第213夜「さらば、わが愛/覇王別姫 4K」チェン・カイコー監督
このところ、2Kや4Kといった高精細デジタル技術で修復された名画の上映機会がどんどん増えている。誠にありがたいことだし、できれば片っ端から見にいきたいところだが、残念ながらなかなか追いつかない。6月のバフティヤル・フドイナザーロフ特集はやっと1本見ただけだったし、ジョン・カサヴェテスのリプリーズ(再現)は「アメリカの影」など4本に足を運んだものの、全制覇はかなわなかった。
今後は7月29日(土)からジャック・ロジエ、8月25日(金)からはイ・チャンドンの特集が予定されていて楽しみな限りだけど、公開30周年を記念した「さらば、わが愛/覇王別姫」の4K版も超おすすめだ。1993年の東京国際映画祭での公式上映前に試写で見て以来の鑑賞だったが、物語のスケール感といい、映像のきめ細かさといい、役者のたたずまいといい、極上の目くるめく絵巻物が怒涛のように繰り広げられ、あのときの興奮がまざまざとよみがえってきた。
ストーリーはまさに大河ドラマで、主人公たちの少年時代から京劇役者として人気を集め、やがて凋落していくまでを、近代中国の歴史のうねりとともに描いている。始まりは中華民国が建国されて間もない1920年代の北京。遊女だった母に捨てられた小豆は北京の京劇養成所に入れられ、手ひどいいじめに遭う。そんな彼を弟のようにかばい、助けてくれたのが、やんちゃ坊主の石頭だった。やがて2人は成長し、小豆は女形の蝶衣(レスリー・チャン=張國榮)、石頭は勇壮な役が似合う小樓(チャン・フォンイー=張豊毅)として人気京劇役者となる。中でも西楚の覇王、項羽と愛人の虞姫との悲劇を描いた「覇王別姫」は当たり役だったが、時代は戦争の足音が近づいてきていた。
その後、日本軍の侵攻、中華人民共和国の誕生、そして文化大革命と、2人は歴史の波に翻弄されてゆく。兄と慕う小樓に特別な思いを抱く蝶衣だったが、小樓は娼婦の菊仙(コン・リー=鞏俐)と結婚し、徐々に2人の距離は離れていく。激しい社会の変化と複雑な人間模様の渦の中に京劇の「覇王別姫」の舞台が巧みに盛り込まれていて、何とも贅沢な夢の世界に酔いしれた。
特に見事なのは映像の凝り方で、冒頭、全くのモノクロームから始まって、徐々にかすかな彩色が施され、やがて京劇の場面では極彩色の華やかなステージが花開く。群衆シーンのエキストラの数も相当なもので、文化大革命時代、糾弾に詰めかけた大衆の威圧感などはとてつもない迫力だ。まだVFX(視覚効果)など用いられていなかった時代で、チェン・カイコー(陳凱歌)監督ら作り手の本気度が見て取れる。
今でこそ中国でも最新技術を駆使した大スペクタクル映画が何本も作られているが、1993年当時の中国映画と言えば、チャン・イーモウ(張藝謀)監督の「紅いコーリャン」(1987年)や「秋菊の物語」(1992年)が高い評価を受けていたくらいで、どちらかと言えば素朴な芸術性が売りだった。チェン・カイコー監督作も「黄色い大地」(1984年)や「人生は琴の弦のように」(1991年)など、映像の美しさには目を見張ったものの、どちらかと言えば渋い単館系という印象が強かった。
そんなところに、この華麗なる歴史大作である。この作品、チェン監督は北京の生まれだが、原作は香港の女性作家、リー・ピクワー(李碧華)の小説で、台湾の女優、シュー・フォン(徐楓)らがプロデューサーを務めている中国、香港、台湾の合作映画なのだ。当時、まだイギリス領だった香港が資金を提供し、企画は台湾、スタッフはほぼ中国と、まさに中華圏映画人の総力を結集して臨んだ結果、1993年の第46回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝くなど、大いにその底力を見せつけた。
そうしてその年の秋、第6回東京国際映画祭の特別招待作品として日本でお披露目される。数ある上映作の中で真っ先にチケットが完売したのが、この作品だった。
このとき、ヤングシネマコンペティション部門の審査員として蝶衣役のレスリー・チャンが来日し、幸運にもインタビュー取材をする機会に恵まれた。
香港生まれのレスリーは、すでに「男たちの挽歌」(1986年、ジョン・ウー監督)や「欲望の翼」(1990年、ウォン・カーウァイ監督)などでスターの地位を築いていたが、中国での撮影はまた新鮮な経験だったと語っていた。曰く「撮影に入るまで2カ月間、朝は7時半に起こされて、京劇のレッスンに5時間、夕方は北京語の練習という毎日でした。ファストフードのような香港の映画づくりと比べて、まるでフルコースの中華料理を食べさせてもらうような感じでしたね」と。
チェン監督に娯楽性を加味することを提案するなど、作品づくりにも積極的に関わっていたレスリーだが、4年後に迫った香港の中国返還を見越して、すでにカナダのバンクーバーに移住していると打ち明けていた。「中国では言論統制などがあって、全く自由に映画が作れるまで先は長いのではないか」と話していたが、30年後の現実は逆に香港で締めつけが厳しくなっているのが実情だ。
レスリーは10年後の2003年に命を絶ち、中国映画もこの作品のように世界をあっと言わせるような大作にはとんとお目にかかっていない。政治の世界では、中国と台湾との間の緊張が日に日に高まっている。そういう意味でも、中華圏の才能ががっちりと手を組んで、中国の負の歴史までをも人間ドラマの中にきっちり落とし込んだ「さらば、わが愛/覇王別姫」が今日、4Kで公開される意義は大きい。(藤井克郎)
2023年7月28日(金)から、角川シネマ有楽町、109シネマズプレミアム新宿、グランドシネマサンシャイン池袋など全国で順次公開。
©1993 Tomson(Hong Kong)Films Co.,Ltd.
チェン・カイコー監督の中国、香港、台湾合作「さらば、わが愛/覇王別姫 4K」から。兄弟のように育った小樓(左、チャン・フォンイー)と蝶衣(レスリー・チャン)は…… ©1993 Tomson(Hong Kong)Films Co.,Ltd.
チェン・カイコー監督の中国、香港、台湾合作「さらば、わが愛/覇王別姫 4K」から。蝶衣を演じたレスリー・チャンの魅力が炸裂する ©1993 Tomson(Hong Kong)Films Co.,Ltd.