第332夜「ハムネット」クロエ・ジャオ監督
中国出身のクロエ・ジャオ監督の作品はこれまで、アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞の3冠に輝いた「ノマドランド」(2020年)しか見たことがなかった。しかも大きなスクリーンではなく、自宅のテレビモニターでのオンライン試写だったから、大自然の中で自由に生きる人々の営みを描いたこの作品の魅力をどれだけ体感できたのかは心もとない。
昨2025年には東京国際映画祭が選出する黒澤明賞を受賞。授賞式のために来日し、映画祭のクロージング作品として新作の「ハムネット」が上映されたが、残念ながら鑑賞する機会には恵まれなかった。ただジャオ監督と「ふつうの子ども」(2025年)などの呉美保監督による「HER GAZE(彼女のまなざし)」と題したトークイベントに参加して、ジャオ監督の映画づくりへの思い、映画への向き合い方の一端に触れることができた。
ジャオ監督のトークの中で特に印象に残った言葉にワンネス(oneness)がある。一体感とか唯一性とかいった意味で、ジャオ監督はここ最近、このワンネスを映画で描こうとしていると打ち明けていた。「私たちはみんな同じところから来ていて、樹木や雨だれの粒子などと同じものからできている。多くの人は、自分と他者とは違うという幻想の中で生きているが、それを打ち砕く可能性を映画で探っています」と語っていたものだ。
ジャオ監督によると、大自然の中に身を置くとワンネスを体感することができ、それは自然には生と死、創造と破壊が共存しているからだという。現代社会では忘れがちなことでもあり、「だから近年の作品では自然をモチーフにしている」と強調していた。
そんな思いで作られた「ハムネット」を、半年遅れてようやく試写会で目にすることができた。で思ったのは、うーん、確かに自然が宿す神秘の表現には圧倒されたけれど、ワンネスを実感するには2回、3回と視聴を重ね、もうちょっとこちらの感性を磨く必要があるかもしれないな、ということだった。
原作は北アイルランド出身の作家、マギー・オファーレルが2020年に発表した同名小説で、オファーレルはジャオ監督と共同で脚本も手がけている。舞台は16世紀末のイギリス。小さな田舎村に暮らすアグネス(ジェシー・バックリー)は、森の中を散策しては薬草を摘み、未来について語るという、ちょっと浮世離れした不思議な力を持つ女性だった。
ある日、鷹を自由に操るアグネスの姿を目にした教師のウィル(ポール・メスカル)は彼女に興味を抱き、同じ自然を志向する者同士で意気投合。両家の反対を押し切って結婚する。やがて長女のスザンナに続き、長男ハムネットと次女ジュディスという双子が誕生するが、ウィルがロンドンに出稼ぎに行って留守の間にハムネットとジュディスに悲劇が襲う。
この悲劇の描き方がかなり震える。子どもへの愛情はたっぷりとありながら、どこかふわふわとして不安定さをたたえたアグネスには不安の影がつきまとう。しかも頼りにしたい夫は不在だ。そんな中、幼い双子が示す行動がけなげで思いやりに満ちていて、子役の名演技も相まってぐっと胸に迫ってきた。
この悲劇をきっかけに夫婦間の溝が深くなっていく。といった展開は何とも現代的で、それまでの大自然に裏打ちされた幻想的な神秘の世界には似つかわしくないかも、などと思っていると、それまでの全てを凌駕する安らぎに満ちた結末を迎える。シェイクスピアの「ハムレット」の上演に絡めたこの盛り上がりは、決して派手さはないものの見事な昇華の仕方で、すっかりジャオ監督の術中にはまっていたことに気づいた。さすがは黒澤明賞に選ばれただけのことはある、とセンスあふれる作劇の手腕に改めて見ほれた次第だ。
「ハムレット」の名せりふや長男、ハムネットに関する秘話など、シェイクスピアについて知っていようとなかろうと十分に楽しめるように仕掛けが施されているし、何よりもエキセントリックで情熱的な家庭人という複雑な役どころのアグネスを多彩に演じ切ったジェシー・バックリーがすさまじい。アカデミー賞で主演女優賞に輝いたのもうなずける変幻自在ぶりで、ワンネスかどうかはともかく、スクリーンの向こう側の世界と一体感を味わったことは間違いない。(藤井克郎)
2026年4月10日(金)、全国公開。
©2025 FOCUS FEATURES LLC.

クロエ・ジャオ監督のイギリス映画「ハムネット」から。悲劇に見舞われたアグネス(中央、ジェシー・バックリー)は…… ©2025 FOCUS FEATURES LLC.

クロエ・ジャオ監督のイギリス映画「ハムネット」から。アグネス(奥中央、ジェシー・バックリー)とウィル(左、ポール・メスカル)は幸せな家庭を築いたかに見えたが…… ©2025 FOCUS FEATURES LLC.

