第238夜「落下の解剖学」ジュスティーヌ・トリエ監督

 カンヌ国際映画祭で最高栄誉のパルムドールに選ばれる作品というのは、まさに時代の最前線をゆく映画と言っていいだろう。ここ最近を見ても、2022年の「逆転のトライアングル」(リューベン・オストルンド監督)、2021年の「TITANE/チタン」(ジュリア・デュクルノー監督)、2019年の「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)と、社会性、時代性をきっちり押さえつつ、脳内が砕け散るような、はたまたどろどろに溶けるような、とにかく映像も物語も斬新という言葉以外思いつかないくらいの衝撃作が受賞している。

 それ以前にも、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000年、ラース・フォン・トリアー監督)、「桜桃の味」(1997年、アッバス・キアロスタミ監督)、「パルプ・フィクション」(1994年、クエンティン・タランティーノ監督)、「パリ、テキサス」(1984年、ヴィム・ヴェンダース監督)といったエポックメイキングな傑作が頂点を極めてきたが、最も新しい昨2023年のパルムドール作品がフランス映画の「落下の解剖学」だ。何しろ審査員に「逆転のトライアングル」のオストルンド監督と「TITANE/チタン」のデュクルノー監督が名を連ねていたこともあって、どんなぶっ飛んだ刺激作を選出したのかと思っていたら、これが意外にも万人受けしそうな娯楽映画で、スリリングなミステリー仕立ての中に心理描写を盛り込んだ極上の裁判劇に仕上がっていた。

 映画は冒頭、雪山の山荘でサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)が学生のインタビューを受けている場面から始まる。どうやらサンドラは著名な小説家で、かなりずけずけと質問を投げかけてくる学生に対して、ちょっといらいらしている印象だ。と突然、大音量でラテンの音楽が鳴り響く。屋根裏部屋にいる夫のサミュエル(サミュエル・タイス)がステレオを鳴らしているらしく、この異常な妨害行為からは夫婦の関係が決して円満ではないことがうかがえる。

 学生が帰った後、夫婦の一粒種、11歳のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)が飼い犬のスヌープを連れて散歩に出かける。父親はまだ音楽をかけながら、屋根裏部屋でリフォーム作業中だった。やがて散歩から帰ってきたダニエルは、家の前で何か異変が起きていることに気づく。大声を張り上げて母親を呼ぶダニエル。実はダニエルは交通事故が原因で視力に障害があったが、雪の上に父親が息をしないで横たわっていることは理解できた。果たしてダニエルが散歩中、山荘の自宅で何が起こったのか。

 この謎解きのミステリーと家族内の人間模様が絶妙に絡み合って、一級の推理劇へといざなっていくのだが、これが長編4作目というジュスティーヌ・トリエ監督の巧みな語り口は、決して夫婦間のいきさつを安易な回想シーンなどで振り返ったりはしない。あくまでも夫殺しの嫌疑をかけられて被疑者となったサンドラの公判を通じて、家族関係を解き明かしていく。サミュエルの死は他殺か自殺か、はたまた事故なのか。映画の観客も、裁判の傍聴人と同じだけの材料から推理をしていくことになる。

 ここで娯楽性に加えて作品に深みをもたらしているのが、サンドラはドイツ人で、フランス人の夫と最近フランスの山あいの山荘に引っ越してきて、夫婦間では英語でコミュニケーションを取っているという点だ。裁判は当然フランス語で、サンドラもフランス語で証言しようとするが、なかなかうまく意思が伝わらずストレスがたまっていく。英語の通訳を介してもらうようにするものの、そもそも英語も母語ではない。言葉が象徴するミスコミュニケーションが一般社会でも家庭内でも顕著になっていて、それが積もり積もると修復不可能な状況になる。そんな情報過多の今の時代の課題でもある深遠なテーマが、映画の裏側に見え隠れする。

 ミスコミュニケーションという点では、一人息子のダニエルが視覚障害でよく見えないというのも示唆に富んでいる。映画の観客も含め、人は全てを見ているようで本当のところは何も見ていないのではないか。夫婦間で何があったかは他人にはわからないし、もしかしたら当人にもよくわかっていない。もちろんダニエルも両親について知らないことは多く、何があったかは推量するしかないのだが、心の目で冷静に判断すれば真実は自ずと浮かび上がってくる。そんな人間心理の深層をトリエ監督はえぐり出したかったのかもしれない。

 ダニエル少年の青い瞳からは、目の前のものが映っていないように見えて、でも必死に何かを探り出そうとしているという思いが伝わってくる。演じたミロ・マシャド・グラネールはもちろん、よくぞカメラが奇跡の表情を捉えたものだと感心する。主演のザンドラ・ヒュラーも自身がドイツ人で、母語ではないフランス語と英語を駆使して、裁判でも家庭でも長ぜりふでの丁々発止のやりとりをこなす。長回しのワンショット撮影はクロースアップの連続だが、自然な生々しさを巧みに表現していて、実に見応えがある。決して激辛テイストではないけれど、確かにパルムドールにふさわしい深い味わいがあるのは間違いない。(藤井克郎)

 2024年2月23日(金)から、東京・TOHOシネマズ シャンテなど全国で順次公開。

©2023 L.F.P. – Les Films Pelleas / Les Films de Pierre / France 2 Cinema / Auvergne-Rhone-Alpes Cinema

ジュスティーヌ・トリエ監督のフランス映画「落下の解剖学」から。自宅前の雪道で倒れていた夫の身に何が起きたのか ©2023 L.F.P. – Les Films Pelleas / Les Films de Pierre / France 2 Cinema / Auvergne-Rhone-Alpes Cinema

ジュスティーヌ・トリエ監督のフランス映画「落下の解剖学」から。視覚に障害のある息子のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)は証言台で…… ©2023 L.F.P. – Les Films Pelleas / Les Films de Pierre / France 2 Cinema / Auvergne-Rhone-Alpes Cinema