました。自分もやりたいなとおぼろげには思っていたので、実現したときは感無量でしたね。あ、自分でもやれるんだ、と。客から運営側に回った瞬間でした」と宮澤さんは振り返る。

 その後、2023(令和5)年4月には津軽三味線の巨匠、初代高橋竹山を取り上げたドキュメンタリー映画「津軽のカマリ」(2018年、大西功一監督)の上映会を企画。上映後には、初代竹山の内弟子だった二代目高橋竹山に生演奏を披露してもらうなど、約70人が詰めかけた萬代舘は大いに盛り上がった。

「初代竹山さんは、私が小さいころ、一戸で演奏会を聴いたことがあって、前から興味を持っていました。映画は秋田県大館市にある映画館の御成座で見たのが最初で、その後、八戸、盛岡と都合3回、見ています。盛岡のとき、来場していた大西監督に萬代舘で上映したいとお願いしたらいろいろと調べてくださって、櫛桁さんの口添えもあって上映会を開くことができました。映画の中で初代竹山さんが演奏している場面で、スクリーンに向かって拍手が起きたのには、ちょっとびっくりしましたね」と、いまだ興奮が冷めやらぬ表情で語る。

 現在、一戸に近い映画館というと、その大館の御成座か盛岡のシネコンくらいしかない。車で1時間かからない青森県八戸市は、数年前に全ての映画館が姿を消している。カシオペア映画祭の1週間前に櫛桁さんの映写で上映された「幕末太陽傳」は、八戸の上映団体が企画した連続上映会の一環で、萬代舘以外は八戸市内の私設美術館やお寺が会場だった。スクリーンや映写機が備えられているなど上映環境が整った萬代舘は、周辺地域における貴重な存在と言える。

「映画を求めている人はいる。需要はあるんです。でも建物は見えているのに、入ったことがないという人も多いんですよね」と話す宮澤さんは、「燃えよドラゴン」を萬代舘で上映することを人生の目標に設定している。「生まれて初めてここで見た映画をここでやりたい」と夢を口にする宮澤さんの目はどこまでも純粋だった。

☆ギャラの出ない日本一の貧乏映画祭

 いつの間にか辺りは薄暗くなってきていた。写真映えするようにと、表の「萬代舘」と書かれたネオンサインを点灯してくれる。なるほどこの赤くともった大きな文字は遠目にも目立つ映えポイントだが、普段は真っ暗なままというのはいかにももったいない。明日も朝から取材だし、そろそろ10キロほど離れた二戸の宿にチェックインしないと、と切り出すと、宮澤さんが「車で送っていきますよ」。うう、どこまでもいい人だ。

 萬代舘から二戸の宿までは電車と歩きで40分ほど、バスを乗り継ぐと1時間以上もかかる。宿の最寄りの駅は二戸のさらに1つ先の斗米(とまい)という無人駅で、ストリートビューを見ると何もない田舎道を途中、橋を渡って行かなければならない。このところ岩手県やお隣の秋田県ではクマの被害が多発しているし、15分で着く車での移動は誠にありがたい。

 翌朝はまさか迎えに来てもらうわけにはいかず、早起きをしててくてく斗米駅まで歩く。馬淵川に架かる天神橋の両側を眺めると、どちらにも深い緑の森が続く。ここを暗がりの中で歩くのは、さすがにちょっと勇気がいりそうだ。

 午前9時前に萬代舘に着くと、もう映画祭実行委員長の冨田さんらが準備にいそしんでいた。この日は一日中、大忙しだろうと思われたので、冨田さんには前日に作業の合間を縫って、カシオペア映画祭の概略について話を聞いている。さらに萬代舘利活用事業実行委員会会長の浪岡さんは映画祭や関連イベントの歩みを一覧表にして持ってきてくれた。宮澤さんだけでなく、いい人たちばっかりだ。

 お二人によると、カシオペア映画祭は1994(平成6)年、無声映画鑑賞会としてスタートした。活動弁士の澤登翠の語りで、片岡千恵蔵主演の「瞼の母」(1931年、稲垣浩監督)やバスター・キートンが監督、主演を務めた「キートンの白人酋長」(1921年)の上映だった。まだ冨田さんは実行委員長ではなく、地元のお年寄りをターゲットにしていた。場所は山火徳次郎が館主を務めていたころの萬代舘だ。

「ところがそのときの実行委員長が仕事の都合で東京に行くことになって、2回目以降は君がやれ、と言われましてね。当初は1回だけの企画のつもりでしたが、町民の皆さんから、来年もやるの、とリクエストが来て、とりあえず私が2代目を襲名して続けることになりました」と冨田さんは打ち明ける。

 ところで映画祭の名称になっているカシオペアとは何ぞや。話はさらに1991(平成3)年にさかのぼる。井上ひさしの小説「吉里吉里人」のヒットを受けて、全国で観光を目的にしたミニ独立国がブームになっていたころで、この辺りの浄法寺町(現在は二戸市の一部)、一戸町、二戸市、九戸村、軽米町の5市町村が地域一体となってその魅力を全国にPRしていこうと「カシオペア連邦」を建国した。それぞれの市町村を線でつなぐと、ちょうどカシオペア座のようなWの形になることからの命名だった。

 この連邦国に由来するカシオペア映画祭はその後も無声映画が中心だったが、1998(平成10)年の第5回のとき、新作映画の「良寛」(1997年、貞永方久監督)を上映して、原作者の作家、瀬戸内寂聴に講演してもらったのが転機となる。誰か映画人をゲストに招き、その関連作をファンと一緒に見て楽しむというスタイルにシフトしていき、翌年の第6回は俳優の藤岡弘、を迎えて主演作「大空のサムライ」(1976年、丸山誠治監督)などを上映。その後、田中邦衛、長塚京三、原田芳雄と続き、大杉漣は都合3回、宝田明と赤井英和は2回ずつ来場するなど、一度来れば何度も参加したくなるアットホームな映画祭として定着するようになった。

「でも日本一の貧乏映画祭とうたっているくらいで、ゲストにはギャラは一銭も払っていません。いつも5人くらいに企画書を送るのですが、4人には断られますね。来てくれる場合も、事前に握手やサインは駄目と言われたりするのですが、当日になると、いいよ、と快くやってくれる。そういう不思議な魅力をこの小屋は持っているんです。目に見えない空気というか、変わってはいけないもの、なくしちゃいけないものがあるんだと思いますね」と冨田さんは言う。

 今年2025(令和7)年の第29回カシオペア映画祭のゲストは、日本初のアクション女優として知られる志穂美悦子だった。現在は俳優業を引退し、フラワーアーティストを生業としているほか、鬼無里(きなさ)まり名義でシャンソン歌手としても活動している。冨田さんによると2年越しの企画だそうで、本人と事前に検討を重ね、「女必殺五段拳」(1976年、小沢茂弘監督)、「宇宙からのメッセージ」(1978年、深作欣二監督)、「二代目はクリスチャン」(1985年、井筒和幸監督)の3本が上映される。本業は福祉職員で、映画祭の実行委員長は完全に趣味という冨田さんは「やっぱりお客さんとゲストの方が喜んで帰っていく顔を見ると、頑張らなきゃな、と思います。やりがいはありますよ」と満足そうな笑顔を見せた。

☆可動式座席を取っ払えば打ち上げの懇親会場に

 午前9時15分、ゲストの志穂美が到着する。萬代舘の外壁も、中のロビーも、壁という壁に自分の出演映画のポスターが貼り出されているのを見て、「うわ、すごい! 私が関わった映画、全てじゃん。うれしい!」と歓声を上げる。実行委員会とも懇意にしている岩手県在住の映画ファンが所持しているもので、10万枚もの映画ポスターを集めている人物だという。毎回、ゲストの出演作品を貸し出してくれるそうだが、貴重なコレクションを気前よく掲示するとは、いや、ここにもすごくいい人がいた。

 開場時間の午前10時半前には、すでに50人以上が劇場前に列を作っていた。私も最後列に並ぶが、あっという間に後ろにも列ができる。ネットで予約していた前売り券を、3000円を払って購入する。これで映画3本とゲストのトークショー、それに鬼無里まり、こと志穂美のシャンソンステージまで楽しめるのだから、お得感は抜群だ。

 後ろから3列目右端の固定席に腰を下ろす。恐らく山火家が経営していた時代から変わらない低い背もたれの古めかしいシートだが、この重厚感が懐かしさを呼び起こす。この日は1本目の「女必殺五段拳」だけが35ミリフィルムでの上映で、県北沿岸部の洋野町で木造の映画館、善映館を運営する北村映画社が出張映写を行う。

 午前11時、ブザーが鳴って場内が暗転すると、いきなり東映の三角マークが映し出され、いささかくたびれた色合いの映像が流れる。上映中にちらちら映写機の前を横切る黒い人影が映り込むのも、往時の映画館の空気感をよみがえらせる。若さあふれる志穂美悦子のキレキレのアクションも相まって、得も言われぬ幸せなひとときを味わった。

 本当は続けざまに見たいところだが、取材もおろそかにはできない。館内の出張売店で買った塩パンをかじりつつ、関係者に話を聞いていると、あっという間に3本目の上映も終了。午後5時半過ぎ、冨田さんが壇上に姿を見せ、満席の観客に向かってトークショーの前説を繰り出す。遠くから来ている人はいますか、との問いかけに「神奈川」「石川」「広島」などと声が上がる。来年も来る人、の質問に大勢の手が挙がるのを冨田さんが満足そうに眺めるのに続いて、いよいよ志穂美が登場。3本とも皆さんと一緒に客席で見ていました、との告白に、会場から温かい拍手が湧き起こる。

 たっぷり1時間のトークにシャンソンのライブと、時刻は夜の7時を回っていた。でもこれでお開き、とはならないのがお祭りの魔力だ。ここからはスタッフや関係者にゲストを交えての懇親会の時間となる。一観客として映画祭に参加していた宮澤さんに誘われて、3000円なりを払って潜り込む。会場は萬代舘の劇場内で、前方の可動席を取っ払えば宴会場に早変わり。なるほど、映画館の新たな可能性を示唆してくれる。

 懇親会の冒頭、萬代舘利活用事業実行委員会会長の浪岡さんがマイクを握り、ゲスト、スタッフへの感謝の言葉を口にする。超満員だったことがとてもうれしいと見えて、満面の笑みで語る。「お客さんから力をもらって、今日の萬代舘があります。皆さんの笑顔を見ていると、本当に素晴らしいなと思う。山火さんもきっと喜んでいるに違いありません」と。

☆サバ缶で出汁を取った「ひっつみ汁」

 ここでちょっと山火徳次郎に触れたい。昔のことははっきりしないことが多いが、浪岡さんや宮澤さんらが調べてくれたところによると、萬代舘の創業は1909(明治42)年のこと。徳次郎の父、山火廣治が蔵を改造して人形芝居を上演したのが始まりだった。萬代舘の劇場名は目の前の馬淵川に架かる万代橋から名づけられた。1階は畳敷きの升席で、2階の桟敷席は頭が天井に当たるくらい低かったという。冬には貸し火鉢や貸し座布団などで暖を取っていた。

 やがて1914(大正3)年に一戸に電灯がともると、盛岡から弁士を呼んで活動写真、つまり映画が上映されるようになる。数人の楽団で無声映画に付ける音楽も演奏されていて、大正年間は手回しの映写機で4本立ての上映だった。戦前は映画だけでなく、浪曲や民謡の公演、さらには芝居と映画を組み合わせた連鎖劇なども披露されていたようだ。

 息子の徳次郎は旧制中学を卒業後、東京の鋳物工場に就職。1939(昭和14)年に光子と結婚し、戦時中は軍需工場で働いていた。だが1943(昭和18)年に父が亡くなり、自身も体調を崩したことから翌年に帰郷。廣治の死後、女手一つで萬代舘を守っていた姉から経営を引き継ぐ。その後、終戦を迎えると娯楽に飢えていた庶民が映画館に詰めかけ、萬代舘も連日の大入り満員となる。盛岡から映写技師を呼んでいたが、徳次郎だけでなく妻の光子も1950(昭和25)年には資格を取得。岩手県初の女性映写技師になった。

 1956(昭和31)年には現在の建物に改築され、映画の常設館になるものの、テレビの普及とともに映画はまたたく間に斜陽化する。宮澤さんの思い出にあるように、平日はピンク映画をかけるようになり、さらに後年は夏休みや冬休みの間、子ども向けのアニメ映画を上映するだけになっていた。徳次郎が87歳でこの世を去ったのは、2001(平成13)年11月のこと。そして2008(平成20)年、跡を継いだ光子から一戸町に寄贈された。家族は今、誰も一戸に住んでいない。

 幼少期から萬代舘を遊び場としていた宮澤さんは、徳次郎について「温和な方だったけれど、映写室などフィルムがあるところには入ってはいけないと厳しく言われた」と回想する。隣の二戸市では早い段階で映画館が1館もなくなってしまったが、萬代舘を最後まで維持し続けていたことは「恐らく先代から引き継いだものは自分の代で終わらせたくないという気持ちだったのでは」と推し量る。「何しろ萬代舘ですからね。萬代、つまり限りなく続くように、との思いがどこかにあったと思います」

 同じことは浪岡さんも指摘する。「萬代舘という名前である以上、自分の世代で終わらせるわけにはいかないという使命感でしょう。息子さんたちは関東に行ってしまったが、孫でも来てやってくれればな、といつも言っていましたからね」

 1955年の生まれで、萬代舘が全盛期だったころに子ども時代を過ごした浪岡さんは大人への憧れが強く、子ども向けのアニメよりも大人の映画が見たかった。「愛と死をみつめて」(1964年、斎藤武市監督)を、大人に紛れて萬代舘に入り込んでただで盗み見たことは、強く記憶に残っている。

 その時分からの付き合いの浪岡さんは、徳次郎は消防団や町議会議員を務めるなど多方面にわたって町に奉仕した人物だったと述懐する。「生涯現役で、本当に具合が悪くなってもう駄目だとなるまで、映画館を頑張ってやっていた。無声映画鑑賞会のころもいつも元気で、街で会うと、よっ、と声をかけてくれる方でしたね」と懐かしがる。

 立食形式の懇親会で振る舞われていた浪岡さんお勧めのひっつみ汁をいただく。この地方の郷土料理で、ネギ、ニンジン、ゴボウ、ダイコンなどの野菜が入った醤油味の汁に、小麦粉を手でひっつまんで放り込んだ野趣あふれるものだ。ひっつまむから「ひっつみ」汁。「出汁の取り方はいろいろありますが、今日のはサバ缶ですね」と浪岡さんが説明する。サバ缶の臭みは全く感じず、ものすごくコクがある。小雨模様の冷え切った空腹の身に、熱々のお椀が染み入る。

 この夜もまた、宮澤さんに二戸まで送ってもらった。重ね重ね、ありがとうございます。

☆5円玉2枚を「10円に両替してくれや」

 3日目の祝日は、萬代舘から歩いて5分ほどのところにある一守(いちもり)書店を訪ねる。宮澤さんの同級生の一守大潤(まさひろ)さんが経営している書店兼文具店で、宮澤さんの紹介で前日にも萬代舘で挨拶している。そう、初日に宮澤さんが萬代舘の鍵を取りに行ったところだ。

 萬代舘利活用事業実行委員会のメンバーでもある一守さんは、一戸の町のことについて聞くなら一番の適任者、と皆が異口同音に口にする人物だ。仕込みや店番で忙しい合間を縫って取材に応じてくれたが、その間にもさまざまな人がやってきて、一守さんに気さくに声をかける。この日も朝から、近くで開かれるハロウィンフェスに行こうかどうか悩んでいるという小学生が「何か手伝えることはないかと思って」と一声。「それはあるんじゃないの。みんないると思うよ」と一守さんが返す。

 かと思えば、ISBN(国際標準図書番号)だけで本を取り寄せてほしいと注文する人や、極め付きは5円玉2枚を10円玉に両替してくれというおじいさんなど、本当に町の何でも屋の風情だ。市街地には宿屋も居酒屋もなく、すし屋も1軒しかないこの地域の住民にとって貴重な交流の場にもなっている。懇意にしている東京大学大学院特任准教授のヒロ・ヒライさんには「1杯いくらでコーヒーを提供して、売り上げの足しにすればいい」などと言われるほどだが、一守さん自身、「町の文化の核という意識はある」と認める。

 そもそも一戸とはどういう町だったのか。まず誰もが気になるのが、この地域には一から九まで、四を除いて「戸(のへ)」が付く町が集中していることだ。これには諸説あるらしいが、一守書店で購入した「のへの」によると、平安末期からこの一帯は馬産地で、貢馬(くめ)のために産地ごとに数字を振った名残だという。その後も馬とのつながりは深く、戦国武将もこの地域から馬を入手していたらしい。「のへの」は一守さんの友人で八戸在住の髙坂真さんが1人で企画、編集している本で、第3号まで出版している。

「もっと詳しい話はこの人に聞くといい」と一守さんが教えてくれたのが、近くの造り酒屋を改装して私設ミュージアムにしている南舘範和さんだ。事前の連絡もなく次々と人の輪が広がっていくのは、わらしべ長者みたいでわくわくする。「いるかどうか分からないけど」との一守さんの声を背に、1907(明治40)年に建てられたという南舘さんの自宅に向かう。果たして、ちょっと暇していたような南舘さんが快く応対してくれた。本当にこの地域の人たちは人がいい。

☆国鉄の機関区が去った後に残ったものは

 南舘さんによるとこうだ。もともと一戸は奥州街道の宿場町で、古くから交通の要衝だった。そんな中、大きな転換点となったのが1891(明治24)年の鉄道敷設だった。鉄路が盛岡から青森まで延びたが、一戸近くの十三本木峠は東北本線随一の難所と言われ、蒸気機関車を連結し、重連、三重連にしないと坂を上れなかった。そのために一戸駅近くに機関区が作られ、特に戦後、鉄道が物資輸送の主力だった時代には一戸の町は大勢の鉄道員であふれ返ったという。南舘さんの実家以外にも町内には造り酒屋が何軒か存在し、飲食店が軒を連ねた。馬淵川沿いには花街もでき、袋町と呼ばれたその歓楽街の起点に建っていたのが萬代舘だった。

 南舘さんは父親が造り酒屋の三男坊で、早くから一戸を離れており、南舘さんも神奈川県で生まれ育っている。酒蔵は廃業後、そのまま荒れ放題だったが、2020(令和2)年、定年退職を機にいとこの了解を得て、所蔵品などを整理。私設ミュージアムとして希望者は見学できるようになっている。「忍ぶ川」で知られる八戸出身の作家、三浦哲郎は一戸ともゆかりが深く、袋町に住んでいた姉が南舘さんの造り酒屋の2階で教えていた琴など、貴重な品々が展示されている。

「私はここに造り酒屋があったということをみんなに覚えていてほしかった。この家に呼ばれたんだと思っています」と常居(じょうい)と呼ばれる吹き抜けの居間を見やりながら南舘さんはつぶやく。

 鉄道で栄えた一戸の町も、やがて急速に衰退する。1968(昭和43)年の東北本線複線電化で機関区が必要なくなり、3万人ほどが暮らしていたとされる国鉄関係者も雲散霧消。元の人口1万2000人の小さな町に戻った。古い建物は放置された。

 萬代舘を町が譲り受けて、多目的に使えるように整備、管理していることを評価する声は多いが、よそ者を自認する南舘さんは「今の時代にこそ生みつつあるさまざまな可能性に気付いていないのではないか」と苦言を呈する。

 実際、町が主体的に関わっているイベントは、カシオペア映画祭のほか、ジャズライブと寄席を年に1回ほど開いている程度で、後は住民の自主性に委ねている。国の登録有形文化財になっているにもかかわらず、普段は鍵が閉まっていて中を見学することができない。一守書店に取材で訪れていたときも、町役場の休日対応窓口から、前日のカシオペア映画祭で傘を忘れたという人が連絡してきた、との電話が一守さんにかかってきた。

「何かあるとうちにかかってくる」と苦笑する一守さんは、見に来た人に対しては可能な限り鍵を開けて対応するようにしているが、本業の書店の仕事も忙しく、全ての要求に応じることはできない。「せっかく来てくれたのに、がっかりしてほしくないですからね」

 転職したばかりの宮澤さんは、もし求職活動中に萬代舘に1日詰めているという仕事があったら、一も二もなく応募していたと真顔で語る。先週の「幕末太陽傳」上映の準備をしていたときも、萬代舘を見るためにわざわざ埼玉県の大宮から来たという人がいた。「早めに開けていてよかった」と笑みを浮かべる宮澤さんは宣言する。「今の職場を定年まで勤め上げたら、すぐにここに来ます、と言いたいですね」

※2026年3月刊行「百年映画館」(草思社)から抜粋