芸術がなければこの世は終わり
初長編の題材に選んだのは、自らの出自と体験を反映させた社会派のテーマだった。フランスのヨアン・マンカ監督(32)の「母へ捧げる僕たちのアリア」は、3人の兄とともに母の介護と家事に追われる14歳の少年が、オペラと出合ってちょっとだけ成長するひと夏の物語だ。リモートでの取材に応じたマンカ監督は「芸術がなければこの世は終わりだ」と、思春期に芸術に触れることの重要性を力説する。(藤井克郎)
★ステレオタイプを避けて移民問題を扱う
インタビューは東京の配給会社から、パリに住むマンカ監督とリモートでつないで、フランス語の通訳をやはりリモートで介して行われた。取材の冒頭、画面越しに写真を撮らせてほしいとお願いすると、快くOKしてくれたものの、「20分後に約束があってもう家を出るから、撮影は最初にしてほしい」との要望。以後はどうやら自転車で移動しているらしく、画像は途絶え、音声だけのやり取りになった。海外とのリモート取材は2度目だったが、移動中の相手とのインタビューは長い記者人生でも初めてで、新鮮というか、驚いたというか……。
「母へ捧げる僕たちのアリア」は、そんな若いマンカ監督が手がけた初の長編映画だ。舞台は南フランスのとある海辺の町。母親が北アフリカ系、父親がイタリア系の移民の家庭で育った中学生、ヌール(マエル・ルーアン=ベランドゥ)は、寝たきりで意識の戻らない母と3人の兄とともに、貧困地区にある古い団地で暮らしていた。母が大好きだったオペラのアリア「人知れぬ涙」を毎朝、大音量で聴かせることで、意識を取り戻してくれることを期待するが、武骨な兄たちからはうるさがられている。
夏休みに入り、奉仕活動で中学校の修繕の仕事をさせられたヌールは、ある教室からオペラの歌声が流れてくるのを耳にする。歌に吸い寄せられて教室をのぞくと、オペラ歌手のサラ(ジュディット・シュムラ)が生徒たちに講座を開いているところだった。サラに促されて「人知れぬ涙」を歌う羽目になったヌールだが、音楽の才能を見抜いたサラから教室に通うよう勧められる。
やがてオペラに目覚めたヌールと、それぞれにごたごたを抱えた3人の兄たち、それに母の介護問題などが絡み、映画は重層的に展開していく。「この映画を通して、さまざまな境界を乗り越えることの重要性を説きたかった。芸術に境界はなく、それは今のフランスにとってとても必要なことなのです。ただこうした社会問題をテーマにする場合、陥りがちなのが風刺的になってしまうこと。ステレオタイプの危険性は十分に意識していたので、バランスよく描くことを心がけました」とマンカ監督は打ち明ける。
★先生に連れられて見た舞台で……
バランスという点で言うと、ヌールたち兄弟が置かれた生活環境と、ヌールが影響を受けるオペラの世界はあまりにも離れすぎていて、そのミスマッチ感覚が作品にぴりっとした刺激をもたらしている。実はヌールが芸術に触れてその魅力に取りつかれるのは、マンカ監督の体験を投影したものだ。
監督自身はパリ郊外の労働者階級の暮らす地域で育った。母はスペイン人、父はイタリア人の移民の出自で、周囲にも移民の人たちがいっぱい住んでいた。
ヌールと同じ14歳のとき、あるフランス語の先生と出会って人生が変わる。その先生が劇場に連れていってくれたことで演劇の魅力に目覚め、以来、芝居の世界のとりこになる。俳優、舞台演出家として研鑽を積み、18歳のときにフランスの俳優で劇作家、エディ・ティレット・ド・クレルモン=トネールの戯曲を演出するなど頭角を現す。その後、映画づくりにも興味を持つようになり、今回の「母へ捧げる僕たちのアリア」で長編デビューを果たした。
「映画の長さが自分に合っていたというのもあるし、それに一つのチームとして集団の仕事がしたいと思っていた。映像は空間を自由に使って撮影することができるし、以前から興味があったんです。もちろん舞台も恋しいし、また戻ることもあると思いますが」とマンカ監督。
「母へ捧げる僕たちのアリア」では、ヌールはオペラと出合うことで芸術の素晴らしさを知り、どん底の生活に希望を見いだす。中でも毎朝、母に聞かせるドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」のアリア「人知れぬ涙」が印象的だが、監督がこの曲を選んだのは愛について語っている歌だったということが大きい。
「それにオペラの主人公が田舎の農民ということにも引かれた。アリア自体、とてもすてきな歌だが、みんなが何度も耳にするような有名な曲ではなかったというのもこの曲を選んだ理由です。ヌールを演じたマエルはもともと俳優で、最初は歌手の子にしようかどうか悩んだが、声楽の先生について歌のレッスンを受けて、見事なパフォーマンスを披露してくれた。彼も相当、努力したと思います」と満足そうに語る。
★独裁者は夢を見ることを禁じる
なぜ若い時分に芸術と出合うことが大切なのか。「仕事に就いてからだと時間を取るのが難しくなるし、人生の選択の岐路に立っているときに出合うことに意味がある」と指摘するマンカ監督は、芸術の重要性について「私にとっては非常に明快なことだ」と言う。
「それは独裁者がやってきた歴史を振り返れば明らかだと思う。独裁者がまず初めにするのは、芸術、文化を取り締まること。人々は芸術の中に夢を見るし、芸術と触れることで恋をすることも覚える。独裁者は希望を抱くこと、ほかの考えを持つこと、そして夢を見ることを禁じるのです。芸術は喜びと強さを与えてくれるものであり、芸術がなければ社会は滅びます」
映画もまさにそんな芸術の一つで、映画を見ることで人々は夢を見ることができると強調する。「それがなければこの世の終わり」とまで言い切るマンカ監督は、今後も映画は撮り続けたいと夢を抱く。すでに次回作のシナリオを書き終えたところで、うまくいけば来年初めには撮影できそうだという。
その前に今回の作品について「日本での成功を祈っています」と言い残して、顔を見せることなくパリの雑踏に消えていった。
ヨアン・マンカ(Yohan Manca)
1989年生まれ。フランス・パリ郊外の出身。俳優と舞台演出家としてキャリアをスタートさせ、18歳のときにエディ・ティレット・ド・クレルモン=トネールの戯曲「なぜ私たちは去ったのか―兄さんたちとぼく」を演出。舞台の仕事と並行していくつかの短編映画に出演後、2012年、短編映画「Le sac」を監督。その後、短編の「Hedi & Sarah」「Red Star」を経て、初長編「母へ捧げる僕たちのアリア」を発表。2021年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品されるなど、国内外で注目されている。
「母へ捧げる僕たちのアリア」(2021年/フランス/108分)原題:La Traviata Mes frères et moi
監督・脚本:ヨアン・マンカ
出演:マエル・ルーアン=ベランドゥ、ジュディット・シュムラ、ダリ・ベンサーラ、ソフィアン・カーメ、モンセフ・ファルファー ほか
配給:ハーク 配給協力:FLIKK 字幕翻訳:手束紀子
2022年6月24日(金)、シネスイッチ銀座など全国で順次公開。
© 2021 – Single Man Productions – Ad Vitam – JM Films
パソコン画面を通して挨拶するヨアン・マンカ監督=2022年6月1日(藤井克郎撮影)
フランス映画「母へ捧げる僕たちのアリア」から。夏休みを迎えたヌール(左、マエル・ルーアン=ベランドゥ)は…… © 2021 – Single Man Productions – Ad Vitam – JM Films
フランス映画「母へ捧げる僕たちのアリア」から。ヌールはサラ(ジュディット・シュムラ)のレッスンを受けることになるが…… © 2021 – Single Man Productions – Ad Vitam – JM Films