第144夜「金の糸」ラナ・ゴゴベリゼ監督
年明け早々に飛び込んできた岩波ホールの7月閉館のニュースは大きな衝撃だった。何しろ当方が上京した1979年当時からあの神保町の交差点には岩波ホールが存在し、ここでしか見られない良質の作品をこつこつ上映していた。空気のようにあって当たり前の映画館がなくなってしまうというのは、ちょっと想像がつかない。
思えば1990年代のミニシアター全盛期、岩波ホールだけでなく、単館系の作品は文字通り都内1館だけで封切られていた。それぞれのミニシアターで上映作品の傾向があって、シネ・ヴィヴァン・六本木はちょっととんがったアート系、渋谷のシネマライズはポップカルチャー系、同じ渋谷のシネ・アミューズは日本を含む先鋭的なアジア映画、中野武蔵野ホールは若手の自主制作という具合で、見る側も上映館で作品を判断するようなところがあった。
そんな中で、ミニシアターの元祖とも言うべき岩波ホールは、国内外の知られざる名作を独自の目利きで発掘、紹介してきた。宣伝にも熱心で、監督インタビューはホールの1階下にある9階シネサロンで行うことが多く、ヘルマ・サンダース=ブラームス監督やジョン・セイルズ監督ら名匠巨匠に会うことができたのは忘れがたい思い出だ。「ミンヨン 倍音の法則」(2014年)のときは佐々木昭一郎監督に5時間も話を聞いて、企画、広報担当の原田健秀さんにあきれられたこともある。
その原田さんがライフワークとして取り組んでいたのが旧ソ連のジョージア映画で、2018年には新旧の名作約20本を集めて「ジョージア映画祭 コーカサスの風」を開催。この2022年2月にも第2弾が企画され、当方も何度か足を運んだが、熱い映画ファンで活況を呈していた。
映画祭に続いて公開されるのが、ジョージアの伝説的な女性映画作家、ラナ・ゴゴベリゼ監督が91歳で撮った新作「金の糸」だ。老いをテーマにしているとは言え、みずみずしい感性で紡ぎ出した映像はきらめきにあふれ、映画は年齢とは関係がないということを改めて認識した。
作家のエレネ(ナナ・ジョルジャゼ)は今日が79歳の誕生日だが、家族の誰も気づいていないことにがっかりしていた。それどころか、一緒に住む娘から夫の母親であるミランダ(グランダ・ガブニア)が引っ越してくると聞かされ、冗談じゃないと憤慨する。認知症の症状が出始めたミランダを一人にはさせられないと娘は言うが、「だったら自分が彼女の家に移る」とエレネは悪態をつく。
そんなとき、エレネに一本の電話が入る。60年前の恋人だったアルチル(ズラ・キプシゼ)からで、エレネの誕生日を祝う電話だった。久しぶりにアルチルの声を聞き、ミランダも絡んだ60年前の出来事がエレネの脳裏に浮かぶ。作家という表現者であるエレネと、旧ソ連時代は政府の高官だったミランダとの間で、かつて何があったのか。その因縁を中心に、三者三様の老いとの向き合い方が描かれていく。
面白いのは、人間いくつになっても嫉妬や欲望から逃れられないという描写だろう。片や認知症が進んで近所を徘徊するミランダは、今も上から目線でものを言い、こなた足腰が弱って外出ができないエレネは、ミランダの認知症を心配する素振りさえ見せない。アルチルもほんの些細なことで怒って、エレネへの電話を切ってしまうし、高齢者だからと言ってちっとも枯れた境地にはならない。いつまでもぎらぎらしている。
そんな物語の中に、古今の文学や詩歌からの引用など心に響くせりふがちりばめられていて、中でも「愛は老いから守る」という言葉は、さすがは超高齢者のゴゴベリゼ監督ならではの含蓄がある。「金の糸」のタイトルも、日本の陶磁器修復技術である金継ぎから取られており、老いを生きる一つの諦観にもなっている。
さらに映像の工夫がまたスタイリッシュで鮮やかだ。2階から眺める向かいの若夫婦の喧嘩や、ご近所さんがはしごを登って話しかけにくる場面など、遠近法を巧みに活用してはっとさせる。旧ソ連への社会批判も込められていて、90歳を超えてもまだまだ第一線の映画作家であることを証明する。
やはりジョージアは映画大国なんだなと改めて感じ入ると同時に、さて岩波ホールが閉館してしまうと、こういう味のある大人の映画はどこで見ることができるのか。今から心配でならない。(藤井克郎)
2022年2月26日(土)から岩波ホールなど全国で順次公開。
© 3003 film production, 2019
ラナ・ゴゴベリゼ監督のジョージア、フランス合作映画「金の糸」から。79歳の誕生日を迎えたエレネ(左、ナナ・ジョルジャゼ)は…… © 3003 film production, 2019
ラナ・ゴゴベリゼ監督のジョージア、フランス合作映画「金の糸」から。トビリシの美しい石畳の風景が、老いと記憶の物語を彩る © 3003 film production, 2019