第147夜「ベルファスト」ケネス・ブラナー監督
笑顔があふれるいとおしい街が、ある日突然、戦場になる。まさに今、ウクライナで起こっていることだが、ケネス・ブラナー監督の自伝的作品「ベルファスト」で描かれているのも、穏やかな日常が壊れていく恐怖と、それでも生きている限り人生は続いていくという真実だ。
全編ほぼモノクロでつづられる「ベルファスト」の主人公は、北アイルランドのベルファストに住む9歳の男の子、バディ(ジュード・ヒル)。映画と漫画が大好きで、自宅前の路地で中世の騎士ごっこに興じたり、近くに住む祖父母(キアラン・ハインズ、ジュディ・デンチ)の家でおしゃべりに夢中になったり、と無邪気な毎日を過ごしていた。
ところが1969年8月15日、この街に突如としてプロテスタントの武装集団が押し寄せてきて、カトリックの住民に攻撃を加える。宗教対立から血で血を洗う争いに発展したいわゆる北アイルランド紛争で、住民たちは自衛のためにバリケートを築き、平和だった街の空気は一気に緊張感に包まれる。
バディの家はプロテスタントで、この日まではどちらの信徒もみんな仲良くご近所づきあいをしていた。バディはクラスで一番の成績の女の子のことが気がかりで、彼女の席の隣になることが目下の最大の目標だったが、彼女もカトリックの家柄だ。
だがこの日以来、住民の間もぎくしゃくしてきて、仲のいいいとこはカトリックのお店から万引きをするようバディをそそのかすし、過激なプロテスタントの住人はバディの父(ジェイミー・ドーナン)に決起を促す。徐々に対立の雰囲気が醸成されていくのが、9歳のバディの視点からもはっきりと浮き立ってくる。
さらにバディの家庭内でも不協和音が生じてくる。しょっちゅうロンドンに出稼ぎに行っている父は、子どもたちを危険な目にさらすわけにはいかないとロンドンへの移住を主張するが、母(カトリーナ・バルフ)は生まれ故郷のベルファストから離れたくないと譲らない。紛争がますます激化していく中、さあ家族の決断は……、というのが映画の一つの柱だ。
一方で、この映画はブラナー監督自身の姿を投影したバディの目線で描かれていて、その世界は決して戦争一色に染まっているわけではない。家族で映画やお芝居を見にいったり、学校の成績に一喜一憂したり、祖父母の家でだらだらと時間をつぶしたり、といった相変わらずの日常も存在する。映画館で上映されているのは、恐らくブラナー監督が鮮明に記憶にとどめている作品なのだろう。ラクエル・ウェルチ主演の「恐竜100万年」(ドン・チャフィ監督)やミュージカルコメディー「チキ・チキ・バン・バン」(ケン・ヒューズ監督)などが、画面だけは鮮やかなカラーで流れる。街には戦争の暗い影が忍び寄っていても、スクリーン上ではカラフルな夢の世界が広がっている。人々に癒やしと潤いを与える映画の原点にも触れるような描写で、ブラナー監督の映画愛がぐっと胸に迫ってきた。
実を言うとはばかりながら、当方も戦場をほんのちょっとだけ経験したことがある。
1989年12月にフィリピンで軍部のクーデターが企てられ、反乱軍が一時、マニラ市内の中心部や空港を占拠する出来事があった。当時は産経新聞の社会部に所属していたが、空港が解放されたと同時にマニラに飛び、まだ反乱軍が占拠して正規軍とどんぱちを繰り広げている現場を取材するよう命じられた。わずか5日で制圧されたものの、それでも目の前で機関銃の銃弾が降り注がれるわ、バズーカ砲みたいな弾丸が撃ち込まれて住民が命を落とすわ、結構生々しい場面を目撃している。ふと迷い込んだ路地で振り返ると反乱軍の陣地から丸見えで、キューンという乾いた音の後に頭上の植え込みがバサッと揺れたときは、さすがに生きた心地がしなかった。
ただ最初は恐怖に震え上がっていたものの、2~3日もすると感覚が麻痺してきて、銃を構えている兵士を見ても何とも感じなくなっていた。戦場から外れた地域は普段の活気ある日常のままで、タクシーに乗ったら運転手が片言の日本語で「オンナ、イルヨ」と繰り返し、無理やりその手の場所に連れていかれそうになったこともある。
「ベルファスト」のバディが幼い日々に感じた記憶も、そんな恐怖と日常が入り交じったものであり、連日、悲惨な状況が伝わってくる今のウクライナでも、戦火の下では生き抜くための日常が営まれているに違いない。映画では、ベルファストに残るにしろ、離れるにしろ、どちらを選択しても大変な苦労が待っているだろうことが予感される。それも今のウクライナ国民が置かれている状況そのもので、戦争の罪悪を否が応でも思わざるを得ない。(藤井克郎)
2022年3月25日(金)、TOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイントなど全国で公開。
©2021 Focus Features, LLC.
ケネス・ブラナー監督のイギリス映画「ベルファスト」から。無邪気に遊び回るバディ少年が住む街にある日…… ©2021 Focus Features, LLC.
ケネス・ブラナー監督のイギリス映画「ベルファスト」から。家族で映画を見にいく楽しみは続いていた ©2021 Focus Features, LLC.