政治を超える愛の力を信じたい

 バルト三国で最も北に位置するエストニアは、かつてソ連に占領されていた時代は自由を制限され、もちろん同性愛は認められていなかった。そんな1970年代のエストニアを舞台に、ソ連軍基地で兵役に就く若者とパイロット将校との愛と葛藤を描いた人間ドラマ「Firebird ファイアバード」が公開されている。自らの経験をつづったロシア人俳優の手記を基に映画化したのは、エストニア出身のペーテル・レバネ監督(50)だ。日本での劇場公開に合わせて来日したレバネ監督は「政治的な背景よりも、純粋な恋愛感情を描いたラブストーリーにすることに注力した」と笑顔を見せる。(藤井克郎)

★70年代のソ連軍で本当にあったラブストーリー

 1970年代の後半、19歳のロシア人青年、セルゲイは、エストニアのソ連軍基地で厳しい兵役をこなしながら、モスクワで役者になることを夢見ていた。そんなある日、基地にパイロット将校のロマンが配属されてくる。身の回りの世話を任されることになったセルゲイは、同じ写真が趣味ということもあり、ロマンに引かれるようになる。頻繁にロマンの部屋に誘われるうちに、2人は離れられない関係になるが、その秘密は軍隊では決して誰にも悟られてはならなかった。

 原作はロシア人俳優のセルゲイ・フェティソフが90年代に書いた回想録で、レバネ監督はエストニアで開かれるタリン・ブラックナイト映画祭のディレクターを通じて、この本のことを知った。「ちょうど私が映画の題材を探しているということを聞きつけて、この映画化を持ちかけてきたんです」とレバネ監督は振り返る。

 原作を読んだ監督に湧き上がったのは、信じられないという驚きだった。70年代のソ連軍で、こんなラブストーリーが本当に可能だったのか。ここから感じ取ったのは、人はどんなに困難な状況にあっても恋に落ちる、という真実だった。

「映画化に当たって心がけたのは、原作に対して細部にまで正直に向き合うということでした。70年代のソ連という社会的な背景が2人の関係にどんな影を落とすかということも、しっかりと描きたかった。ただ社会派リアリズムに向かうのではなく、あくまでも19歳の青年が純粋に美しいと感じた部分に、より力を込めました。自分というものを隠して嘘をついて生きるつらさを描きつつも、最も強調したかったのは2人の愛の姿です」

 原作者のフェティソフとは、脚本に取りかかってからモスクワを訪れて対面した。わずか3日間の交流だったが、とても温かみのある人間性に触れることができた。ロマンとの思い出について否定的な感情があれば、映画での描き方も変えなければならない。でも彼は全く後悔していなかったという。

「彼が3日間の最後に語ったのは、この物語を描くのなら、政治に関する映画ではなく愛についての映画にしてほしい、ということでした。そのメッセージを伝えるのが、私の大事な役目なのだと思います。2021年にロンドンでワールドプレミアが行われたとき、ご本人にはぜひ出席してもらいたかったのですが……」

 フェティソフは映画の完成を見ずに、2017年に65歳でこの世を去っている。

★ウクライナ、ロシアなど混成チームならではの恩恵

 映画化に当たっては、ほかにもさまざまなことに心を砕く必要があった。例えば言葉の問題だ。主演のセルゲイを演じたのは「博士と彼女のセオリー」(2014年)などに出演しているイギリスの若手俳優、トム・プライヤーで、共通の友人であるハリウッドのプロデューサーからの推薦だった。企画に賛同し、脚本も共同で手がけることになったが、もしせりふがロシア語になるのなら、主演は自分ではなくてもいいと言ってくれた。だが何人かロシア人俳優に声をかけたものの、キャリアが傷つくリスクを背負ってまで演じることはできないという理由で、全員から断られた。

 そんなとき、英語で撮るべきだと助言してくれたのが、ロシア映画「裁かれるは善人のみ」(2014年、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)などで知られるプロデューサーのアレクサンドル・ロドニャンスキー氏だった。投獄の恐れからロシアを離れざるを得なくなったロドニャンスキー氏からは、この映画はロシアで上映されるのは不可能で、多くの人に見てもらうには英語が強みになると指摘される。ロシアが舞台のイギリス映画『アンナ・カレーニナ』(2013年、ジョー・ライト監督)を参考に、イギリスなまりの英語のせりふにすることを選択することになった。

 ほかのキャスティングは、イギリス中心にのべ4000人もの俳優をピックアップ。そんな中からロマン役のオレグ・ザゴロドニーを見いだしたが、9月頭に撮影が始まるのに、彼と出会ったのはようやく5月末のことだったという。「彼がオーディションの部屋に入ってきた瞬間、ああ、僕たちのロマンだと思いました」

 このザゴロドニーはウクライナ人で、2人と大きく関わる女性兵士役のダイアナ・ポザルスカヤはロシア人。さらにはイギリス人、エストニア人などキャスト、スタッフは14もの国籍からなる国際的な編成だった。撮影はロシアのウクライナ侵攻前だったが、「さまざまな視点が持ち込まれたことで、素晴らしい結果になった。政治が介入しなければ、同じ映画人同士、絶対にうまくいく。ほんの一部の政治家のせいで悲劇が起きているが、ウクライナ人もロシア人も個々のレベルでは戦いなんて望んでいないと信じています」と言葉をつなぐ。

★初のLGBTQ映画を迎え入れたエストニアの人々

 ソ連占領下の1973年にエストニアで生まれたレバネ監督は、交換留学生としてオックスフォード大学で学んだ後、ハーバード大学で経済学と心理学、視覚芸術を専攻。卒業後は南カリフォルニア大学の映画芸術学部に進んで、監督と制作の勉強を積んだ。

「留学したのは、ソ連政権下のエストニアは暮らしが貧しくて、家族に楽をさせたかったから。経済学を学ぶうちに自分のやりたかったことがだんだんと見えてきて、そう言えば高校生のころ、VHSを編集して作品を作っていたなと思い出した。こうしてビジネスの道からクリエイティブな方面に進んだのですが、作品を制作や配給をする上で経済学の知識は大いに役に立ちました」

 やがてペット・ショップ・ボーイズやモービーといったアーティストのミュージックビデオで頭角を現し、2014年には準備に半年をかけ、ロビー・ウィリアムズのコンサートの模様を27台ものカメラを駆使して2時間の作品に仕上げた。

 そこからこの「Firebird ファイアバード」への流れになっていったが、当初はエストニア初のLGBTQ(性的少数者)を扱った映画ということで不安もあったという。「007シリーズ」並みの大規模な公開を予定していたが、保守派の政治家から妨害の声明が出るのではないかという恐れがあった。

「でも否定的な論評は一つも出なかった。かなり保守的な新聞のコラムニストで、以前にはLGBTQに否定的な意見を書いている人からインタビューを受けたのですが、『同意できない部分はあるものの、このラブストーリーは極めて美しい人間関係を描写している。誠実さを感じる映画だ』と肯定的な記事が載った。正直、驚きましたね」

★モスクワ国際映画祭では無人の客席に向けて上映

 エストニアでの公開はロングランとなり、LGBTQの当事者ではない観客が9割を占めた。公開後1カ月くらいたって監督がカフェにいたら、年配の見知らぬ女性に声をかけられ、「あなたの映画を見ましたが、とっても好きな作品です」と言われたこともある。そんな奇跡が頻繁に起こったという。

「ただロシアでは案の定、状況が全く違いました。ロシアで唯一、この作品を見ることができたのは海賊版で、だからインターネットの不法配信に対しても、あえて何も措置は取りませんでした」と少しでも多くの人の目に触れさせることを優先させたと打ち明ける。

 ロシアでは今もLGBTQを扱った作品は禁じられているが、驚いたことには、この映画がモスクワ国際映画祭で上映される148作品の1本に選ばれた。ところがその情報が公になるや否や、口汚く抗議のデモを繰り広げる人々が現れ、政治問題にまで発展する。結局、上映を取りやめるのではなく、チケットも販売せず、メディアも入れず、無人の客席に向かって映画を上映するという、いかにもロシア的な決断がなされることになった。

「映画祭のスタッフの皆さんの苦悩には、私も思いを寄せるところです。この映画で描いた愛の力が、少しでも多くの人に届くことを願っています」とレバネ監督は、映画の可能性に希望を託していた。

◆ペーテル・レバネ(Peeter Rebane)

1973年生まれ。エストニア出身。オックスフォード大学に留学後、ハーバード大学で経済学と心理学、視覚芸術を専攻。卒業後は南カリフォルニア大学で監督、制作の勉強を積んだほか、ジュディス・ウェストンのスタジオで監督のための演技訓練を受ける。数々のミュージックビデオを監督し、2014年のロビー・ウィリアムズのコンサート風景を収めた長編作品は高い評価を受けた。またバルト三国でのアーティストや国際的なイベントのプロデュースも手がけている。

◆Firebird ファイアバード(2021年/エストニア、イギリス/107分)原題:Firebird

監督・脚色:ペーテル・レバネ 共同脚色:トム・プライヤー、セルゲイ・フェティソフ 原作:セルゲイ・フェティソフ

出演:トム・プライヤー、オレグ・ザゴロドニー、ダイアナ・ポザルスカヤ、ニコラス・ウッドソン ほか

日本語字幕翻訳:大沢晴美 配給:リアリーライクフィルムズ

2024年2月9日(金)から東京・新宿ピカデリーなど、全国で順次公開。

© FIREBIRD PRODUCTION LIMITED MMXXI. ALL RIGHTS RESERVED / ReallyLikeFilms

「愛の物語にすることに注力した」と語るペーテル・レバネ監督=2024年2月7日、東京都新宿区(藤井克郎撮影)

「愛の物語にすることに注力した」と語るペーテル・レバネ監督=2024年2月7日、東京都新宿区(藤井克郎撮影)

ペーテル・レバネ監督のエストニア、イギリス合作「Firebird ファイアバード」から。二等兵のセルゲイ(左、トム・プライヤー)と将校のロマン(オレグ・ザゴロドニー)は互いに強く引かれ合う © FIREBIRD PRODUCTION LIMITED MMXXI. ALL RIGHTS RESERVED / ReallyLikeFilms

ペーテル・レバネ監督のエストニア、イギリス合作「Firebird ファイアバード」から。旧ソ連軍の装備品、軍服などの再現には細心の注意を払ったという © FIREBIRD PRODUCTION LIMITED MMXXI. ALL RIGHTS RESERVED / ReallyLikeFilms