25年の時を経て極限の人を再定義

 描きたかったのは、山というよりも人生だった。「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」は、TBSで長く報道に携わってきた武石浩明監督(55)が、約25年前に取材した貴重な映像を交えて世界的なクライマーの山野井泰史さん(57)の生き方に迫った人間賛歌のドキュメンタリーだ。自らも山登りをこよなく愛する武石監督だが、「山のことを知らない人にも面白いと思ってもらえるような作品にしたかった」と思いを語る。(藤井克郎)

★世界で一番難しい壁への挑戦を初取材

「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」は、同じく登山家の妻、妙子さんと伊豆で暮らす山野井さんの現在の生活を中心に、ヒマラヤなどの未踏ルートに挑戦してきた過去の記録から、2021年に登山界の最高栄誉であるピオレドール生涯功労賞をアジア人として初めて受賞するまで、その激動の人生を丁寧に見つめた作品だ。10代の頃から世界の壁に挑み続けてきた山野井さんは、1988年に23歳でカナダ・バフィン島トール西壁のソロ初登攀に成功。以後、90年に南米アンデスのフィッツ・ロイの冬季ソロ、92年にヒマラヤのアマ・ダブラム西壁の冬季ソロ、94年にやはりヒマラヤのチョー・オユー南西壁の新ルートソロと、数々の難壁の登頂を成し遂げてきた。

 そんな山野井さんが96年に挑んだのが、世界一難しいと言われるヒマラヤのマカルー西壁のソロ登攀だった。現在に至るまで誰も成功したことがなく、山野井さんも結局は跳ね返されてしまったが、91年にTBSに入社して情報番組に携わっていた20代の武石監督は、この挑戦に同行取材を申し込んだ。

「あのとき、山野井さんは実力も気力も全盛期で、それが世界で一番難しい対象に挑戦して、ぼろぼろになって敗れた。その当時は悔しさしかなかったと思います。でも今になって振り返ると、ただの失敗には見えない。マカルー西壁はその後も世界の名立たるクライマーが挑戦し続けていますが、ほとんどの人が山野井さんの高さまで行っていません。それどころか、挑戦する勇気を持つ人さえもなかなか現れないくらいの対象です。恐らく世界に2番目に難しいところに行っていたら、僕は取材していなかったかもしれないですね」と武石監督は振り返る。

★自分には到底できないという最高レベルの人

 このときはテレビ番組の「報道特集」で放送されたが、それから25年。山野井さんはその後も難壁に挑み続け、2002年にはヒマラヤのギャチュン・カン北壁のソロ登頂に成功したものの、下山時に雪崩に巻き込まれ、両手と右足の指を計10本失う。今回の映画には、そんなハンディキャップにもかかわらず、今も壁を果敢に攻め続ける山野井さんの不屈の姿も映し出される。

 一方、武石監督はその後、社会部記者として警視庁記者クラブや司法記者クラブなどを担当。2017年には社会部長に任じられるが、趣味の登山から離れることはなかった。何しろ立教大学在学中は山岳部に所属し、TBS入社後の1993年にはチベットのチョモロンゾ北西壁の未踏ルート初登頂に成功。現在も母校の山岳部監督を務めるほどだ。

「でも山野井さんとはレベルが天と地くらい違います。山野井さんは憧れというか、自分の手が届かないくらいすごい人です。俺でもできるなという人はあまり取材したくない。自分には到底できないというレベル、まさに極限の人だから、描いてみたいと思ったんですよね」

 2021年の春ごろ、思い立って山野井さんに取材を申し込む。「もともと取材とか好きな人じゃない。あれからもう四半世紀、25年ですよ、と言ったら、はあ、みたいな感じでしたね」と打ち明けるが、「武石さんの気が済むならやってください」と、最終的には密着取材をOKしてくれた。

★コマーシャリズムを排除して自分にだけ向き合う

 現在の山野井さんを見つめる映像で印象的なのは、妻の妙子さんと暮らす伊豆での日常の風景だ。自宅の庭で野菜を育てたり、亀と戯れたり、何ともほっこりした場面があるかと思えば、近所の洞窟の壁を不自由な指で何とか登ろうとして「ちくしょう」と声を荒らげるなど、多様な表情が映っている。山野井さんにとっては、8000メートル級の峰々も伊豆の海岸も挑むべき壁として違いがない。そこにあるのは誰の力も頼らずに登りたいという思いだけで、その純粋な気持ちが周りの人たちに感動と希望を与えているということが、この映画からは伝わってくる。

「山野井さんが挑む本当に厳しい登山は年に1回なんですよ。それを目指して計画を立てて、イメージトレーニングもして、という人なんですね。山って幅が広くて、ヒマラヤのソロクライミングみたいな世界もあれば、ごろんと大きな岩をちょっとした手掛かりで越えられるかという楽しみもあって、いろいろと奥が深いんです。山野井さんはそのすべてを楽しんでいるというところがありますね」

 武石監督は山野井さんのすごさについて、フリークライミングのレベルを世界最高難度に高めるための徹底した姿勢を挙げる。フリークライミングができなくてもヒマラヤに登ることはできるが、山野井さんはとことんまでトレーニングを積んで準備を怠らない。人生そのものを懸けている人だ、と言い切る。

「登山で生きていこうと思ったら、普通は山岳ガイドをするとか、登山ショップで働くとか、登山以外に時間を掛けなきゃいけない。でも山野井さんの夫婦は、そういうことは全くやっていない。それでも何とか暮らしていけるって言うんです。米や野菜は妙子さんの実家から送られてくるし、畑もやっているし、無駄遣いもしないからでしょうかね」と解説する武石監督によると、スポンサーも一切つけていないという。

 理由は、判断が鈍ることを恐れているからだと推察する。スポンサーがつけば、命に関わるぎりぎりのところで無理して登らなければいけないという気持ちが出るかもしれない。

「それとお父さんの教育方針で、山に掛けるお金は自分で稼げというのを中学生くらいから叩き込まれていて、1円ももらっていないそうです。大抵のクライマーはスポンサーのマークをつけていたりして、そういったコマーシャリズムが入ってくると、だんだんと憧れるような登山からは外れていく。山野井さんのように一切のコマーシャリズムを排除して自分にだけ向き合うような人は、ほかにほとんどいないと思います」

 ちなみに武石監督によると、この映画にも登場するポーランドの世界的クライマーで、マカルー西壁に挑んでこれまでの最高地点まで到達した記録を持つヴォイテク・クルティカも、コマーシャリズムを徹底して排しているという。

★人生賛歌を大スクリーンで体感してほしい

 武石監督自身は、登山に負けず劣らず映画も大好きだった。初めて映画館で見た映画は「スーパーマン」(1978年、リチャード・ドナー監督)で、「スター・ウォーズ」シリーズやスティーブン・スピルバーグ監督作品などから映像への興味を持つようになる。やがてドキュメンタリーを作りたくてテレビ局を志望するが、TBSに入社して最初に配属されたのはワイドショーだった。近年は社会部長に報道局次長、さらに2022年7月からは系列局の富山・チューリップテレビの報道制作局専任局長に出向と管理職の道を歩んでいるが、そんな中でも現場への意欲が衰えることはなかった。

「大抵の人は偉くなると作らなくなってしまう。徹夜もするし、誰かに面白くないと批評されるのは嫌だし、そういうのはしんどいですからね。でも本当に作るのが好きな人は、ずっとやり続けると思うんです」と話す武石監督にとって、今回は当初から劇場公開を目指して取り組んだ作品だった。

「山野井泰史を再定義するということを掲げていました。彼の人生の中で25年前のマカルー西壁がどういう位置づけかということもちゃんと描けたし、僕もそうだが、山野井さんにとってももやもやしたものが払拭できたんじゃないか。感無量です」と満足そうな武石監督は、特に今回の映画は映画館で見てほしいと力を込める。

「僕もスマホやテレビの画面で見ることはあるが、映画は大スクリーンで見た方が絶対に面白いし、心に響くものがあると思う。体感の度合いが違います。今回、知人から、ビューティーショットが少ないんですね、と言われたが、きれいな風景とか迫力のある映像だけで押す映画ではない。人生賛歌のような作品にしたいなと思っていたので、ぜひそこのところを映画館で体感してほしいですね」

武石浩明(たけいし・ひろあき)

1967年生まれ。千葉県出身。1991年、TBSに入社。ワイドショーの「モーニングEye」を皮切りに「JNNニュースの森」「イブニング・ファイブ」「みのもんたの朝ズバッ!」などを担当。現在は出向先のチューリップテレビ(富山市)で報道制作局専任局長を務める。映画の監督作としては、ほかに短編「GReeeeN初告白 東日本大震災から5年にHIDEが語っていたこと ディレクターズカット版」がある。

「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」(2022年/日本/109分)

監督:武石浩明 語り:岡田准一

撮影:沓澤安明、小嶌基史、土肥治朗 編集:金野雅也 MA:深澤慎也 音楽:津崎栄作

企画・エグゼクティブプロデューサー:大久保竜 チーフプロデューサー:松原由昌 プロデューサー:津村有紀 TBS DOCS事務局:富岡裕一 協力プロデューサー:石山成人、塩沢葉子

製作:TBSテレビ 配給:KADOKAWA 宣伝:KICCORIT

2022年11月25日(金)から、角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷など全国で順次公開。

©TBSテレビ

ドキュメンタリー映画「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」を手がけた武石浩明監督=2022年10月28日、東京都港区(藤井克郎撮影)

ドキュメンタリー映画「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」を手がけた武石浩明監督=2022年10月28日、東京都港区(藤井克郎撮影)

映画「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」から。マカルー西壁に挑む山野井泰史さん ©TBSテレビ

映画「人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版」から ©TBSテレビ