第109夜「逃げた女」ホン・サンス監督

 だらだらとした会話の積み重ねに人を食ったようなとぼけた音楽、何とも不自然なズームアップと、思い切り個性的な作風で知られる韓国のホン・サンス監督は、目下のところ一番の気になる映画作家だ。そう思っている人は世界中にいっぱいいるみたいで、作品を出すたびに名だたる国際映画祭から声がかかり、あまたの賞に輝いている。しかも非常に多作と来ているから、毎年のように映画祭サーキットをにぎわしているというのはご同慶の至り。

 当方がホン作品に触れるのも映画祭や上映会の場合が多く、そもそも長編第1作の「豚が井戸に落ちた日」(1996年)に出くわしたのが、1996年の第9回東京国際映画祭だった。このときは変わった映画だなあというくらいの印象だったが、続く2作目の「カンウォンドのチカラ」(1998年)で一気にひきつけられた。1999年に渋谷で開かれた「NEO KOREA 韓国新世代映画祭’99」で見たときは「江原道の力」というタイトルだったが、構造の妙味にぞくぞくしたものだ。

 その後、もちろん劇場公開時に出合った作品も多いのだが、「浜辺の女」(2006年)は第19回の、「正しい日 間違えた日」(2015年)は第28回の東京国際映画祭で、「夜の浜辺でひとり」(2017年)は第67回ベルリン国際映画祭で目にしたし、「教授とわたし、そして映画」(2010年)なんかは、2014年の暮れにホン監督を招いて東京芸術大学馬車道校舎で行われた特別講義を取材したときに鑑賞している。このときは、撮影現場では毎朝、その日の撮影分だけ脚本を書くといった秘話を次々と披露してくれて、大いに楽しませてもらった。とにかくイベントであろうが旅先であろうが、ホン・サンスという名前があれば、何でもかんでも首を突っ込みたいというのが正直なところなのだ。

 この「逃げた女」に遭遇したのも映画祭だった。2020年の第21回東京フィルメックスの特別招待作品にその名を見つけ、これは何としても見にいかねばとTOHOシネマズシャンテに駆け付けた。ちなみにこの作品は、2020年の第70回ベルリン国際映画祭で監督賞に当たる銀熊賞を受賞している。

 主人公、と言っていいのかどうか、とにかく通しで登場するのがガミという女性だ。ホン監督とは公私にわたるパートナーで、「夜の浜辺でひとり」ではベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞しているキム・ミニが演じている。

 彼女が3人の女性と会って、それぞれの話に耳を傾けるというのが大まかな筋立てで、それで映画が成立するのだから、やはりホン・サンスだなと感心するしかない。まず1人目の郊外に住む先輩を訪ねたガミは「いい景色ですね」と褒めるものの、その夜はなかなか寝付けない。何しろ彼女は結婚して5年、今まで一度も夫と離れたことがないのだ。

 次の女性も先輩で、芸術家が多く住む地区に暮らしている。ここでもガミは「結婚して5年、夫と離れるのは今回が初めて」と打ち明けて先輩にあきれられるが、そんな先輩はストーカーまがいの詩人に言い寄られる。

 そして3人目。映画館に立ち寄ったガミは、ここで働くかつての友人に声をかけられる。どうやらガミとの間で恋のさや当てがあったようで、ひたすら謝り続ける彼女に対してガミは言う。「夫とは結婚して5年、一度も離れたことがないのよ」

 うーん、ここまで書いてきて、果たしてどれだけの人がこの映画を見たいと思うだろうかと不安に駆られた。でもストーリーだけでは語れない、ホン監督ならではの独特の映画的時間が流れていて、そこに身を置くことは決して居心地の悪いものではない。あ、またやってるよ、とほくそ笑む部分もあれば、へえ、こんなこともやるんだ、と新たな発見に驚くところもあったりする。これぞ、ホン作品を見続けてきた人間だからこその特権かもしれないが、さて初めて接する人はどうなんだろうね。この不思議な感覚を追求したくて過去作にさかのぼる人もいるだろうし、もうわけわからん、とさじを投げてしまう人だってきっといるに違いない。

 ついでに言えば、ホン監督の次回作も今年の第71回ベルリン国際映画祭に出品され、脚本賞に当たる銀熊賞を受賞している。やっぱり世界がお墨付きを与えている映画人であることには間違いないようだ。(藤井克郎)

 2021年6月11日(金)から、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテなど全国で順次公開。

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ホン・サンス監督の韓国映画「逃げた女」から。映画館に立ち寄ったガミ(キム・ミニ)は…… ©️2019 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

ホン・サンス監督の韓国映画「逃げた女」から。先輩の家を訪ねたガミ(左、キム・ミニ)は…… ©️2019 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.