第204夜「TAR/ター」トッド・フィールド監督
学生時代、大学のオーケストラに所属していた。パートは金管楽器のホルンで、勉強そっちのけで部室に入り浸っていたものの、どちらかというと音楽よりも毎晩の飲み会の方に熱心だった。卒業後はほとんど楽器に触っていないが、愛器のアレキサンダーは、ベルリン・フィルの首席ホルン奏者だったゲルト・ザイフェルトが来日したときに東京文化会館の楽屋口でサインしてもらったケースに入ったまま、部屋の片隅で眠っている。
もう40年も前になる当時も今も、ベルリン・フィルと言えば世界最高峰のオーケストラであることに変わりない。「TAR/ター」は、そんな実在する名門管弦楽団の首席指揮者を主人公にした話題の人間ドラマだ。演奏シーンはふんだんに出てくるし、確かに音楽映画には違いないんだけど、芸術性と人間性の相克を、主役を演じたケイト・ブランシェットが狂気をはらんだ存在感で壮絶に表現していて、いやあ、とんでもない映画を見せつけられちゃったな、というのが正直な印象だ。
リディア・ターは、類まれな音楽の才能と自己顕示欲の強さで、音楽界で世界の頂点に上り詰めていた。アメリカ5大オーケストラの指揮者を経て、今やベルリン・フィルの首席指揮者として君臨するほか、ニューヨークの名門音楽大学、ジュリアード音楽院でも講義を持ち、若い指揮者の卵をこてんぱんにやり込める。スケジュール管理など身の回りのことは、副指揮者を目指すアシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)をあごで使い、私生活ではベルリン・フィルのコンサートマスターで同性の恋人、シャロン(ニーナ・ホス)ととともに養女を育てて、と、まさにわが世の春を謳歌していた。
だが、自分の音楽性に団員のレベルが追いつかないいらいらに加え、以前に彼女が指導した将来性のある若い指揮者が自殺を図ったという知らせが入る。完璧だったリディアの人生に、かすかな陰りが忍び寄る。
といういささか荒唐無稽なストーリーに現実味を持たせるには、リディアの天才ぶりが説得力のあるものでなければならない。演じるブランシェットは、これまでも「アビエーター」(2004年、マーティン・スコセッシ監督)、「ブルージャスミン」(2013年、ウディ・アレン監督)、「キャロル」(2015年、トッド・ヘインズ監督)など幅広い役柄で大いに評判を取ってきたが、今回は次元が違うような気がする。オーストラリア出身ながら、アメリカ英語とドイツ語が入り交じったせりふを情感たっぷりに操り、自信に満ちあふれた堂々たるタクトさばきにピアノの腕も超一流と、まあ、よくぞここまで役になり切ったものだと感服する。
と同時に、若手指揮者に対する厳し過ぎる指導に楽団員への激しい罵声、年配の副指揮者の容赦ない切り捨てなど、リディアの行為はパワーハラスメント以外の何物でもない。一方で、気に入った新人チェロ奏者のオルガ(ソフィー・カウアー)には度を越したえこひいきをするし、そんな勝手気ままで唯我独尊の天才を、何の違和感もなく演じ切るなんて、単に役者魂という言葉では言い表せない何か別の力が働いているとしか思えない。ベネチア国際映画祭で女優賞を受賞した後、アカデミー賞では主演女優賞のノミネートで終わったけれど、演技を超えたすさまじいまでの表現力は見ておかないと損だ、って気がするよ。
しかもなり切りぶりは主演俳優だけではないから恐れ入る。楽器の演奏って、特に弦楽器はうまい人と下手な人とでは見た目がまるで違う。弓で弾くバイオリンやチェロなんかは右手のボーイングだけですぐにレベルがわかってしまうし、左手のビブラートなんて一朝一夕で身につくものではない。ましてやこの映画に登場するのは、あのベルリン・フィルだ。世界の超一流奏者が集まっているということを実感させるには、最新の技術をもってしても映像処理でどうにかなるものではない。
でもほとんど違和感がないんだよね。中でもびっくりするのは、若いチェロ奏者のオルガを演じたソフィー・カウアーで、エルガーのチェロ協奏曲という難曲を完璧に演奏しているように見える。それもそのはず、プレス資料によると彼女は実際にチェロ奏者として活動している音楽家だそうで、となると今度は、その演技力に驚くばかり。というのも、オルガはロシア人という設定で、彼女の英語のせりふは微妙にロシア語なまりになっている。役どころとしても極めて複雑で重要な存在だし、そんな難役を、ロシアとは全く関係のないロンドン生まれの、今回が映画初出演というチェロ奏者がこなすなんて、本当によくこんな逸材を発掘したもんだ。
妥協を許さない徹底ぶりからは、これまでに長編は「イン・ザ・ベッドルーム」(2001年)と「リトル・チルドレン」(2006年)の2作しか手がけていないトッド・フィールド監督の今回の作品にかける思いのほどが痛いほど伝わってくる。テーマも音楽性や芸術性の神髄に触れるもので、人間性がどれだけひどくても、優れた芸術性で大勢の人を感動させることができれば、それは評価すべきか否かを鋭く問いかける。主人公を女性にしたのも、男性だと#MeToo運動のような性的優位性と絡めて捉えられる恐れがあるだろうし、純粋に人格と芸術の相関だけを突き詰めたかったからに違いない。
情報過多の現代社会では、SNSなどで何でもかんでもすぐに拡散されてしまい、人格に問題がある人物の表現活動は許されない傾向にある。でもそんな社会は、果たして芸術にとって幸せなのか。極上の音楽に酔いしれながら、フィールド監督の答えの出ないジレンマのため息が、確かに聞こえたような気がした。(藤井克郎)
2023年5月12日(金)、TOHOシネマズ日比谷など全国で公開。
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トッド・フィールド監督のアメリカ映画「TAR/ター」から。天才指揮者のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は得意の絶頂にあったが…… © 2022 FOCUS FEATURES LLC.
トッド・フィールド監督のアメリカ映画「TAR/ター」から。天才指揮者のリディア(手前右、ケイト・ブランシェット)は、若きチェロ奏者のオルガ(手前左、ソフィー・カウアー)の才能にほれ込む © 2022 FOCUS FEATURES LLC.